093話『月初と、海の階層』
──5月1日、月曜日。
世間はGWの空気で、街が少しだけ軽い。
でも月初は、月初だ。軽くならない。
僕はスーツの上着だけ羽織って、鞄を持った。
その横で――コユキが、忙しい。
廊下を小走りに行っては戻り、また行っては戻る。
姿は見えているのに、僕の内側の“回線”が落ち着かない。
繋がる。
ふっと軽くなる。
切れる。
胸の奥が一拍だけ空く。
(……94階と往復してるな)
靴を履きながら、僕は言った。
「そんなにレグリスが気になるなら、今日は留守番でもいいよ」
コユキは一瞬、足を止めた。
それから、尻尾だけが小さく揺れる。
「……気になる。教育、続きがあるし」
「だろ。無理して付いてこなくていいよ」
「でも――」
コユキは諦めたみたいに顔を上げる。
「……秀人の共有が切れるのは、もっと気になる」
正直だ。
そして、ありがたい。
「わかった。じゃあ一緒に行こう」
そのやり取りの横で、僕はブレスレットに指を当てる。
中でディアが小さく息を整えた気配がした。
『無理はしないでね。今日は会社で“仕事”の日でしょう?』
『仕事のあとも、仕事だけどね』
『……それを言うなら、あなたは年中よ』
静かな声で、きっちり刺してくる。
僕は受け流すふりをして、玄関の鍵を閉めた。
オフィスは、GW前の静けさが残っていた。
クライアントは休み。
有給を繋げている人も多い。
席が空いている分、通路の音がよく響く。
それでも月初の処理は止まらない。
請求。検収。締め。
現場が止まっても、数字は締め日に寄ってくる。
事務方の島に顔を出すと、すでに数人がPCと向き合っていた。
「おはようございます。出てますね」
返ってきたのは、疲れた笑い。
「おはようございます。月初だけは、連休関係ないです……」
「ですよね。僕も――今日はその穴埋めで来ました。サブマネが有休で、GWつなげてるので」
机の上には、各社のEDIのログイン情報が並んでいる。
この時代、AIが資料の叩き台くらいは平気で作る。
集計も、照合も、提案文も――だいたい出してくる。
でも。
「結局、最後は“各サイトにログインして押す”が残るんですよね」
「残りますね……。しかも会社ごとに癖が違うっていう」
システムは進むのに、入口も仕様もバラバラだ。
人間が“橋渡し”になる。
そういう仕事が、いちばん地味で、いちばん減らない。
僕は端末を開き、溜まっていた承認を淡々と捌く。
チャットも返す。差し戻しも直す。
午前で終わらせると決めていたから、手は迷わない。
(……よし。ここまで)
時計を見る。
そろそろ、帰還者の顔に切り替える時間だ。
新大阪駅。
平日の昼間なのに、駅は人が多い。
連休の移動が始まっているのだろう。
旅行カバンの車輪の音が、やけに生活感を運んでくる。
……その生活感のまま、僕は一度、腹を満たした。
駅ナカの店で、手早く昼。
味はちゃんとしているのに、記憶には残らないタイプのやつ。
ゲートの前に立つと、空気が少し変わった。
いつもの、あの“境目”の圧だ。
コユキは影の中で、気配だけを整える。
『行くよ』
『うん。43階から』
深呼吸ひとつ。
僕は手を伸ばした。
43階。
空気が乾いている。
地形は素直で、敵も“普通”だ。
普通、というのは――
油断できる、という意味ではない。
ただ、変に時間を持っていかれない。
僕は派手に勝たない。
ただ、詰まらせない。
45階に降りたとき、景色が変わった。
海が見える街。
高台から、遠くの水平線まで抜ける。
潮の匂いすら、ここにはある気がした。
(……綺麗だな)
見晴らしのいい階段が、街へ続いている。
観光地のポスターみたいな構図。
――だからこそ、嫌な予感がした。
一段、踏み出す――直前。
足裏に伝わる“硬さ”が、他と違う。
(……噛む)
僕は体重を預けないまま、つま先でほんの少しだけ触れて止めた。
次の瞬間、階段の縁が、わずかに沈む。
遅れて、空気がきゅっと鳴った気がした。
針じゃない。落とし穴でもない。
関節を持っていかれる類の、いやらしい仕掛け。
「そこ、だめ」
コユキが先に言う。僕が言うより早い。
「踏んでない。触っただけ」
「それで十分。嫌な罠」
僕は息をひとつ吐いて、足を引く。
代わりに、空間斬糸を細く走らせ、沈む縁の“引っかかり”だけを断った。
カチ、と乾いた音。
階段はもう沈まない。
痛みはない。
でも、背中に嫌な汗だけが残る。
(……歓迎されてないな、この街は)
降り切って街に入ったところで、それは来た。
脚はタコの触手。手はカニのハサミ。
胴体は人間の形なのに、顔だけが――人と、イソギンチャクがくっついたみたいに揺れている。
数が多い。
街角の影から、路地から、屋根から。
僕は短く組み立てる。
「行く」
コユキが影で加速する。
白い影が横から入り、魔爪強化の爪が走る。
スーラも短く跳ねた。
ぷに、と触れて、じわりと溶かす。
僕は空間斬糸を細く、必要なだけ。
腕を落とす。脚を落とす。ハサミの軌道を止める。
街の“景色”を壊さないまま、戦場だけを閉じていく。
45階を抜けた時点で、足が笑っていた。
46階は、浜辺だった。
砂。波音。
そして――海から来る。
浜辺のモンスターだけじゃない。
沖から、巨大な影が攻撃してくる。
水の槍。潮の塊。遠距離の圧。
(射程がある、ってだけで面倒が増える)
防御を厚くし、歩幅を小さくする。
前に出ると撃たれる。引くと囲まれる。
判断が一拍遅れると、時間が溶ける階層だ。
コユキがスキルを使って誘導する。
スーラが足元を溶かし、動きを止める。
ディアの声が短い。
「焦らない。数を減らす」
言われなくても、そうするつもりだった。
仕事のときと同じだ。
火消しじゃない。火が広がらないように、順番を握る。
気づけば、空じゃない“天井”の色が沈んでいた。
夕暮れの演出。――この階層の照明は、時間を真似る。
手元の時計を見る。現実の数字だけは嘘をつかない。
21時半。
「……今日は、ここまでだ」
体力は残っている。
でも、“集中”が薄くなる境目は分かる。そこから先は判断が雑になる。
明日も午前から仕事だ。ここで欲張って寝不足になるのは一番まずい。
それに、階層が深くなるほど敵の当たりが露骨に重くなる。
同じ一撃でも、受けた瞬間の「削られ方」が違う。
攻略は、勢いじゃなく継続。
僕は息を整えて、撤退の段取りに切り替えた。
帰宅後、シャワーで砂と汗を落とす間に、ディアが夕食を整えていた。
湯気の匂いだけで、家に戻ってきたと分かる。
「明日、在宅?」
「うん。午前の仕事は在宅でする」
「ボクは、明日はレグリスといる」
「……教育?」
「教育」
ディアが小さく笑った気配がした。
「生活が回っているわね」
「回ってる。……助かってる」
食後、スマホでニュースを軽く流し見する。
週末の件は――出ていない。
(……もう大丈夫だと、信じていいのかな)
胸の奥の硬さは、まだ残っている。
布団に沈みながら、短く息を吐く。
(明日も午前中は仕事だ。新卒の受け入れ準備をしよう)
そう決めて、目を閉じた。




