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晩年こそ本番。42歳会社員、喋る猫と現代ダンジョン攻略──ここからが本番だ  作者: 七乃白 志優
第六章:仮面の告発者

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077話『濁りのない瞳』

朝。

昨日より、さらに少し早く家を出た。


出社してまず目に入るのは、案件の進捗じゃない。人の温度だ。

誰が今バタついていて、誰が一息つけているか。

表情と声の張りだけでだいたい分かる。


席に着いたら、PCを起動し、まず予定表を開いた。

午前中に潰せる火種があるなら、先に消す。

後に回すと、なぜか倍の規模で燃える――経験則って、だいたい当たるから厄介だ。


午前中は淡々と“詰まりそうなところ”を拾って回った。

進捗が止まる理由って、だいたい三つ。

情報がないか、手が足りないか、決める人が決めきれてないか――だいたいこれで説明がつく。


曖昧な依頼は、質問を返して形を整える。

迷っている人には、選択肢を二つに絞って投げ直す。

最終的に、仕事って“答えを出す”より、“答えが出せる状態にする”方が大事だったりする。


僕がPMとして全部決めてしまえば早い。

でも、それを続けるとチームの判断力が育たない。

だから「決める」のは相手に渡して、僕は“決めやすくする”側に回る。

……この役回りのほうが、あとで効いてくるのも知っている。


――そうしている間だけ、頭の片隅に引っかかっていた「午後の予定」を、いったん棚に押し込めた。


昼休憩。

フロアのざわめきが一段落ちて、机の上の世界も“休憩モード”に切り替わる。


僕はスマホを開き、いつもの癖でニュースを流し見した。

潮目だけ掴めればいい。

そう思っていたのに、指が止まる。


前日夜に配信された記事。

『四階層が最下層の小型ゲート――明日、スタンピード発生あるか!?』


(……“明日”って書いてある。つまり、今日だ)


もしかして、まだ四階層まで進んでいない小型ゲートがどこかに残っている?

あるいは――“残しておきたい誰か”が、意図的に手を止めさせた?


影の中から、コユキの声が落ちてくる。


『顔、固い。今のそれ、仕事の顔じゃない』


ブレスレットの内側で、ディアが小さく息をついた。


『考えても答えは出ないわ。行けばいい。――あなた、こういう時は割り切れるでしょう?』


「……まあね」


思考をいったん畳んで、僕は午後の段取りを確認した。

半休を申請する。

こういう時ほど、手続きを抜かない。


新大阪オフィスを出て、電車に乗る。

淀屋橋の政府施設へ向かう間、窓の外の街はいつも通りで――だからこそ気味が悪かった。

平常運転のまま、異常が進む。

……それが一番、気づきにくい。


(僕の嫌な予感って、大概当たるんだよな)


淀屋橋の政府施設。

受付を通り、案内された廊下は静かだった。


会議室の前で立ち止まる。

ノックする指先に、ほんの少し力が入った。


扉を開ける。


中にいたのは、九条さん、柊さん、そして八代さん。

前回もこの三人は揃っていた。

けれど、今日の空気は明らかに違う。


張り詰めている。


「座ってくれ」


九条さんが短く言う。

いつもの九条さんなら、状況の枠を作ってから本題に入る。

今日は、その余白がない。


柊さんは、いつも通り丁寧に資料を整えていた。

所作は崩れていないのに、目の奥だけが少し疲れて見える。

眠気というより、気を張り続けた人が残す影――そんな種類の疲労だ。


八代さんが、真っ直ぐこちらを見る。

温度の低い視線。


「時任さん。急に呼び出してごめんなさい」


「いえ。……何か、ありましたか」


僕が座ると同時に、八代さんは単刀直入に切った。


「率直にお伝えすると、九条の様子がおかしいの」


九条さんは表情を変えない。

それが逆に、嫌な予感を強める。


「以前の九条は調整役として非常にバランスが良かった。帰還者を守るべき部分と、規制として縛るべき部分。その線引きが明確だった」


八代さんは言葉を選ばない。


「でもここ数日、発言が偏っている。“帰還者の権利拡大”や“法規制の緩和”に妙に踏み込む。しかも理由が薄い」


柊さんが静かに頷いた。


「……私も同じ印象です。会議の場で九条が、“一般人の犠牲はやむを得ない”という言い方をしました」


淡々とした声なのに、そこだけがわずかに硬い。


「九条が、ああいう線を越える言葉を使うのはこれまで一度もありませんでした。……だから、違和感が拭えなくて」


九条さんが淡々と返す。


「事実だろ。帰還者は英雄だ。世界を救う矢面に立っている」


声のトーンは九条さんだ。

でも、言っている内容が九条さんじゃない。


(違和感は、言葉の種類じゃない。“責任の置き方”だ)


九条さんは普段、責任の配分に敏感な人だ。

「誰が、何を、どこまで背負うか」を行政官として徹底的に考える。

それが今は、雑になっている。

英雄という言葉で、全部をまとめて正当化している。


八代さんが検証のために質問を投げた。


「九条さん。帰還者が暴走した場合の“特権措置”について、どう考えていますか?」


「帰還者は英雄だ。社会が一定のコストを負担するのは、合理として受け入れるべきだ」


一拍も迷わない。

倫理の手すりを、平気で飛び越えた回答。


柊さんのペンが止まる。

会議室の空気が、さらに一段冷える。


影の奥で、コユキの気配がわずかに揺れた。


『……変。言葉は整ってる。でも芯がズレてる』


ディアも低く言う。


『九条さんの声で話しているのに……肝心なところだけ、別の人の台本みたいね』


(観察。比較。仮説。確認。決断)


僕は意識を張り、視界の解像度を上げた。

次に、解析眼(アナライズ・サイト)を走らせる。


視界の端に、普段は見えない“状態”が薄く滲んで浮かぶ。

輪郭の内側に、淡い油膜みたいな違和感。

バッドステータス――そこに、精神干渉の痕跡があった。


目立つほど強くはない。

直接操る支配でもない。

ただ、判断を一部誘導できるタイプのようだ。


40階層で遭遇した、甘き呪縛(アモール・ドレイン)に似ている。

でも、あれよりずっと薄い。

極端な異常が出ないぶん、かえって見落としやすい。


確信した。

そして、すぐに決めた。


「——九条さん。失礼します」


八代さんが一瞬で察して、黙って頷く。

柊さんも口を挟まない――この場で僕が動くことは、最初から前提だったのだろう。


僕は、夢醒の鈴音(ルシッド・ベル)を使用した。


澄んだ音が会議室に広がる。

耳で聞くというより、胸の奥に積もった粉塵を払うみたいな感覚。

空気が一瞬だけ透明になる。


九条さんの瞳が、僅かに揺れた。

瞬きが一度、二度。

それから――焦点が戻る。


「……?」


九条さんが自分の喉を確かめるように息を吐く。

次に出た声は、低く、かすかに震えていた。


「俺は……何を言っていた」


沈黙。

その沈黙が、洗脳の“確定”だった。


九条さんは、顔を手で覆う。


「……最悪だ。俺の口から、あんな言葉が出たのか」


柊さんが、静かに言う。


「九条さん……大丈夫ですか」


「大丈夫なわけがない。……俺の口から出たんだ」


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