082話『顔を隠す理由、ジープの迎え』
火曜の朝。
窓の外は今日も曇りで、住宅街はまだ静かだ。
PCを立ち上げて、共有フォルダを開いた。
金曜の議事録。
保留になった決裁。
差し戻し。
返事ひとつで前に進むものが、地味に溜まっている。
(午後は信太山――延長なし、午前で片付けるしかない)
打ち合わせがひと息ついたところで、昨日の件に手を付ける。
退職相談。
東京の上司に、短く一報を入れる。
事実と方針だけ。
「昨日、三年目の田中君から退職の申し出がありました。本人意思は固い様子です。まず退職希望日は5月末。引継ぎ範囲を整理し、影響と代替案をこちらで取りまとめます。詳細は追って報告します」
送信。
余計な感情は添えない。
上げるべきは、気持ちじゃなくて事実と見立てだ。
次に、サブマネージャーを捕まえる。
「少しだけ、時間もらえる?ちょっと重い共有がある」
チャットに返して、数分後に通話を繋ぐ。
相手の顔が映った瞬間、僕は要点から入った。
「お疲れ様。さっそくだけど昨日、三年目の田中君から退職の相談があった。覆らなさそう。だから先に、影響範囲と引き継ぎの段取りを固めたい」
「わかりました。退職は、いつ頃ですか?」
「希望は5月末。まずは有給消化を含めた最終稼働が確定する前に、顧客説明の順番だけ押さえる。火種になりそうなところから先に」
「引継ぎは……」
「引継ぎは“全部”じゃなくて“絶対落とせない”ところだけでいい。安井君が田中君のやっている範囲を知っているはずだから。二週間で回る形にする。人員が足りないなら、社外含め調達をかける。必要工数とスケジュールだけ先に出して」
やり取りは短く、でも具体的に。
引継ぎ、穴埋め、顧客説明。
順番を擦り合わせたところで、僕は最後に一言だけ付け足した。
「午後、外出がある。いつもの半休以上に連絡がつきにくい。だから午前中で整理しておきたい。動けるところは先に動いておこう」
「分かりました。こちらでも対応しておきます」
慣れたくないのに――慣れている。
サブマネージャーを見ると、彼も冷静な顔をしていた。
4つ上の46歳。
こういう局面を何度も潜ってきた人だ。
大げさに騒がない。
感情の置き場を探す前に、手順が動く。
それは冷たさじゃなくて、崩さないための癖みたいなものだった。
コーヒーが冷めてるのに気づいて、ようやく息を吐いた。
通話が切れる。
考える間もなく、次のタスクに手が伸びた。
そこで立ち止まっていられない。
午後は信太山だ。
思考の棚を切り替える。
昼過ぎ。
在宅の段取りをひと区切りつけたところで、僕はディアに呼ばれて94階へ来ていた。
広場へ向かう途中、風の匂いが少し変わる。
――来た。
気配がひとつ、こちらへ近づく。
足音は大きいのに、乱れがない。
騎士型の三メートルが、広場の縁に静かに立っていた。
「秀人殿」
レグリスが、いつもの淡い光で視線を合わせる。
「魔力炉のチャージ完了。92階へ帰投する」
「……もう3日か。早いな」
「体感差を確認。――更新効率を最適化した結果、この周期が最も安定する」
さらっと言う。
……更新効率。
その単語、妙に引っかかった。
コユキが横から尻尾を揺らした。
「3日後、また来れる?」
「肯定。チャージが満ち次第、再訪する」
……定期便だ。
94階と92階を、バスみたいに往復している。
ディアは、僕の横で腕を組んで頷いた。
「規則正しいのは良いことよ。あなたの“充電期間”も把握できてる」
「充電って……」
言いかけたところで、ディアがわざとらしく視線を逸らして微笑む。
否定もしない、その顔。
コユキが尻尾をひとつ揺らした。
「言い方の問題じゃないよ。最近、夜のあと――目がちゃんと生き返ってる」
「……そこまで観察するな」
「観察じゃない。生活の安全管理」
ディアが、悪びれずに小さく肩をすくめた。
「ちゃんと“満ちてる”だけよ。……あなたが」
「言い方!」
コユキが当然の顔をする。
「事実は事実」
僕が言うと、コユキは尻尾をひとつ揺らしただけで済ませた。
――反論の余地なし、ってやつだ。
「で、次回の教材リスト。もう作ってある」
「……作ってあるの?」
「うん。基礎は終わったから、次は応用。『人間の対話』『交渉』『嘘のつき方(悪用禁止)』『謝り方(重要)』」
待て。
怖い単語が混ざっている。
「……悪用禁止、って付ければ安全だと思ってるだろ」
「付けないより安全」
「そういう問題じゃない」
レグリスが淡々と補足する。
「教材、受領予定。次回までに予習を実施する」
やめろ。
予習とか言うな。
機械に人間の悪知恵を積ませるな。
コユキは誇らしげに尻尾を一度だけ揺らした。
「大丈夫。ボク、先生だから」
先生が一番危ない気がするんだけど。
レグリスが軽く頭を下げるような動作をして、光の転送陣へ向かう。
「帰投する。3日後、再訪予定」
「……ああ。またな」
光が収束して、騎士の姿が消えた。
広場の空気が少しだけ軽くなる。
頼もしい。
でも、教育内容が怖い。
僕は息を吐いて、時計を見た。
(……よし。信太山の準備だ)
軽く腹に入れて、駅へ向かう――その途中で、ふと我に返った。
(……待て)
黒猫の仮面。
あれは確かに便利だ。
認識阻害も、音声変調も、視覚補助も……
でも――駅で、あの仮面を着けたまま待ち合わせ?
(無理だろ……)
視線的に死ぬ。
社会的にも死ぬ。
通報リスクもある。
黒猫の仮面は、車内でセット。
外では“それっぽい”もので誤魔化す。
そうしよう。そうすべきだ。
途中の乗り換え――三国ヶ丘。
駅前の小さな店。蛍光灯が白くて、棚のサングラスがやけに光って見えた。
大きめのサングラスを選ぶ。
派手すぎない。
けれど目元が隠れる。
「不自然じゃないギリギリ」を探すあたり、僕は本当に社会人だと思う。
会計を済ませると、僕はその場でサングラスをかけた。
鏡越しに確認して、深呼吸をひとつ。
――よし、“それっぽい”。
そのままホームへ行き、電車に揺られて信太山へ。
降りると、人通りは少なくて、駅前も静かだった。
――だからこそ、余計な視線が少ないのは助かった。
待ち合わせ場所へ歩き出したところで、エンジン音が滑り込んでくる。
低くて太い、土の匂いがする音。
振り向くと、ジープが来ていた。
(……ジープだ)
自衛隊の車両が、当たり前みたいに駅前に停まる。
正直、少し上がる。
乗れるんだ、これ。
運転席から降りてきた隊員が、駅前を一度見回してから、僕に向かって軽く手を上げた。
柊さんに共有してもらっていた今日の服装。
それに合致した、という顔だ。
「こんにちは。柊さんから伺ってる方で、お間違いないですか?駐屯地までお送りします」
「……はい。お願いします」
僕はサングラスをかけ、マスクも付けたまま、さらに薄く認識阻害を重ねている。
目立たない程度に――“印象が変わる”くらいのやつ。
隊員が一瞬だけ僕の顔を見て、それでも普通に頷いた。
「念の為、お名前、伺ってもいいですか?」
ここで本名は出さない。
柊さんには事前に伝えてある。
素性を隠す時の名前は「シュナ」。
昔、ゲームでよく使っていたハンドルのひとつ。
口に出すと少し照れるのが、逆にちょうどいい。
「……シュナです」
「シュナさん。承知しました」
ジープに乗り込む。
シートが硬くて、妙に安心する。
道具の乗り物だ。
走り出して数分。
僕は視線を落として、財布の中からカードを出した。
黒猫の起動符――マスク・カード。
(よし。車内でセット)
顔の前にかざし、静かに展開する。
「——セット」
黒い魔力が呼吸に同期して、カードが一瞬で仮面の形を得る。
音が変わる。息の抜け方が変わる。気配がひとつ“ずれる”。
隊員は前を見たまま、何も言わない。
認識阻害は、こういう時にありがたい。
(……恥ずかしさを隠すのにも便利だな)
信太山駐屯地。
門を抜け、敷地の奥へ進むにつれて、空気が変わっていく。
「着きました。こちらで――」
隊員がドアを開けて降りた、その瞬間。
僕の横顔に視線が滑って、ほんの一拍だけ動きが止まった。
「……あ、……今、仮面を……」
声は低い。驚いてるのに、騒がない。
“見た”というより、“今、認識した”みたいな言い方だった。
「ええ。車内の方で」
「なるほど……」
隊員はそれ以上追及せず、咳払いひとつで視線を前に戻した。
プロだ、助かる。




