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晩年こそ本番。42歳会社員、喋る猫と現代ダンジョン攻略──ここからが本番だ  作者: 七乃白 志優
第六章:仮面の告発者

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081話『雨の日の英才教育』

日曜の朝。

窓の外は雨で、住宅街の色が、雨に濡れて少しだけ沈んでいた。

雨音だけが一定のリズムで、部屋の空気を静かにほどいていく。


本来なら、今日は小型ゲートの様子見に行くつもりだった。

――だったのに。


「却下」


ソファの背もたれから、コユキの声が落ちてくる。

三本尻尾が、ゆるく揺れた。


「え、却下って……」


「外、雨。湿気と視界の悪さで余計なリスクが増える。それに――レグリスが94階にいる“今”がチャンス。基礎教養を叩き込む。逃すと、また無駄に巨大化するかもしれない」


「そこなの……?」


ミニチュアのディアがティーカップを持ったまま、軽く首を傾げる。


「コユキの言い分も分かるわ。レグリスはあと3日で、魔力炉の都合で九十二階に戻るのでしょう?詰め込むなら、今日と明日しかないもの」


……否定できない。

明後日には、陸上自衛隊の駐屯地で“特務班”の調査がある。

今のうちに余計な消耗は避けたいし、外は雨だ。

遠征して泥を増やす理由もない。


「分かった。今日は素直に従う。94階で訓練して、ついでに軽い買い出しだけにしよう」


僕がそう言うと、コユキは満足げに一度だけ尻尾を揺らした。


サブゲートを抜けると、空気が変わる。

ディアの城の庭は、風が澄んでいて、匂いが軽い。

現実の湿った雨の匂いが、ふっと遠のく。


スーラが前腕にまとわりつく。

ひんやり、ぷにっとした感触。


「行くぞ、スーラ」


ぷるん、と返事みたいに震えた。


ディアの訓練用モンスターが飛び出してくる。

速い、一直線。


(今日は“斬る”じゃない)


僕は左手を開き、空間斬糸(スペース・スレッド)を一本だけ、細く引く。

見えない境界線。

そこを越えようとした瞬間、モンスターの踏み込みが半拍だけ鈍る。


「——今」


スーラの支えでブレを消し、最短だけ通す。

一閃。

モンスターは霧みたいにほどけて消えた。


ディアが紅茶を口に運びながら、満足げに言う。


「良いわね。力じゃなくて、条件で勝ってる」


……で、その横で。

不思議な光景が広がっていた。


コユキが僕のタブレットを床に置き、レグリスの前で“授業”をしている。

タブレットには、名作ロボットアニメの合体シーン。

次に、学園ものゲームのイベントシーン。


レグリスが、騎士型の三メートルのまま、妙に真剣に見ている。


「質問。この機体はなぜ、合体変形時に無防備になるのか?戦術的欠陥では?」


コユキが即答した。


「それは“ロマン”という概念だよ。効率より優先される上位プロトコル」


「……ロマン。重要度:最高ランクに設定」


レグリスの声は、機械の起動ログみたいに淡々としていた。


(……変なこと教えるなよ)


思わず内心で突っ込んだら、コユキがこちらを見た。


分かってる顔で。


「秀人。ロマンは大事」


「仕事にも?」


「仕事にも。……たぶん」


その“たぶん”が危険だ。


昼過ぎ、訓練を一度切り上げる頃には、身体が軽く痺れていた。


最後の訓練用モンスターを仕留めた瞬間、身体の奥がふっと“軽く”なった。

疲労が抜けた軽さじゃない。

神経が研ぎ澄まされるみたいな、上に伸びる前の感覚。


呼吸を整えたところで、表示が視界の端に静かに浮かんだ。


【レベル:59】


現実の成長は、こんなふうに分かりやすくないのにな。


ディアが紅茶を置く。

コユキはレグリスの横で、まだ何かを熱心に“教えて”いる。

僕は汗を拭いて、スーラの重みをほどいた。


それからは、訓練したり、休憩したり、また少し動いたり。

現実側に降りて雨が小降りになったタイミングで、一週間分の買い出しも済ませた。


食材の袋を提げて玄関を開けた頃には、気づけば外は暗くなっていて、雨の音だけが残っていた。――結局、いつもの一日だ。



月曜の朝。

窓の外は白っぽい曇りで、住宅街はまだ静かだ。

なのに画面の中だけ、先に動き出している。


家のPCを立ち上げ、チャットアプリを開く。

金曜の午後にたまった未読が、呼吸より早い。


話して、決めて、保留して、次へ――その反復の途中で、通知が一つだけ、妙に目に引っかかった。


「時任さん、少しお時間いただけますか」


……この一文だけで、胸の奥がわずかに固くなる。

この子が僕に直接投げてくるのは珍しい。


普段なら、まずリーダーかサブマネージャーに相談して、順を通して上がってくる。

その“いつもの手順”を飛ばしている時点で、内容はたぶん軽くない。


(つまり――急ぎか、言いづらいか。あるいは、その両方だ)


「今、少しだけいけるよ」


短く返して、通話を繋いだ。


画面に映った若手は、いつもより背筋が固かった。

呼吸も浅い。


「すみません、突然で……実は、退職を考えています」


やっぱり、それか。


理由は「別業界への挑戦」だった。

……退職理由としては、いちばん角が立たない言い方だ。


でも、口ぶりや目を見れば分かる。

逆に――本人の中では、もう次が決まっている顔だ。


(ここで“本音当て”をしても意味はない。覆らないなら、やることは段取りだ)


僕は頷いて、まず受け止める。


「そっか。寂しくなるな。君が抜けるのは痛手だけど……応援するよ。」


言葉は柔らかく。

同時に、頭の中は別の棚を開けていた。


退職日はいつにする、次は決まっているのか。

有休の残りは。

引き継ぎは誰に、どこまで、何日あれば回る。

顧客への説明は、順番を間違えたら火種になる。

――感情の処理より、業務の段取りが先に立ち上がる。


それが自分でも分かって、少しだけ苦くなる。


「まずは話してくれてありがとう。明日、僕からサブマネにも共有して、引き継ぎの整理をしようと思う。それで大丈夫?」


「……はい、大丈夫です」


「今日はまだ“相談”の段階で扱う。勝手に広げたりせず、明日、共有する前に、君の有休の使い方とか、いつまで動けるかだけ先に調整しよう。君が損しない形にする。」


相手がほっと息を吐いたのが、画面越しでも見えた。

段取りって、冷たい作業じゃない。

相手を守るための手順でもある。


通話が終わって、画面が会議一覧に戻る。

僕は一度だけ、長く息を吐いた。


(……慣れたくないのに、慣れてるな)


それでも、やるべきことは変わらない。

僕は僕の仕事をする。

そのための“整える”は、逃げじゃなくて仕事だ。


午後は半休を取った。

気分転換というわけではない。

いつものことだ。


94階。

城の庭の隅で、コユキがレグリスの前に陣取って、タブレットを開いていた。

授業――というか、英才教育は続行中らしい。


画面には、学園ものゲームのイベント動画。

模擬店、ステージ、意味のない全力。

BGMまで無駄に熱い。


「今日は“人間の非効率”の補講。まずは学園祭」


レグリスが、映像の中の行列と紙飾りを無言で追う。

数秒後、淡々と結論を出した。


「理解不能。戦術的利益が見当たらない。なぜ人的資源を投入する」


「合理性はあるよ。ただし、数字で測りにくい方の」


コユキが尻尾を揺らす。


「これは“儀式”――共同体のメンテナンス。みんなで無駄を共有して、発散して、結束を上げる。終わったあと、普段が回りやすくなる」


レグリスが一拍置く。


「……儀式。目的:士気回復/結束強化。運用コスト:許容。行動指針に仮登録」


(やめろ。真面目に採用するな)


僕は作られたモンスターではなく、ディアと軽く手合わせして身体を動かしていた。

スーラと全力でぶつかっても、手も足も出ない相手――“軽く”で成立してしまうのが、なおさら悔しい。

だから今日は、考える前に息が切れるまで動く。

余計なものを、呼吸の外へ追い出すために。


夜。

シャワーを浴びてソファに沈むと、遅れて今日の会話が胸に戻ってきた。


「……僕も、いつまでこの生活を続けるんだろうな」


会社員としての責任。

帰還者としての責任。

上司からの時短勤務の打診もある。

配慮してくれているのは分かるし、ありがたい。


でも――選ぶ日は、いつか来る気がする。


スマホのカレンダーを見た。

プロジェクトの納期は6月末。


「……今は、先に目の前のプロジェクトを終わらせよう」


ここまでは、僕の責任の範囲だ。

僕が抜けたら困る人がいて、遅れたら迷惑が飛ぶ相手がいて、守らなきゃいけない約束がある。

だから、6月末までは確実にやり遂げる。


――その先をどうするかは、そのあとでいい。

今ここで結論を出そうとすると、きっと“強引に答え”を無理に作ってしまう。

僕はそういうのが一番あとで効いてくるのを知ってる。


考えるのをやめるんじゃない。

ただ、条件が揃いちゃんと考えられる状態になるまで、少しだけ後ろに回す。


今日は、そこで思考を止める。

止める勇気も、社会人の技術だ。


……で、指がつい動画アプリを開いてしまった。

『みみモン日記』。

配信者ナナと、うさぎ型モンスターのゆるい掛け合い。


「……はぁ、癒やされる」


頬が緩んだ、その瞬間。


ソファの背から、コユキ。

テーブルの上から、ミニディア。

二人とも、同じ温度のジト目だった。


「……現実逃避?」


「ふふ。ウサギがお好きなら、次はウサギ型の魔獣を用意しましょうか。もちろん――可愛いだけではない方を」


「すみません」


僕はスマホを置いて、視線を上げた。

ソファの背もたれにいる白い猫と目が合う。


「……なに」


コユキが警戒するみたいに尻尾をゆらす。


「いや。現実逃避の続き。コユキをモフモフしたい」


「やめて」


即答。

けど降りない。

逃げない。


「1分。――いや、30秒でいい」


「数字を刻むな。交渉みたいに」


「交渉だよ。今の僕、癒やしが必要なんだ」


コユキが、ふっとため息をついた。

諦めの音なのに、どこか優しい。


「……一回だけ。撫でるだけ。揉むな。掴むな」


「承知しました。揉まない。掴まない。撫でるだけ」


「“承知しました”じゃない。返事が社会人すぎる」


言いながら、コユキが背もたれから僕の膝の上へ、軽く飛び移ってくる。

温かくて、ふわっとして、柔らかい。


僕は指先で、首の後ろをそっと撫でた。

毛並みが流れて、呼吸がほどける。


「……はぁ。回復する」


「……回復とか言うな。恥ずかしい」


ミニディアがふわりと飛んできて、僕の肩にぴたりと張り付いた。


「はいはい。平和の維持、成功ね」


僕は両手を我慢して、撫でるだけで“モフる”に留めた。

ふわ、と息が抜けた。

――こういうのでいい。今日は。


ディアが肩の上で満足げに体重を預けてくる。

コユキは文句を言いそうな顔のまま、逃げない。


「……ありがと。ちょっと回復した」


名残惜しさを、そこで切る。

スマホのカレンダーを翌日に進めた。


4月25日(火)

大阪府和泉市・陸上自衛隊 信太山駐屯地。


明日は、特務班12名との初対面。


「……よし」


会社員の頭を静かに畳んで、帰還者の棚を開く。


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