076話『日常の隙間に忍び寄る予感』
朝。いつもより少しだけ早く家を出た。
久しぶりの出社。カジュアルスーツに革靴。
格好が切り替わると、それだけで背筋が伸びる。
「……スーツ着ると、気持ちも勝手に揃うな」
新大阪のオフィスへ向かい、いつもの入口をくぐる。
コーヒーマシンの駆動音。
キーボードの乾いた連打。
電話の声と、誰かの短い笑い。
フロアのリズムが戻ってくる。
「おはようございます」
「あっ、時任さん。今日は出社なんですね」
声をかけてくれたのはサブマネージャー。
この数週間、僕が半日単位で抜ける穴を、現場で黙々と埋めてくれていた人だ。
「……すみません。助けてもらってばかりで」
「いえいえ。急ぎはこっちで捌いてます。時任さんが午前だけでもいると、判断が早いので助かってますよ」
「……感謝しかないです。午前中、ちゃんと回します」
「期待してます。PMがいると、チームも締まりますからね」
苦笑して席に座る。
一週間ぶりの社内の空気。
懐かしい――というほどではないが、感覚が少しだけ“二重”になっている気がした。
午前中は進捗確認と軽めのミーティング。
サブマネからの報告をまとめてキャッチアップ。
頭の中が、仕事用の棚にきれいに整列していく。
――と。
『……はぁ。今日は午前中、見れないのね』
脳内に、少し不満げな声。
左腕のブレスレットの内側。
ミニチュアのディアが、念話でぼやいてきた。
『……午前中、いちばん見やすいのに。今日は出社なの、退屈ね』
『レシピ動画だろ。分かってる』
『ええ。あと、お菓子作りのやつ。ああいう“手順”は見ているだけで楽しいのよ』
『最近、献立の回し方が妙にうまいと思ってた。ちゃんと蓄積してるな』
『当然よ。現代の料理は、段取りがすべてでしょう?……ねえ、帰ったら――また美味しいの、作ってあげるわ』
『……それは助かる。楽しみにしてる』
始祖の姫が、動画で家庭料理を学ぶ。
世界がねじれてるのに、生活だけは妙に正しい。
僕はディスプレイの影で、口元を緩めた。
正午。
社内チャットに「午後から半休いただきます」と打ち込み、PCをスリープ。
背伸びをして席を立つ。
外は穏やかな晴れ。
新大阪駅に着くと、そのまま駅構内のゲート専用の管理施設へ向かった。
中に入ると、受付の隊員が無言で端末を見上げる。
「こんにちは。午後、少しだけ潜ります」
顔なじみの隊員が短くうなずく。
「時任さんですね。どうぞ」
やり取りはそれだけで十分だった。
僕も向こうも、“いつもの手順”に慣れている。
更衣スペースでスーツを脱ぎ、黒いジャージに着替える。
この瞬間、身体の重心が少し下がる。
仕事から戦闘へ、じゃなくて――生活の中の別タスクに移る感覚に近い。
「……じゃ、午後の分。行くか」
着替えを終えて出ると、若い隊員がひとり待っていた。
初めて見る顔。
「えっと……時任さん、ですよね?」
「はい」
身分証を出すと、隊員は端末で照合して、少しだけ安堵の息を吐いた。
「確認できました。どうぞ」
「ありがとうございます。行ってきます」
黒い歪み――ゲートへ、一歩。
空気が反転し、重力がふっと抜ける。
次の瞬間、視界が切り替わった。
新大阪ゲート、43階。
石畳の通路、低い天井。
ひんやりした空気が肌を撫で、光がやけに沈む。
「……切り替え。集中。コユキ、索敵。スーラ、警戒」
「了解。前方に複数。散ってる」
「(ぷにっ)」
闇が濃い。
暗いというより、光が吸われる。
輪郭がぼやける分、気配の“重さ”が際立つ。
――来た。
「速いな……」
二足歩行の小型魔獣が三体。
鎧みたいな外殻で、音もなく詰めてくる。
挟みに来る動きだ。
「背中を取らせるな。スーラ、進路を潰して」
「ぷにっ!」
右腕から影が伸び、スーラが“壁”みたいに射線を作る。
僕は間合いを詰め、刃を滑らせた。
切るというより、触れたところからじゅっと溶ける。
外殻が崩れて、足が止まる。
その瞬間、コユキが横から爪を入れた。
肩口に噛みついた瞬間、黒い魔力が一瞬まとわりつく。
【スキル取得:暗闇耐性】
「模写捕食、成功。暗闇耐性“強”。当たり」
「助かる。……視界が、ひと段明るい」
技能共有結越しに共有が走る。
暗さの圧が一枚剥がれた感覚。
事故が減るし、単純にありがたい。
そのまま44階、45階。
罠は落とし穴系が混じるが、影移動や重圧跳躍、反重力脚で回避しながら進む。
遠距離個体は少なめ。
その代わり、速さで削りに来る個体が多い。
集中力を噛ませてくる構成だ。
そして46階。
広間に踏み込んだ瞬間、空気が重くなる。
「……来るな。数もいる」
「大型が中央に一。周囲に中型が六。囲まれないように」
ディアが短く告げる。
言葉は少ないのに、刃みたいに刺さる。
「周囲から。中央は最後」
スーラが脚を絡め、触れた箇所をじわりと溶かす。
僕が一撃を入れ、コユキが横合いから強襲。
呼吸が合っている。
戦闘が“作業”に近づいていく。
その最中、コユキの爪にまた魔力のきらめきが走った。
「……ん?」
一閃。
爪が走った軌跡に、魔力の残滓みたいなものがきらりと残る。
「今の、爪に……?」
「うん。さっきの個体、爪攻撃に魔力属性が乗ってた。模写して取り込んだ」
コユキがしっぽをくいっと立てる。
「ボクの爪に、魔力を纏わせて強化できる。通りもよくなる。――魔爪強化ってやつ」
「いいな。じゃあ僕にも――……あれ? 共有、来てない」
「うん。確認した。モンスター系限定の“生体スキル”っぽい」
「つまり」
「“ボク専用”。残念でした」
しっぽがくいっと立つ。誇らしげ。
種族差はあるけど、こういう“専用スキル”が増えていくのは戦力として素直にありがたい。
「頼む。どんどん拾ってくれ」
「了解。ボクの爪、福利厚生つきで強化しておく」
一通り片付けたところで呼吸を整え、僕は周囲を見た。
「……今日はここまで。切り上げる」
無理して進むより、明日に繋げる。
攻略は、勢いより継続だ。
帰りのゲートに足を踏み入れた瞬間、空気が変わり、視界がぐにゃりと揺れる。
次の瞬間、管理施設の前に戻っていた。
――同時に。
ポケットの中でスマホがぶるっと震える。
画面の通知は一件。差出人は――柊 真理恵。
「……柊さんから?」
開く。
【至急、明日お時間いただけますか?
淀屋橋の政府施設にて予定しています。
九条と八代も同席予定です】
背中の温度が一段下がる。
“至急”“政府施設”“九条さんと八代さん同席”。単語が全部、軽くない。
「……何かあるな」
僕はすぐ返信を打った。
【承知しました。明日14時頃、お伺いします】
送信して、息を吐く。
「……帰るか。まず着替え」
更衣室でスーツに戻し、汗を拭って外へ。
日が落ちかけた新大阪の街は、いつも通りの顔をしている。
電車に揺られながらニュースをざっと眺める。
海外の訓練拠点、認定制度、実証実験――話題はある。
でも、今の通知に直結しそうな“事件”は見当たらない。
「……表に出てないやつか」
それが、いちばん面倒だ。
20時過ぎ。玄関を開ける。
「ただいま」
「秀人、お風呂を先にどうぞ。今日は煮込みよ。温かいうちに召し上がってほしいの」
ブレスレットからミニチュアのディアがふわりと降り、床に軽く着地した。
上品に言うのに、段取りだけは一切ブレないのがディアだ。
「……毎日ありがとな。ほんとに」
「ふふ。感謝されても何も出ないわよ。……あ、夕飯は出るけれど」
「そこは出るんだな」
僕は小さく笑って、そのまま風呂場へ直行した。
湯船に沈む。肩まで浸かる。
体の奥の固さが、じわっとほどける。
(柊さん……たぶん、平穏な用件じゃない)
でも今は、この温度に預ける。
風呂から上がると、リビングにいい匂いが漂っていた。
ビーフシチューに温野菜。
卵のサラダ。
スーラと共同のゼリー。
「今日も、いい匂い」
「今夜のテーマは“優しいけれど、きちんと”よ。胃も心も温めなさい」
ディアと、コユキと、スーラと。
箸の音と、短い会話と、くだらない冗談。
それは“日常”そのものだった。
――だからこそ、さっきの通知が頭の隅に残っている。
八代。九条。政府連絡室。至急。
何が来るのかは分からない。
でも、逃げる話でもない。
僕は窓の外へ視線を向け、食器の音に紛れるくらいの声で言った。
「……今日はここまで。明日、ちゃんと話を聞きに行こう」
その言葉で、いったん区切りをつける。
今夜は眠って、明日に備える。




