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晩年こそ本番。42歳会社員、喋る猫と現代ダンジョン攻略──ここからが本番だ  作者: 七乃白 志優
第六章:仮面の告発者

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088話『静かな参道、熱の上書き』

土曜の朝。


ホテルの朝食フロアは、朝の日差しがやわらかくて、空気が妙に穏やかだった。

笑い声。皿の音。コーヒーの匂い。

ここだけ切り取ると、今日が大変な日だなんて、誰も思わない。


ビュッフェ。

僕は迷わず、ごはんと味噌汁、焼き魚。小鉢を二つ。


(昔はパン派だったのにな)


二十代の頃は、朝からパンにバターでも平気だった。

三十代後半からは、脂質だの血糖値だの――体重や食後の頭の回りの方を考えるようになって、自然と白米に寄っていった。


……いまはスキルの影響で体が無茶を許してくれる。

理屈で言えば、気にしなくてもいいはずだ。


でも。


『気にしなくていいのに、気にするのが秀人』

念話でコユキが刺してくる。


『それを“管理”って言う』

僕は魚をほぐしながら返す。


ブレスレットの奥から、ディアの気配がふっと揺れた。

『整える癖。嫌いじゃないわ』


『……褒められてるのか、それ』


『褒めてるわ。たぶんね』


最近、“たぶん”で逃げることを覚えたディアらしい。

一緒に大阪に住んでるせいか――知らんけど、じゃないだけマシと思おう。


箸を置いて、時計を確認する。

帰還者たちの集合は13時半。

けれど僕は12時に、文科省管轄の研修施設――通称、オリンピック記念の青少年センター。

そこの国際交流棟前へ来るよう言われている。


まだまだ時間に“余裕”がある。


(せっかく東京まで来てるんだし、まっすぐ会議室で待つのも勿体ないよな)


部屋にこもっていると、時間だけがやたら長く感じる。

それなら、歩いて、目を使って、ついでに頭の中も散歩させた方がいい。


『観光?』


念話でコユキが言う。


『観光。……半分はな』


僕は曖昧に返して、上着の袖を通した。


ブレスレットの奥で、ディアの気配がふっと揺れる。


『観光に見せかけて、気持ちを整える時間でしょう?』


『……まあ、それもある』


明治神宮の鳥居をくぐった瞬間、都会の音が一段だけ落ちた。


車の走行音は遠くに沈み、代わりに聞こえるのは砂利を踏む音と、木々の間を抜ける風。

空気の温度まで違う気がする。

木々の間を抜ける風が、葉をこすって、小さな波みたいに揺らす。


空が高いわけじゃない。

でも、見上げる隙間がある。

ビルの谷間じゃなく、枝と枝の間の“余白”だ。


吸う息が、勝手に深くなる。

胸の奥の焦げつきが、少しだけ薄まっていく。


(……こういう“場”は、反射で姿勢が整うな)


歩く速度が揃う。

肩の力が抜ける。

目線が自然と前へ向く。

それだけで、心の中の雑音が一段おとなしくなった。


『神域は嫌いじゃないわ』


ディアの声が、木漏れ日の粒みたいに落ちてくる。


『嘘が少ないもの』


僕は思わず、笑いそうになった。


(始祖ヴァンパイアが「神域は嫌いじゃない」とか言うの、だいぶ味わい深いな……)


ツッコミを飲み込むのも大人のスキルだけど、今日は口に出しておく。


『ディア、それ、立場的に言っていい台詞?』


一拍。

ディアが、涼しい声で返す。


『あなた、私を何だと思っているの』


『……少なくとも、“夜の権化”側だろ』


『失礼ね。私が嫌いなのは粗い嘘、それに傲慢、無礼、弱さを覆うだけの虚勢――美しくないもの』


(……始祖ヴァンパイアが、神社で言うことかそれ)


思わず心の中で突っ込むと、ディアは気配だけで笑ったようだった。

木は木として立っていて、風は風として通る。

人の願いも、言葉の飾りが剥げた“芯”だけが残る。


参道の奥へ進むほど、空気が澄んでいく。

手水舎の水が光を抱えて、ひやりと指先に落ちた。

冷たさが、熱の上がりやすい頭を真ん中から落ち着かせる。


僕は二礼二拍手一礼を、作法として淡々とやった。

願い事は言わない。


ただ、最後に胸の内でひとつだけ。


(今日は、必要なことだけをやる)


それだけで十分だった。

鳥居の向こうへ出る時、まだ東京は東京の顔をしているのに、僕の呼吸だけは、少しだけ静かになっていた。


そのまま歩いて、緑が開けた。


代々木公園は、芝と新緑が広がっていた。

神社から公園までは、歩ける距離だ。

東京は広いのに、時々こういう近さがある。


ジョギングする人。

犬の散歩。

ベンチでコーヒーを飲むカップル。

子どもが転んで、泣きかけて、笑って――ちゃんと平和がある。


(……あと3週間早かったら、桜が綺麗だっただろうな)


そんなことを考えた瞬間、別の現実が滑り込んでくる。


ゲートが出現して――まだ2ヶ月も経っていない。


(この2ヶ月で、世界がここまで歪むのか)


警察も自衛隊も、追いつけないのが当たり前だ。

まだ教科書がない。ルールも、運用も、責任分界も、全部“これから”だ。


『人間は、仕組みを作るのに時間が要る』


コユキが、いつもみたいに淡々と言った。

慰めでも、皮肉でもなく――ただ事実を置く声。


『……だから、今日は“現場で止める”しかない』


僕は小さく息を吐いて返す。

段取りは積む。仕組みも作る。

でも、間に合わない日もある。


木々の隙間から、空が見える。

青い。

あまりに普通で――だからこそ、今日の異常が余計に浮く。


11時。

代々木公園のそばで、ハンバーガー。


「軽く、でいいんだよな……」と言いながら、結局しっかりしたやつを選ぶ。

肉もチーズもいる。午後に備えるためだ。

合理だ。たぶん。


『軽くとは』


コユキが呆れた。


『午後に備える。これは合理』


僕は紙ナプキンで指を拭く。


『合理の顔をして、ハンバーガーやポテト、好きなだけよね』


ディア。


『……ばれてる』


自分でも分かるから、少しだけ視線を逸らした。


12時前。

文科省系の国立研修施設――国際交流棟の前。


ここが選ばれた理由も分かった。

契約モンスターは“小型が多い”と言われるが、大型は象並みになる。

その前提で、施設は改装済みだった。

搬入口の拡張、床の補強、導線――“人間だけの会議”じゃない作りになっているように見える。


そして建物は綺麗で、案内板も分かりやすい。

なのに、僕だけが場違いだった。


黒猫の仮面。

薄い認識阻害。

“それっぽく”誤魔化す、ではなく、今日は最初からこれで行く。


警備員が一歩前に出た。


「ご用件は」


「……呼ばれてます」


「お名前を」


僕は短く息を吸って、短く吐く。


「……シュナ」


一拍だけ間があって、無線のやり取り。

すぐに隊員が出てきて、目配せした。


「確認できました。こちらへ」


通る。

偽名が“公式の鍵”として回る小さな感覚。

段取りが効いている。――だからこそ嫌な安心だ。


二階の会議室には、九条さん、柊さん、それから八代さんがいた。


空気が仕事の顔をしている。

机の上に紙。タブレット。配置図。時間割。


「13時半。1階のレセプションホールに集合です」


柊さんが淡々と言う。


「有力帰還者15名。特務班12名。契約モンスターも同伴」


「……本当に集まりますか」


僕が聞くと、柊さんは表情を変えない。


「全員、確保しました」


言葉が軽い。


でも、その裏に人の手と車両と法と根回しが詰まっているのが分かる。


「大型の契約モンスターがいる場合は、輸送用トラックで同伴させています。前日入りの者は、施設内の宿泊棟へ」


国家が、本気で“力”を一箇所に集めている。

このスケール感は、現場の焦げ臭さとセットだ。


僕は一つ、気になっていた懸念を口にする。


「……洗脳が常習化してた場合、会場でも使う可能性は?」


九条さんが短く頷いた。

答える代わりに、指で机を叩く。


「そのために、シュナがいるんだろ」


そして、八代さんが続ける。


「シュナさんは会場には入らないでください。あなたは“最後の手”です。

まず集めて、相手に一度だけ動かせる。確定を取ってから投入します」


「承知しました」


言いながら、胃の奥が少しだけ沈んだ。

“相手に一度だけ動かせる”――その一度で壊れるものがある。


「先に、対策を一つだけ入れます」


僕は三人に視線を合わせた。


「会場で精神干渉が起きる可能性がある以上、こちらも塞いでおきたい。

ただ――その処置は、視覚情報が残ると逆にややこしくなるタイプです。害はありません。数十秒で終わります」


九条さんが短く確認する。


「触れるのか?」


「触れません。痛みもなし。終わったら僕が言います」


八代さんは淡々と頷いた。


「了承しました」


「ありがとうございます。では……目を閉じてください」


三人が目を閉じるのを待って、僕はブレスレットに指を置いた。


『ディア。頼む』


空気が、すっと薄く冷える。

ディアが出てくる。

派手さはない。

舞台に立つ人じゃなく、裏で手を動かす人の気配。


何かを編むように、三人の周りへ“見えない膜”を薄く張った。

目に見えないのに、空気の揺れ方が変わる。

スキルによる干渉だけ、塞がれた感じ。


『これで、精神干渉は鈍るわ』


ディアが言う。


『ありがとう』


ディアは小さく頷いて、ブレスレットへ戻った。

三人が目を開ける。


九条さんが短く言う。


「……助かる」


僕は軽く頷くだけで返した。


やるべき段取りは、まだ残っている。

会場の動線。合図の出し方。誰が誰を押さえるか。

「止める」判断の基準と、その時に迷わないための言葉。


細かな確認を一つずつ潰して、伝えるべきことは全部伝えた。

そのうえで――“覚悟するべきこと”も、胸の奥で固めた。


心に逃げ道を作ると、いざという時に手が止まる。

今日は、止める。止めるために、迷わない。


13時。

僕だけが、二階の会議室に残った。


モニターには、1階ホールの映像。

入場が始まって、人の密度が増える。

同時に、“力の密度”も増える。


帰還者。

特務班。

契約モンスター。


視線の種類が違う。歩き方が違う。

それぞれが“自分の強さ”を信じてここにいる。


……事前に、プロファイルは見せてもらっていた。

年齢、戦歴、スキル傾向、契約モンスターのタイプ。

紙の情報としては、十分すぎるくらいに。


でも――映像で見ると、別だ。

「表面上の情報」じゃなくて、「人間」が入ってくる。


見覚えのある顔も、ちらほら混じっていた。

配信やテレビで見た帰還者たち。


日向一成。

喋りが異様にうまい、バトル系配信の帰還者。

確か『みみモン日記』とコラボして、軽口を叩きながら戦っていた――あの人だ。

画面の中では陽気だったのに、実物の目はやけに乾いている。


速水えりな。

精霊系の契約モンスターを連れた、帰還者アイドル枠。

立ち姿がスマートで、笑顔が“調整された”形をしている。

……それでも、隣にいる契約モンスターの気配が普通じゃない。


そんなホールに――山田玲央。


六人のチームを引き連れ、当然の顔で上座に陣取る。

座り方が、もう“主役”だ。


(……嫌な座り方するな)


さらに、いつの間にかカメラマンがいる。

機材も、動きも、“ここにいて当然”みたいな顔をしている。


(……九条さんたちから、そんな話は聞いてない)


ということは――答えはだいたい一つだ。

誰かが連れてきた。

あるいは、連れてきた体で「入れる空気」を作った。


(まあ、想定内でもある)


先の打ち合わせで言われていた。


「予定通りに進むと思うな。多少のイレギュラーは織り込んである」って。


織り込んだイレギュラーと、勝手に持ち込まれたイレギュラーは、似て非なるものだけど。

でも、ここで立ち止まっても意味はない。


会議が始まる。

司会役の声が流れて、形式の挨拶があって――


今日の名目は「意見交換会」。

帰還者同士の情報共有に、政府も同席して「現場の声を聞く場」……という体裁だ。


穏当に始めて、穏当に終える。

そういう“顔”をした集まり。


……だからこそ、最初に空気を壊す人間がいると、分かりやすい。


山田が立った。


「俺たち帰還者は、選ばれた存在だ。政府の管理など受ける必要はない」


言葉が終わる前に、空気が変わった。


拍手が揃いすぎている。

視線の焦点が、同じ方向に吸われる。

会場の温度が、一段上がる。


画面越しでも分かる。

“熱狂”というより、上書きだ。


(……鑑定するまでもない。これは分かりやすい)


ただ――確定できるのは「異常が起きている」まで。

山田が黒か。山田も操られているのか。

あるいは、もっと奥で“誰か”が糸を引いているのか。


可能性はいくつもある。

でも、共通点はひとつ。


このまま放置したら、会場が壊れる。


僕は椅子から立ち上がった。

まだ走らない。焦りは手元を狂わせる。

代わりに、呼吸でスイッチを入れる。


いったん、肺の中を空にする。吐き切る。

次に、4秒かけて吸う。

4秒、止める。

そして、8秒かけて吐く。


呼吸が整うと、視界の輪郭が戻る。

僕は次の一手のために、身体を動かし始めた。


モニターの中で、山田の口元が笑っている。

その笑いが、会場の半分に“伝染”していくのが見えた。


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