087話『参宮橋の夜、整う』
17時。
コユキがレグリスに小さく手を振る。
「じゃ、またね。明後日には戻って来る」
ディアが、さらりと言う。
「留守の間は、私がレグリスを見ておくわ。安心して東京へ行ってきなさい」
「“見ておく”のニュアンスが、ちょっと怖いんだけど」
僕が言うより先に、コユキの声が返ってきた。
「ディア。レグリス、破壊しないでね」
「しないわよ」
即答してから、ディアは少しだけ目を細める。
「……たぶん」
「“たぶん”が付くのが一番こわい」
レグリスは間に挟まれても平然としている。
「耐久試験、歓迎。学習効率、向上」
「ほら、本人がやる気よ」
ディアが肩をすくめると、コユキはため息みたいに尻尾を揺らした。
「……じゃあ、ほんとに“壊さない範囲”でね。戻った時に部品バラバラだったら泣くよ」
コユキは最後にもう一度だけ手を振ると、スーラと一緒に僕の影へ滑り込んだ。
すう、と足元が静かになる。
「行くか」
僕は首輪をカバンに入れ、鍵を確認して、家を出る。
新大阪。
18時半、新幹線。
夕食は駅弁。
蓋を開けた瞬間の匂いで、ようやく新幹線での“移動”の実感が湧く。
車内で、コユキとディアが念話で話す。
『レグリス、喋りやすくなってた』
『滑らかになったわね。まだ硬いけど』
『これからよ』
僕は窓の外の流れを見ながら、ふと思い出した。
レグリスが外に出られるようになったら。
じゃあ、ディアが完全に外に出られるようになったら。
『ディアが外に出られるようになったら……服って、どうなるんだろうな』
コユキが即答する。
『ゲートのものは持ち出すと腐る。だから、基本は……』
『言うな。分かってる』
ディアが上品に息を吐いた。
『私の場合は魔力で作ることもできるけど……正解は、人間の世界の服を先にゲートに持ち込んで、そこで着替える。最低限の礼儀よ』
『礼儀のために、準備が増えるな……』
『あなた、準備は得意でしょう』
『仕事ならな』
ディアが小さく笑う気配がした。
その流れで、一瞬だけ頭に浮かぶ。
――リィナは、最初どうだったんだろう。
(……やめよう。触れてはいけない気がする)
蓋をする。
東京駅。
そして、乗り継いで、参宮橋駅。
予約しているホテルへ向かう。
明日は国の研修施設内にある会議室に、13時30分から帰還者たちが集まる。
チェックインを済ませて、荷物を置く。
そのまま、大浴場へ。
ある程度出世してから、出張のホテルはここを基準にするようになった。
大浴場とサウナがあるかどうか。
それだけで、出張の楽しみが変わる。
僕は、変に気合いを入れない。
「長く入る」より「正しく回す」。
昔、仕事がきつくて、心が先に折れそうになっていた時期があった。
その時、前の会社の先輩が、ぽつりと教えてくれた。
――サウナは根性じゃない。自律神経を“並べ直す”手順だ。
やり方を間違えると、ただの消耗になるぞ。
それ以来、僕はずっとこの入り方をしている。
まずは身体を洗って、湯船で一度だけ温める。
そこからサウナ。
深呼吸を一つ。
背筋を預けて、心拍が上がりきる手前で出る。
水風呂は、短く。
冷たさで思考が止まりかけた瞬間に、縁を掴んで上がる。
そして外気――ととのい椅子。
息が勝手に整っていく。
交感神経と副交感神経が、乱暴に入れ替わっていたのが、噛み合っていく感じ。
(……こういうのが、“自律神経が整う”ってことなんだよな)
目の前の世界が、少しだけ静かになる。
音はあるのに、刺さらない。
頭の余計なものが削がれていく。
仕事。明日。土曜の作戦。
二セット目、三セット目。
回すたびに、身体の輪郭が戻ってくる。
「疲れが消える」というより、疲れを抱えたままでも、余計に荒れない状態になる。
最後にぬるめのシャワーで汗を流して、僕は大浴場を出た。
部屋に戻り、髪を乾かす。
そこでようやく、スマホを手に取った。
政府からの支度金。
10万円、振り込み済み。
新幹線の往復とホテル代。
――これなら赤字にはならない。
そして――明日、出席することで45万円が振り込まれる予定。
(……僕にとっては危険手当っていうより、口止め料みたいだな)
笑えないのに、口元だけが勝手に緩む。
こういう俗世的なところは、自分の悪い癖だ。
でも、たぶん政府の狙いは、もっとシンプルだ。
一日分の“日当”としては、明らかに高い。
高いから、来る。
余計な理由を挟まずに、確実に人数を揃えるための金額。
帰還者は、自由だ。
命令じゃ動かない。
だから――「来た方が得」を先に置く。
(……やり方が、いかにもだな)
ベッドに沈む。
ブレスレットの中で、ディアが静かに言った。
『明日。勝負の日ね』
「勝負じゃなくて、打ち合わせな」
『言い方の問題よ』
影の中から、コユキの小さな声。
『でも、取り繕っても勝負でしょ』
「……まあ、そうだな」
目を閉じる。
今日は、準備が整った。




