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晩年こそ本番。42歳会社員、喋る猫と現代ダンジョン攻略──ここからが本番だ  作者: 七乃白 志優
第六章:仮面の告発者

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091話『再起動』

会場を出た瞬間、身体が軽くなる――なんてことは、なかった。


勝った。止めた。閉じた。

やるべきことは全部やったはずなのに、胃のあたりだけが妙に重い。


(……まだ、戻れてない)


英雄扱いを避けたい、とか。

そういう“面倒”の話じゃない。

今日はもっと単純に、内側がついてきていない。


あの場の熱。怒鳴り声。笑い。

人の顔をした熱狂の、あの感じ。

耳の奥にまだ、薄い膜みたいに残っていた。


ホテルへ戻る前に、コンビニに寄った。


冷たい水と、缶コーヒー。

それと、塩気のある小袋のナッツ――こういう時、身体の方が正解を知っている。


レジを抜けて外に出ると、東京は夕方の顔をしていた。

ガラスに反射する光も、人の流れも、当たり前みたいに普通である。


さっきまで“世界の歪み”を見ていたのに、数分でこうして戻ってしまう。

この切り替えの速さが――少しだけ、腹に障る。


部屋に戻り、靴を脱いで、袋を机に置く。

プルタブを引く音が、やけに部屋に響いた。


「……切り替えないとな」


独り言みたいに言った瞬間、ブレスレットが微かに熱を持つ。


影の縁からコユキが顔を出し、続いて、ミニチュアのディアがふわりと降りた。

二人とも、僕の顔を見るなり、まったく同じタイミングで“分かった顔”をする。


「勝ったのに、顔が勝ってない」


「勝利の表情、というのは……どんなものなのかしら」


コユキの刺しに、ディアが上品に首を傾げる。


「……知らない。たぶん、もっと派手なやつ」


椅子に腰を落とし、缶コーヒーを一口飲んだ。

苦い。砂糖が入ってるのに苦い。


「ほら。今、“苦い”って顔してる」


「味の話だ」


「味の話にしたい顔だね」


二人とも、分かってて言う。


ディアが小さく足を組み、僕を見上げた。


「お疲れさま。今日はちゃんと“やった”日よ」


「……そうだな」


コユキが尻尾を揺らし、ディアが続けた。


「じゃあ、再起動。浸るのは短く。――次の段取りが来る前に、ここでいったん戻りなさい」


「戻る。……戻るつもりだ」


「言い方が、もう戻ってない」


僕は返事の代わりに、小さく息を吐いた。

それだけで、部屋の空気が少しだけ“今”に寄る。


「……夕飯、行くかな」


少し歩いた先で、黒い看板に白い文字が浮かんでいる店があった。

焼けた脂の匂い、煙、換気扇の唸り──分かりやすい「回復」の匂い。


(……よし。今日は、これでいい)


店先のメニューを一瞥して、値段と量を確認する。

“自分にご褒美”と言いながら、結局そこは外さない。

それでも今日は――入る。


中は土曜の夜の顔をしていた。

グループ。観光客。家族連れ。

そして、僕みたいに一人で入ってくる客も、意外といる。


「お一人さまですね」


「はい」


通されたのはカウンター。

メニューを開いた瞬間、影が揺れた。


『……ご褒美?』


コユキの念話。声だけで、笑ってるのが分かる。


『そうだな。今日は“そういう日”だ』


『即答だ』


『即答していい日くらい、ある』


『やっと人間らしいこと言った』


追い打ちが軽い。今日はそれが助かる。


『無事に終わったのなら、食べなさい』


今度はディア。こちらも念話だが、声の温度が少し柔らかい。


『人間の回復は、結局そこに戻るのよ。眠るか、食べるか。秀人はお風呂も好きね。あと……』


その“嫌な予感”の続きを待つ前に、僕は被せるように言った。


『湯はあとで。まずは肉』


『もう……ただ、優先順位がはっきりしていて、よろしい』


僕はメニューを閉じて、卓上のQRを読み込む。

画面の中で、肉が淡々とカートに積まれていく。


僕は赤身を中心に頼んで、タンもつけた。


『軽く、って言ってなかった?』


『“軽く”の定義が違うだけだ』


『合理の顔をして、好きなだけね』


『今日は、そういう日だって言っただろ』


念話のやり取りに、口元だけが少し緩む。

煙が上がる前から、体が「戻れる」と理解し始めていた。


タンを食べ終えて、網を一度落ち着かせる。

次は赤身――そう思ってトングを取った瞬間、スマホが震えた。


画面を開くと、柊から短いメッセージ。


【明日10時、国際交流棟に来ていただけないでしょうか。

今回の件の報告と、今後の方針の確認をしたいと思っております。

事件はひとまず収束しました。明日は、変装は不要です。】


たぶん国の人間にとっては、ここからが本番だ。

書類。報告。後始末。

“問題が起きた”より、“問題を終わらせた”の方が仕事になる。


影の中から、コユキの声が小さく届く。


『役所仕事は、終わってから始まる』


「……否定できない」


僕はスマホを伏せ、肉をひっくり返した。


「明日も、会議か」


『会議だね』


『会議だな』


三人とも同時に言って、少しだけ笑った。

店の喧騒の中で、それが救いになった。


ホテルに戻ってから、大浴場へ。


昨日も入った。

身体が勝手に手順を思い出す。


湯で温める。

サウナで汗を出す。

水で切って、椅子で落とす。


それを数回。

呼吸だけが、先に戻っていく。


部屋に戻り、水を飲んで、ナッツを一つだけ口に入れる。

小さな塩気が、妙にありがたい。


ミニチュアのディアが、短く言った。


「今日はよくやったわ」


「……ありがとう」


影が、ちょっとだけ波打つ。

スーラが控えめに顔――というか、形を出して、ぴと、と僕の指先に触れた。


「……スーラも。心配してくれてありがとう」


ぷる、と小さく震えて、また影に戻る。

それで十分、って言いたげだった。


コユキは、ベッドの端に丸まっている。


「明日は会議」


「打ち合わせが終われば帰れる……はず」


「“はず”」


「……そう。“はず”」


本人が一番信じてないのが、よく分かる言い方になった。

笑う気力はないけど、息だけは抜けた。


照明を落とし、ベッドに沈む。


勝った日の終わりは、派手じゃない。

静かで、ちゃんと疲れていて――それでも、眠れる。


目を閉じる直前、明治神宮の空気を思い出した。

砂利を踏む音。木漏れ日。音が澄んでいて――だからこそ、嫌になるくらい綺麗だった。


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