081話『雨の日の英才教育』
日曜の朝。
窓の外は雨で、住宅街の色が、雨に濡れて少しだけ沈んでいた。
雨音だけが一定のリズムで、部屋の空気を静かにほどいていく。
本来なら、今日は小型ゲートの様子見に行くつもりだった。
――だったのに。
「却下」
ソファの背もたれから、コユキの声が落ちてくる。
三本尻尾が、ゆるく揺れた。
「え、却下って……」
「外、雨。湿気と視界の悪さで余計なリスクが増える。それに――レグリスが94階にいる“今”がチャンス。基礎教養を叩き込む。逃すと、また無駄に巨大化するかもしれない」
「そこなの……?」
ミニチュアのディアがティーカップを持ったまま、軽く首を傾げる。
「コユキの言い分も分かるわ。レグリスはあと3日で、魔力炉の都合で九十二階に戻るのでしょう?詰め込むなら、今日と明日しかないもの」
……否定できない。
明後日には、陸上自衛隊の駐屯地で“特務班”の調査がある。
今のうちに余計な消耗は避けたいし、外は雨だ。
遠征して泥を増やす理由もない。
「分かった。今日は素直に従う。94階で訓練して、ついでに軽い買い出しだけにしよう」
僕がそう言うと、コユキは満足げに一度だけ尻尾を揺らした。
サブゲートを抜けると、空気が変わる。
ディアの城の庭は、風が澄んでいて、匂いが軽い。
現実の湿った雨の匂いが、ふっと遠のく。
スーラが前腕にまとわりつく。
ひんやり、ぷにっとした感触。
「行くぞ、スーラ」
ぷるん、と返事みたいに震えた。
ディアの訓練用モンスターが飛び出してくる。
速い、一直線。
(今日は“斬る”じゃない)
僕は左手を開き、空間斬糸を一本だけ、細く引く。
見えない境界線。
そこを越えようとした瞬間、モンスターの踏み込みが半拍だけ鈍る。
「——今」
スーラの支えでブレを消し、最短だけ通す。
一閃。
モンスターは霧みたいにほどけて消えた。
ディアが紅茶を口に運びながら、満足げに言う。
「良いわね。力じゃなくて、条件で勝ってる」
……で、その横で。
不思議な光景が広がっていた。
コユキが僕のタブレットを床に置き、レグリスの前で“授業”をしている。
タブレットには、名作ロボットアニメの合体シーン。
次に、学園ものゲームのイベントシーン。
レグリスが、騎士型の三メートルのまま、妙に真剣に見ている。
「質問。この機体はなぜ、合体変形時に無防備になるのか?戦術的欠陥では?」
コユキが即答した。
「それは“ロマン”という概念だよ。効率より優先される上位プロトコル」
「……ロマン。重要度:最高ランクに設定」
レグリスの声は、機械の起動ログみたいに淡々としていた。
(……変なこと教えるなよ)
思わず内心で突っ込んだら、コユキがこちらを見た。
分かってる顔で。
「秀人。ロマンは大事」
「仕事にも?」
「仕事にも。……たぶん」
その“たぶん”が危険だ。
昼過ぎ、訓練を一度切り上げる頃には、身体が軽く痺れていた。
最後の訓練用モンスターを仕留めた瞬間、身体の奥がふっと“軽く”なった。
疲労が抜けた軽さじゃない。
神経が研ぎ澄まされるみたいな、上に伸びる前の感覚。
呼吸を整えたところで、表示が視界の端に静かに浮かんだ。
【レベル:59】
現実の成長は、こんなふうに分かりやすくないのにな。
ディアが紅茶を置く。
コユキはレグリスの横で、まだ何かを熱心に“教えて”いる。
僕は汗を拭いて、スーラの重みをほどいた。
それからは、訓練したり、休憩したり、また少し動いたり。
現実側に降りて雨が小降りになったタイミングで、一週間分の買い出しも済ませた。
食材の袋を提げて玄関を開けた頃には、気づけば外は暗くなっていて、雨の音だけが残っていた。――結局、いつもの一日だ。
*
月曜の朝。
窓の外は白っぽい曇りで、住宅街はまだ静かだ。
なのに画面の中だけ、先に動き出している。
家のPCを立ち上げ、チャットアプリを開く。
金曜の午後にたまった未読が、呼吸より早い。
話して、決めて、保留して、次へ――その反復の途中で、通知が一つだけ、妙に目に引っかかった。
「時任さん、少しお時間いただけますか」
……この一文だけで、胸の奥がわずかに固くなる。
この子が僕に直接投げてくるのは珍しい。
普段なら、まずリーダーかサブマネージャーに相談して、順を通して上がってくる。
その“いつもの手順”を飛ばしている時点で、内容はたぶん軽くない。
(つまり――急ぎか、言いづらいか。あるいは、その両方だ)
「今、少しだけいけるよ」
短く返して、通話を繋いだ。
画面に映った若手は、いつもより背筋が固かった。
呼吸も浅い。
「すみません、突然で……実は、退職を考えています」
やっぱり、それか。
理由は「別業界への挑戦」だった。
……退職理由としては、いちばん角が立たない言い方だ。
でも、口ぶりや目を見れば分かる。
逆に――本人の中では、もう次が決まっている顔だ。
(ここで“本音当て”をしても意味はない。覆らないなら、やることは段取りだ)
僕は頷いて、まず受け止める。
「そっか。寂しくなるな。君が抜けるのは痛手だけど……応援するよ。」
言葉は柔らかく。
同時に、頭の中は別の棚を開けていた。
退職日はいつにする、次は決まっているのか。
有休の残りは。
引き継ぎは誰に、どこまで、何日あれば回る。
顧客への説明は、順番を間違えたら火種になる。
――感情の処理より、業務の段取りが先に立ち上がる。
それが自分でも分かって、少しだけ苦くなる。
「まずは話してくれてありがとう。明日、僕からサブマネにも共有して、引き継ぎの整理をしようと思う。それで大丈夫?」
「……はい、大丈夫です」
「今日はまだ“相談”の段階で扱う。勝手に広げたりせず、明日、共有する前に、君の有休の使い方とか、いつまで動けるかだけ先に調整しよう。君が損しない形にする。」
相手がほっと息を吐いたのが、画面越しでも見えた。
段取りって、冷たい作業じゃない。
相手を守るための手順でもある。
通話が終わって、画面が会議一覧に戻る。
僕は一度だけ、長く息を吐いた。
(……慣れたくないのに、慣れてるな)
それでも、やるべきことは変わらない。
僕は僕の仕事をする。
そのための“整える”は、逃げじゃなくて仕事だ。
午後は半休を取った。
気分転換というわけではない。
いつものことだ。
94階。
城の庭の隅で、コユキがレグリスの前に陣取って、タブレットを開いていた。
授業――というか、英才教育は続行中らしい。
画面には、学園ものゲームのイベント動画。
模擬店、ステージ、意味のない全力。
BGMまで無駄に熱い。
「今日は“人間の非効率”の補講。まずは学園祭」
レグリスが、映像の中の行列と紙飾りを無言で追う。
数秒後、淡々と結論を出した。
「理解不能。戦術的利益が見当たらない。なぜ人的資源を投入する」
「合理性はあるよ。ただし、数字で測りにくい方の」
コユキが尻尾を揺らす。
「これは“儀式”――共同体のメンテナンス。みんなで無駄を共有して、発散して、結束を上げる。終わったあと、普段が回りやすくなる」
レグリスが一拍置く。
「……儀式。目的:士気回復/結束強化。運用コスト:許容。行動指針に仮登録」
(やめろ。真面目に採用するな)
僕は作られたモンスターではなく、ディアと軽く手合わせして身体を動かしていた。
スーラと全力でぶつかっても、手も足も出ない相手――“軽く”で成立してしまうのが、なおさら悔しい。
だから今日は、考える前に息が切れるまで動く。
余計なものを、呼吸の外へ追い出すために。
夜。
シャワーを浴びてソファに沈むと、遅れて今日の会話が胸に戻ってきた。
「……僕も、いつまでこの生活を続けるんだろうな」
会社員としての責任。
帰還者としての責任。
上司からの時短勤務の打診もある。
配慮してくれているのは分かるし、ありがたい。
でも――選ぶ日は、いつか来る気がする。
スマホのカレンダーを見た。
プロジェクトの納期は6月末。
「……今は、先に目の前のプロジェクトを終わらせよう」
ここまでは、僕の責任の範囲だ。
僕が抜けたら困る人がいて、遅れたら迷惑が飛ぶ相手がいて、守らなきゃいけない約束がある。
だから、6月末までは確実にやり遂げる。
――その先をどうするかは、そのあとでいい。
今ここで結論を出そうとすると、きっと“強引に答え”を無理に作ってしまう。
僕はそういうのが一番あとで効いてくるのを知ってる。
考えるのをやめるんじゃない。
ただ、条件が揃いちゃんと考えられる状態になるまで、少しだけ後ろに回す。
今日は、そこで思考を止める。
止める勇気も、社会人の技術だ。
……で、指がつい動画アプリを開いてしまった。
『みみモン日記』。
配信者ナナと、うさぎ型モンスターのゆるい掛け合い。
「……はぁ、癒やされる」
頬が緩んだ、その瞬間。
ソファの背から、コユキ。
テーブルの上から、ミニディア。
二人とも、同じ温度のジト目だった。
「……現実逃避?」
「ふふ。ウサギがお好きなら、次はウサギ型の魔獣を用意しましょうか。もちろん――可愛いだけではない方を」
「すみません」
僕はスマホを置いて、視線を上げた。
ソファの背もたれにいる白い猫と目が合う。
「……なに」
コユキが警戒するみたいに尻尾をゆらす。
「いや。現実逃避の続き。コユキをモフモフしたい」
「やめて」
即答。
けど降りない。
逃げない。
「1分。――いや、30秒でいい」
「数字を刻むな。交渉みたいに」
「交渉だよ。今の僕、癒やしが必要なんだ」
コユキが、ふっとため息をついた。
諦めの音なのに、どこか優しい。
「……一回だけ。撫でるだけ。揉むな。掴むな」
「承知しました。揉まない。掴まない。撫でるだけ」
「“承知しました”じゃない。返事が社会人すぎる」
言いながら、コユキが背もたれから僕の膝の上へ、軽く飛び移ってくる。
温かくて、ふわっとして、柔らかい。
僕は指先で、首の後ろをそっと撫でた。
毛並みが流れて、呼吸がほどける。
「……はぁ。回復する」
「……回復とか言うな。恥ずかしい」
ミニディアがふわりと飛んできて、僕の肩にぴたりと張り付いた。
「はいはい。平和の維持、成功ね」
僕は両手を我慢して、撫でるだけで“モフる”に留めた。
ふわ、と息が抜けた。
――こういうのでいい。今日は。
ディアが肩の上で満足げに体重を預けてくる。
コユキは文句を言いそうな顔のまま、逃げない。
「……ありがと。ちょっと回復した」
名残惜しさを、そこで切る。
スマホのカレンダーを翌日に進めた。
4月25日(火)
大阪府和泉市・陸上自衛隊 信太山駐屯地。
明日は、特務班12名との初対面。
「……よし」
会社員の頭を静かに畳んで、帰還者の棚を開く。




