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晩年こそ本番。42歳会社員、喋る猫と現代ダンジョン攻略──ここからが本番だ  作者: 七乃白 志優
第七章:守られる檻、ほどける決断

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093話『月初と、海の階層』

──5月1日、月曜日。


世間はGWの空気で、街が少しだけ軽い。

でも月初は、月初だ。軽くならない。


僕はスーツの上着だけ羽織って、鞄を持った。


その横で――コユキが、忙しい。


廊下を小走りに行っては戻り、また行っては戻る。

姿は見えているのに、僕の内側の“回線”が落ち着かない。


繋がる。

ふっと軽くなる。

切れる。

胸の奥が一拍だけ空く。


(……94階と往復してるな)


靴を履きながら、僕は言った。


「そんなにレグリスが気になるなら、今日は留守番でもいいよ」


コユキは一瞬、足を止めた。

それから、尻尾だけが小さく揺れる。


「……気になる。教育、続きがあるし」


「だろ。無理して付いてこなくていいよ」


「でも――」


コユキは諦めたみたいに顔を上げる。


「……秀人の共有が切れるのは、もっと気になる」


正直だ。

そして、ありがたい。


「わかった。じゃあ一緒に行こう」


そのやり取りの横で、僕はブレスレットに指を当てる。

中でディアが小さく息を整えた気配がした。


『無理はしないでね。今日は会社で“仕事”の日でしょう?』


『仕事のあとも、仕事だけどね』


『……それを言うなら、あなたは年中よ』


静かな声で、きっちり刺してくる。

僕は受け流すふりをして、玄関の鍵を閉めた。


オフィスは、GW前の静けさが残っていた。


クライアントは休み。

有給を繋げている人も多い。

席が空いている分、通路の音がよく響く。


それでも月初の処理は止まらない。

請求。検収。締め。

現場が止まっても、数字は締め日に寄ってくる。


事務方の島に顔を出すと、すでに数人がPCと向き合っていた。


「おはようございます。出てますね」


返ってきたのは、疲れた笑い。


「おはようございます。月初だけは、連休関係ないです……」


「ですよね。僕も――今日はその穴埋めで来ました。サブマネが有休で、GWつなげてるので」


机の上には、各社のEDIのログイン情報が並んでいる。

この時代、AIが資料の叩き台くらいは平気で作る。

集計も、照合も、提案文も――だいたい出してくる。


でも。


「結局、最後は“各サイトにログインして押す”が残るんですよね」


「残りますね……。しかも会社ごとに癖が違うっていう」


システムは進むのに、入口も仕様もバラバラだ。

人間が“橋渡し”になる。

そういう仕事が、いちばん地味で、いちばん減らない。


僕は端末を開き、溜まっていた承認を淡々と捌く。

チャットも返す。差し戻しも直す。

午前で終わらせると決めていたから、手は迷わない。


(……よし。ここまで)


時計を見る。

そろそろ、帰還者の顔に切り替える時間だ。


新大阪駅。


平日の昼間なのに、駅は人が多い。

連休の移動が始まっているのだろう。

旅行カバンの車輪の音が、やけに生活感を運んでくる。


……その生活感のまま、僕は一度、腹を満たした。

駅ナカの店で、手早く昼。

味はちゃんとしているのに、記憶には残らないタイプのやつ。


ゲートの前に立つと、空気が少し変わった。

いつもの、あの“境目”の圧だ。


コユキは影の中で、気配だけを整える。


『行くよ』


『うん。43階から』


深呼吸ひとつ。

僕は手を伸ばした。


43階。


空気が乾いている。

地形は素直で、敵も“普通”だ。


普通、というのは――

油断できる、という意味ではない。

ただ、変に時間を持っていかれない。


僕は派手に勝たない。

ただ、詰まらせない。


45階に降りたとき、景色が変わった。


海が見える街。

高台から、遠くの水平線まで抜ける。

潮の匂いすら、ここにはある気がした。


(……綺麗だな)


見晴らしのいい階段が、街へ続いている。

観光地のポスターみたいな構図。


――だからこそ、嫌な予感がした。


一段、踏み出す――直前。

足裏に伝わる“硬さ”が、他と違う。


(……噛む)


僕は体重を預けないまま、つま先でほんの少しだけ触れて止めた。


次の瞬間、階段の縁が、わずかに沈む。

遅れて、空気がきゅっと鳴った気がした。

針じゃない。落とし穴でもない。

関節を持っていかれる類の、いやらしい仕掛け。


「そこ、だめ」


コユキが先に言う。僕が言うより早い。


「踏んでない。触っただけ」


「それで十分。嫌な罠」


僕は息をひとつ吐いて、足を引く。


代わりに、空間斬糸(スペース・スレッド)を細く走らせ、沈む縁の“引っかかり”だけを断った。


カチ、と乾いた音。

階段はもう沈まない。


痛みはない。

でも、背中に嫌な汗だけが残る。


(……歓迎されてないな、この街は)


降り切って街に入ったところで、それは来た。


脚はタコの触手。手はカニのハサミ。

胴体は人間の形なのに、顔だけが――人と、イソギンチャクがくっついたみたいに揺れている。


数が多い。

街角の影から、路地から、屋根から。


僕は短く組み立てる。


「行く」


コユキが影で加速する。

白い影が横から入り、魔爪強化(シャドウ・クロー)の爪が走る。


スーラも短く跳ねた。

ぷに、と触れて、じわりと溶かす。


僕は空間斬糸(スペース・スレッド)を細く、必要なだけ。

腕を落とす。脚を落とす。ハサミの軌道を止める。


街の“景色”を壊さないまま、戦場だけを閉じていく。


45階を抜けた時点で、足が笑っていた。


46階は、浜辺だった。


砂。波音。

そして――海から来る。


浜辺のモンスターだけじゃない。

沖から、巨大な影が攻撃してくる。

水の槍。潮の塊。遠距離の圧。


(射程がある、ってだけで面倒が増える)


防御を厚くし、歩幅を小さくする。

前に出ると撃たれる。引くと囲まれる。

判断が一拍遅れると、時間が溶ける階層だ。


コユキがスキルを使って誘導する。

スーラが足元を溶かし、動きを止める。

ディアの声が短い。


「焦らない。数を減らす」


言われなくても、そうするつもりだった。

仕事のときと同じだ。

火消しじゃない。火が広がらないように、順番を握る。


気づけば、空じゃない“天井”の色が沈んでいた。

夕暮れの演出。――この階層の照明は、時間を真似る。


手元の時計を見る。現実の数字だけは嘘をつかない。


21時半。


「……今日は、ここまでだ」


体力は残っている。

でも、“集中”が薄くなる境目は分かる。そこから先は判断が雑になる。

明日も午前から仕事だ。ここで欲張って寝不足になるのは一番まずい。


それに、階層が深くなるほど敵の当たりが露骨に重くなる。

同じ一撃でも、受けた瞬間の「削られ方」が違う。


攻略は、勢いじゃなく継続。

僕は息を整えて、撤退の段取りに切り替えた。


帰宅後、シャワーで砂と汗を落とす間に、ディアが夕食を整えていた。

湯気の匂いだけで、家に戻ってきたと分かる。


「明日、在宅?」


「うん。午前の仕事は在宅でする」


「ボクは、明日はレグリスといる」


「……教育?」


「教育」


ディアが小さく笑った気配がした。


「生活が回っているわね」


「回ってる。……助かってる」


食後、スマホでニュースを軽く流し見する。

週末の件は――出ていない。


(……もう大丈夫だと、信じていいのかな)


胸の奥の硬さは、まだ残っている。


布団に沈みながら、短く息を吐く。


(明日も午前中は仕事だ。新卒の受け入れ準備をしよう)


そう決めて、目を閉じた。


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