088話『静かな参道、熱の上書き』
土曜の朝。
ホテルの朝食フロアは、朝の日差しがやわらかくて、空気が妙に穏やかだった。
笑い声。皿の音。コーヒーの匂い。
ここだけ切り取ると、今日が大変な日だなんて、誰も思わない。
ビュッフェ。
僕は迷わず、ごはんと味噌汁、焼き魚。小鉢を二つ。
(昔はパン派だったのにな)
二十代の頃は、朝からパンにバターでも平気だった。
三十代後半からは、脂質だの血糖値だの――体重や食後の頭の回りの方を考えるようになって、自然と白米に寄っていった。
……いまはスキルの影響で体が無茶を許してくれる。
理屈で言えば、気にしなくてもいいはずだ。
でも。
『気にしなくていいのに、気にするのが秀人』
念話でコユキが刺してくる。
『それを“管理”って言う』
僕は魚をほぐしながら返す。
ブレスレットの奥から、ディアの気配がふっと揺れた。
『整える癖。嫌いじゃないわ』
『……褒められてるのか、それ』
『褒めてるわ。たぶんね』
最近、“たぶん”で逃げることを覚えたディアらしい。
一緒に大阪に住んでるせいか――知らんけど、じゃないだけマシと思おう。
箸を置いて、時計を確認する。
帰還者たちの集合は13時半。
けれど僕は12時に、文科省管轄の研修施設――通称、オリンピック記念の青少年センター。
そこの国際交流棟前へ来るよう言われている。
まだまだ時間に“余裕”がある。
(せっかく東京まで来てるんだし、まっすぐ会議室で待つのも勿体ないよな)
部屋にこもっていると、時間だけがやたら長く感じる。
それなら、歩いて、目を使って、ついでに頭の中も散歩させた方がいい。
『観光?』
念話でコユキが言う。
『観光。……半分はな』
僕は曖昧に返して、上着の袖を通した。
ブレスレットの奥で、ディアの気配がふっと揺れる。
『観光に見せかけて、気持ちを整える時間でしょう?』
『……まあ、それもある』
明治神宮の鳥居をくぐった瞬間、都会の音が一段だけ落ちた。
車の走行音は遠くに沈み、代わりに聞こえるのは砂利を踏む音と、木々の間を抜ける風。
空気の温度まで違う気がする。
木々の間を抜ける風が、葉をこすって、小さな波みたいに揺らす。
空が高いわけじゃない。
でも、見上げる隙間がある。
ビルの谷間じゃなく、枝と枝の間の“余白”だ。
吸う息が、勝手に深くなる。
胸の奥の焦げつきが、少しだけ薄まっていく。
(……こういう“場”は、反射で姿勢が整うな)
歩く速度が揃う。
肩の力が抜ける。
目線が自然と前へ向く。
それだけで、心の中の雑音が一段おとなしくなった。
『神域は嫌いじゃないわ』
ディアの声が、木漏れ日の粒みたいに落ちてくる。
『嘘が少ないもの』
僕は思わず、笑いそうになった。
(始祖ヴァンパイアが「神域は嫌いじゃない」とか言うの、だいぶ味わい深いな……)
ツッコミを飲み込むのも大人のスキルだけど、今日は口に出しておく。
『ディア、それ、立場的に言っていい台詞?』
一拍。
ディアが、涼しい声で返す。
『あなた、私を何だと思っているの』
『……少なくとも、“夜の権化”側だろ』
『失礼ね。私が嫌いなのは粗い嘘、それに傲慢、無礼、弱さを覆うだけの虚勢――美しくないもの』
(……始祖ヴァンパイアが、神社で言うことかそれ)
思わず心の中で突っ込むと、ディアは気配だけで笑ったようだった。
木は木として立っていて、風は風として通る。
人の願いも、言葉の飾りが剥げた“芯”だけが残る。
参道の奥へ進むほど、空気が澄んでいく。
手水舎の水が光を抱えて、ひやりと指先に落ちた。
冷たさが、熱の上がりやすい頭を真ん中から落ち着かせる。
僕は二礼二拍手一礼を、作法として淡々とやった。
願い事は言わない。
ただ、最後に胸の内でひとつだけ。
(今日は、必要なことだけをやる)
それだけで十分だった。
鳥居の向こうへ出る時、まだ東京は東京の顔をしているのに、僕の呼吸だけは、少しだけ静かになっていた。
そのまま歩いて、緑が開けた。
代々木公園は、芝と新緑が広がっていた。
神社から公園までは、歩ける距離だ。
東京は広いのに、時々こういう近さがある。
ジョギングする人。
犬の散歩。
ベンチでコーヒーを飲むカップル。
子どもが転んで、泣きかけて、笑って――ちゃんと平和がある。
(……あと3週間早かったら、桜が綺麗だっただろうな)
そんなことを考えた瞬間、別の現実が滑り込んでくる。
ゲートが出現して――まだ2ヶ月も経っていない。
(この2ヶ月で、世界がここまで歪むのか)
警察も自衛隊も、追いつけないのが当たり前だ。
まだ教科書がない。ルールも、運用も、責任分界も、全部“これから”だ。
『人間は、仕組みを作るのに時間が要る』
コユキが、いつもみたいに淡々と言った。
慰めでも、皮肉でもなく――ただ事実を置く声。
『……だから、今日は“現場で止める”しかない』
僕は小さく息を吐いて返す。
段取りは積む。仕組みも作る。
でも、間に合わない日もある。
木々の隙間から、空が見える。
青い。
あまりに普通で――だからこそ、今日の異常が余計に浮く。
11時。
代々木公園のそばで、ハンバーガー。
「軽く、でいいんだよな……」と言いながら、結局しっかりしたやつを選ぶ。
肉もチーズもいる。午後に備えるためだ。
合理だ。たぶん。
『軽くとは』
コユキが呆れた。
『午後に備える。これは合理』
僕は紙ナプキンで指を拭く。
『合理の顔をして、ハンバーガーやポテト、好きなだけよね』
ディア。
『……ばれてる』
自分でも分かるから、少しだけ視線を逸らした。
12時前。
文科省系の国立研修施設――国際交流棟の前。
ここが選ばれた理由も分かった。
契約モンスターは“小型が多い”と言われるが、大型は象並みになる。
その前提で、施設は改装済みだった。
搬入口の拡張、床の補強、導線――“人間だけの会議”じゃない作りになっているように見える。
そして建物は綺麗で、案内板も分かりやすい。
なのに、僕だけが場違いだった。
黒猫の仮面。
薄い認識阻害。
“それっぽく”誤魔化す、ではなく、今日は最初からこれで行く。
警備員が一歩前に出た。
「ご用件は」
「……呼ばれてます」
「お名前を」
僕は短く息を吸って、短く吐く。
「……シュナ」
一拍だけ間があって、無線のやり取り。
すぐに隊員が出てきて、目配せした。
「確認できました。こちらへ」
通る。
偽名が“公式の鍵”として回る小さな感覚。
段取りが効いている。――だからこそ嫌な安心だ。
二階の会議室には、九条さん、柊さん、それから八代さんがいた。
空気が仕事の顔をしている。
机の上に紙。タブレット。配置図。時間割。
「13時半。1階のレセプションホールに集合です」
柊さんが淡々と言う。
「有力帰還者15名。特務班12名。契約モンスターも同伴」
「……本当に集まりますか」
僕が聞くと、柊さんは表情を変えない。
「全員、確保しました」
言葉が軽い。
でも、その裏に人の手と車両と法と根回しが詰まっているのが分かる。
「大型の契約モンスターがいる場合は、輸送用トラックで同伴させています。前日入りの者は、施設内の宿泊棟へ」
国家が、本気で“力”を一箇所に集めている。
このスケール感は、現場の焦げ臭さとセットだ。
僕は一つ、気になっていた懸念を口にする。
「……洗脳が常習化してた場合、会場でも使う可能性は?」
九条さんが短く頷いた。
答える代わりに、指で机を叩く。
「そのために、シュナがいるんだろ」
そして、八代さんが続ける。
「シュナさんは会場には入らないでください。あなたは“最後の手”です。
まず集めて、相手に一度だけ動かせる。確定を取ってから投入します」
「承知しました」
言いながら、胃の奥が少しだけ沈んだ。
“相手に一度だけ動かせる”――その一度で壊れるものがある。
「先に、対策を一つだけ入れます」
僕は三人に視線を合わせた。
「会場で精神干渉が起きる可能性がある以上、こちらも塞いでおきたい。
ただ――その処置は、視覚情報が残ると逆にややこしくなるタイプです。害はありません。数十秒で終わります」
九条さんが短く確認する。
「触れるのか?」
「触れません。痛みもなし。終わったら僕が言います」
八代さんは淡々と頷いた。
「了承しました」
「ありがとうございます。では……目を閉じてください」
三人が目を閉じるのを待って、僕はブレスレットに指を置いた。
『ディア。頼む』
空気が、すっと薄く冷える。
ディアが出てくる。
派手さはない。
舞台に立つ人じゃなく、裏で手を動かす人の気配。
何かを編むように、三人の周りへ“見えない膜”を薄く張った。
目に見えないのに、空気の揺れ方が変わる。
スキルによる干渉だけ、塞がれた感じ。
『これで、精神干渉は鈍るわ』
ディアが言う。
『ありがとう』
ディアは小さく頷いて、ブレスレットへ戻った。
三人が目を開ける。
九条さんが短く言う。
「……助かる」
僕は軽く頷くだけで返した。
やるべき段取りは、まだ残っている。
会場の動線。合図の出し方。誰が誰を押さえるか。
「止める」判断の基準と、その時に迷わないための言葉。
細かな確認を一つずつ潰して、伝えるべきことは全部伝えた。
そのうえで――“覚悟するべきこと”も、胸の奥で固めた。
心に逃げ道を作ると、いざという時に手が止まる。
今日は、止める。止めるために、迷わない。
13時。
僕だけが、二階の会議室に残った。
モニターには、1階ホールの映像。
入場が始まって、人の密度が増える。
同時に、“力の密度”も増える。
帰還者。
特務班。
契約モンスター。
視線の種類が違う。歩き方が違う。
それぞれが“自分の強さ”を信じてここにいる。
……事前に、プロファイルは見せてもらっていた。
年齢、戦歴、スキル傾向、契約モンスターのタイプ。
紙の情報としては、十分すぎるくらいに。
でも――映像で見ると、別だ。
「表面上の情報」じゃなくて、「人間」が入ってくる。
見覚えのある顔も、ちらほら混じっていた。
配信やテレビで見た帰還者たち。
日向一成。
喋りが異様にうまい、バトル系配信の帰還者。
確か『みみモン日記』とコラボして、軽口を叩きながら戦っていた――あの人だ。
画面の中では陽気だったのに、実物の目はやけに乾いている。
速水えりな。
精霊系の契約モンスターを連れた、帰還者アイドル枠。
立ち姿がスマートで、笑顔が“調整された”形をしている。
……それでも、隣にいる契約モンスターの気配が普通じゃない。
そんなホールに――山田玲央。
六人のチームを引き連れ、当然の顔で上座に陣取る。
座り方が、もう“主役”だ。
(……嫌な座り方するな)
さらに、いつの間にかカメラマンがいる。
機材も、動きも、“ここにいて当然”みたいな顔をしている。
(……九条さんたちから、そんな話は聞いてない)
ということは――答えはだいたい一つだ。
誰かが連れてきた。
あるいは、連れてきた体で「入れる空気」を作った。
(まあ、想定内でもある)
先の打ち合わせで言われていた。
「予定通りに進むと思うな。多少のイレギュラーは織り込んである」って。
織り込んだイレギュラーと、勝手に持ち込まれたイレギュラーは、似て非なるものだけど。
でも、ここで立ち止まっても意味はない。
会議が始まる。
司会役の声が流れて、形式の挨拶があって――
今日の名目は「意見交換会」。
帰還者同士の情報共有に、政府も同席して「現場の声を聞く場」……という体裁だ。
穏当に始めて、穏当に終える。
そういう“顔”をした集まり。
……だからこそ、最初に空気を壊す人間がいると、分かりやすい。
山田が立った。
「俺たち帰還者は、選ばれた存在だ。政府の管理など受ける必要はない」
言葉が終わる前に、空気が変わった。
拍手が揃いすぎている。
視線の焦点が、同じ方向に吸われる。
会場の温度が、一段上がる。
画面越しでも分かる。
“熱狂”というより、上書きだ。
(……鑑定するまでもない。これは分かりやすい)
ただ――確定できるのは「異常が起きている」まで。
山田が黒か。山田も操られているのか。
あるいは、もっと奥で“誰か”が糸を引いているのか。
可能性はいくつもある。
でも、共通点はひとつ。
このまま放置したら、会場が壊れる。
僕は椅子から立ち上がった。
まだ走らない。焦りは手元を狂わせる。
代わりに、呼吸でスイッチを入れる。
いったん、肺の中を空にする。吐き切る。
次に、4秒かけて吸う。
4秒、止める。
そして、8秒かけて吐く。
呼吸が整うと、視界の輪郭が戻る。
僕は次の一手のために、身体を動かし始めた。
モニターの中で、山田の口元が笑っている。
その笑いが、会場の半分に“伝染”していくのが見えた。




