091話『再起動』
会場を出た瞬間、身体が軽くなる――なんてことは、なかった。
勝った。止めた。閉じた。
やるべきことは全部やったはずなのに、胃のあたりだけが妙に重い。
(……まだ、戻れてない)
英雄扱いを避けたい、とか。
そういう“面倒”の話じゃない。
今日はもっと単純に、内側がついてきていない。
あの場の熱。怒鳴り声。笑い。
人の顔をした熱狂の、あの感じ。
耳の奥にまだ、薄い膜みたいに残っていた。
ホテルへ戻る前に、コンビニに寄った。
冷たい水と、缶コーヒー。
それと、塩気のある小袋のナッツ――こういう時、身体の方が正解を知っている。
レジを抜けて外に出ると、東京は夕方の顔をしていた。
ガラスに反射する光も、人の流れも、当たり前みたいに普通である。
さっきまで“世界の歪み”を見ていたのに、数分でこうして戻ってしまう。
この切り替えの速さが――少しだけ、腹に障る。
部屋に戻り、靴を脱いで、袋を机に置く。
プルタブを引く音が、やけに部屋に響いた。
「……切り替えないとな」
独り言みたいに言った瞬間、ブレスレットが微かに熱を持つ。
影の縁からコユキが顔を出し、続いて、ミニチュアのディアがふわりと降りた。
二人とも、僕の顔を見るなり、まったく同じタイミングで“分かった顔”をする。
「勝ったのに、顔が勝ってない」
「勝利の表情、というのは……どんなものなのかしら」
コユキの刺しに、ディアが上品に首を傾げる。
「……知らない。たぶん、もっと派手なやつ」
椅子に腰を落とし、缶コーヒーを一口飲んだ。
苦い。砂糖が入ってるのに苦い。
「ほら。今、“苦い”って顔してる」
「味の話だ」
「味の話にしたい顔だね」
二人とも、分かってて言う。
ディアが小さく足を組み、僕を見上げた。
「お疲れさま。今日はちゃんと“やった”日よ」
「……そうだな」
コユキが尻尾を揺らし、ディアが続けた。
「じゃあ、再起動。浸るのは短く。――次の段取りが来る前に、ここでいったん戻りなさい」
「戻る。……戻るつもりだ」
「言い方が、もう戻ってない」
僕は返事の代わりに、小さく息を吐いた。
それだけで、部屋の空気が少しだけ“今”に寄る。
「……夕飯、行くかな」
少し歩いた先で、黒い看板に白い文字が浮かんでいる店があった。
焼けた脂の匂い、煙、換気扇の唸り──分かりやすい「回復」の匂い。
(……よし。今日は、これでいい)
店先のメニューを一瞥して、値段と量を確認する。
“自分にご褒美”と言いながら、結局そこは外さない。
それでも今日は――入る。
中は土曜の夜の顔をしていた。
グループ。観光客。家族連れ。
そして、僕みたいに一人で入ってくる客も、意外といる。
「お一人さまですね」
「はい」
通されたのはカウンター。
メニューを開いた瞬間、影が揺れた。
『……ご褒美?』
コユキの念話。声だけで、笑ってるのが分かる。
『そうだな。今日は“そういう日”だ』
『即答だ』
『即答していい日くらい、ある』
『やっと人間らしいこと言った』
追い打ちが軽い。今日はそれが助かる。
『無事に終わったのなら、食べなさい』
今度はディア。こちらも念話だが、声の温度が少し柔らかい。
『人間の回復は、結局そこに戻るのよ。眠るか、食べるか。秀人はお風呂も好きね。あと……』
その“嫌な予感”の続きを待つ前に、僕は被せるように言った。
『湯はあとで。まずは肉』
『もう……ただ、優先順位がはっきりしていて、よろしい』
僕はメニューを閉じて、卓上のQRを読み込む。
画面の中で、肉が淡々とカートに積まれていく。
僕は赤身を中心に頼んで、タンもつけた。
『軽く、って言ってなかった?』
『“軽く”の定義が違うだけだ』
『合理の顔をして、好きなだけね』
『今日は、そういう日だって言っただろ』
念話のやり取りに、口元だけが少し緩む。
煙が上がる前から、体が「戻れる」と理解し始めていた。
タンを食べ終えて、網を一度落ち着かせる。
次は赤身――そう思ってトングを取った瞬間、スマホが震えた。
画面を開くと、柊から短いメッセージ。
【明日10時、国際交流棟に来ていただけないでしょうか。
今回の件の報告と、今後の方針の確認をしたいと思っております。
事件はひとまず収束しました。明日は、変装は不要です。】
たぶん国の人間にとっては、ここからが本番だ。
書類。報告。後始末。
“問題が起きた”より、“問題を終わらせた”の方が仕事になる。
影の中から、コユキの声が小さく届く。
『役所仕事は、終わってから始まる』
「……否定できない」
僕はスマホを伏せ、肉をひっくり返した。
「明日も、会議か」
『会議だね』
『会議だな』
三人とも同時に言って、少しだけ笑った。
店の喧騒の中で、それが救いになった。
ホテルに戻ってから、大浴場へ。
昨日も入った。
身体が勝手に手順を思い出す。
湯で温める。
サウナで汗を出す。
水で切って、椅子で落とす。
それを数回。
呼吸だけが、先に戻っていく。
部屋に戻り、水を飲んで、ナッツを一つだけ口に入れる。
小さな塩気が、妙にありがたい。
ミニチュアのディアが、短く言った。
「今日はよくやったわ」
「……ありがとう」
影が、ちょっとだけ波打つ。
スーラが控えめに顔――というか、形を出して、ぴと、と僕の指先に触れた。
「……スーラも。心配してくれてありがとう」
ぷる、と小さく震えて、また影に戻る。
それで十分、って言いたげだった。
コユキは、ベッドの端に丸まっている。
「明日は会議」
「打ち合わせが終われば帰れる……はず」
「“はず”」
「……そう。“はず”」
本人が一番信じてないのが、よく分かる言い方になった。
笑う気力はないけど、息だけは抜けた。
照明を落とし、ベッドに沈む。
勝った日の終わりは、派手じゃない。
静かで、ちゃんと疲れていて――それでも、眠れる。
目を閉じる直前、明治神宮の空気を思い出した。
砂利を踏む音。木漏れ日。音が澄んでいて――だからこそ、嫌になるくらい綺麗だった。




