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晩年こそ本番。42歳会社員、喋る猫と現代ダンジョン攻略──ここからが本番だ  作者: 七乃白 志優
第六章:仮面の告発者

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067話『問いと応え』

政府庁舎のロビーを抜けて、外に出た。


春の空気がふっと肺に入って、肩の力が少しだけ抜ける。

街の音が戻ってきて、ようやく現実に足がついた気がした。


(……やっと終わった)


そう思った瞬間――


「──時任さん!」


背中に飛んできた声に振り返る。


そこにいたのは、一ノ瀬透花だった。

特務班の制服姿のまま、小走りでこちらに寄ってくる。

その横に、いつものようにリィナが静かに並んでいた。


「お疲れさまです。あの……今、お時間ありますか?」


「ん?どうしたの」


一ノ瀬は、一拍置いてから真っすぐ言った。


「前に助けていただいたお礼が、きちんとできていなくて……それと、もうひとつ。相談に、乗ってほしいんです」


“相談”の言い方が、妙にまっすぐだった。


お礼だけなら、たぶん僕は「もう十分だよ」で流した。

でも――相談と言われると、逃げづらい。


(年下って、こういう時ずるいな)


「わかった。じゃあ、少しだけ」


そう言った瞬間、一ノ瀬の肩がふっと落ちた。

安堵の息が見えるくらい、わかりやすい。


そして次の瞬間、彼女はスマホを取り出した。


「えっと……お肉とお魚、どちらが好きですか?」


「……急に?じゃあ、お肉」


「わかりました」


スラスラと画面を操作して、迷いがない。

予約完了の通知が出たらしく、一ノ瀬は顔を上げて笑った。


「個室、取れました。すぐ近くです」


(……相談、って言ってたよな?)


――というわけで、僕はあっさり捕まった。


向かったのは、梅田だった。

淀屋橋から一駅。

本来なら電車ですぐだけど、予約は17時。

少し時間がある。


「……歩こうか。一駅分くらいなら、ちょうどいい」


一ノ瀬が頷く。

けど、問題はリィナだ。

目立つ。


僕が口にする前に、リィナが小さく指を組んだ。

次の瞬間――“いる”のに、意識がそこを素通りする感覚が生まれる。


見れば確かに立っている。

でも、認識しようとしない限り、頭に入ってこない。


(……視界を消すんじゃなくて、認識をずらすタイプか)


一ノ瀬が小声で言う。


「リィナのスキルです。気配を消して、意識されにくくしてます」


そのまま僕らは、梅田へ向かって一駅分歩いた。

地下街を抜けて地上に出て、ビルの谷間の路地へ入る。


大通りの音がふっと遠のんだ先に、目的の和食店があった。

派手さはないのに、入口の時点で「高い」と分かる。


(財布が、先に身構えてる)


通された個室は、和風モダンで落ち着いていた。

一ノ瀬の隣にリィナが座り、視線を外に向ける。

“話をしていい場所”を、ちゃんと作ってくれてる感じがした。


注文が終わると、一ノ瀬が小さく頭を下げる。


「改めて──あのとき、助けてくださってありがとうございました」


「病院でも言ってたろ。気にしなくていいって」


「……でも、言いたかったんです」


その言い方が、嘘じゃないのがわかる。


「じゃあ、ありがたく受け取っとくよ」


一ノ瀬は、少しだけ照れたように笑った。


そこからは自然に、少し雑談になった。


「時任さんって、ゲートに入る前……どんなお仕事だったんですか?」


「今も辞めてないよ。ITの会社で、開発のプロジェクトマネージャーをしてる」


「意外です。もっと“現場慣れ”してる人かと思ってました」


「現場慣れって意味なら、システム開発にも“炎上”があって……」


「……あ、聞かない方がいいやつですね」


「その通り。やめとこう。――一言だけ言うと、ITの仕事って世間が思ってる以上に、泥臭い」


リィナは無言のまま。

でも一ノ瀬の呼吸のすぐそばに、守る気配だけ置いている。


(ほんと、護衛だな)


料理が運ばれてきたあたりで、僕は背中に薄い寒気を感じた。


(……視線)


ブレスレットの奥。影の奥。


――いる。

確実に見てる。


“美味しいものを目の前で食べてる側”と、“出てこられない側”のふたりが。


(ごめん。これは仕事の延長だ)


心の中で謝って、箸を取る。


前菜、吸い物、そして――和牛の炙り。

香りだけで、もう反則みたいだった。


「……これは、反則だな」


思わず漏れる。


「ふふ。ここのお肉、評判なんです」


一ノ瀬は嬉しそうに笑う。

でも、その笑顔の奥に――ほんの少しだけ影が見えた。


そして、それはすぐ言葉になる。


「……あの、時任さん。そろそろ、相談の方……いいですか?」


「もちろん」


一ノ瀬はグラスに口をつけて、一口、二口。

その目が、もう笑っていなかった。


「……父が、浮気してたんです。それも三人。高校生のときに全部バレて……母が泣いてました」


「……そうだったんだ」


静かな声だった。

でも言葉が、刃みたいに細い。


「たぶん私、それで……ずっと男性不信なんです。優しくされると裏がある気がして。言葉も、全部疑ってしまう」


「……」


「すみません。いきなり、こんな話」


「いいよ。言いたいこと、全部言って」


「……で、ですね。私、この前まで大学院生で……いま特務班に配属されて……社会人一年目で……」


「うん」


「上司も、ほとんど男性で。どう接していいか、わからなくなるときがあって……」


「そりゃそうだよ。特殊な職場だろうし、最初から上手くやれる人の方が少ない」


一ノ瀬は小さく頷く。


「“エース”って言われるのも、怖いです。自分がそんな存在でいいのかもわからなくて……プレッシャーもすごくて……」


(……張りつめすぎてる)


僕は、言葉を急がないようにした。

焦って正論を投げると、余計刺さる。


「まず、ひとつだけ。怖いって思ってる時点で、もうちゃんと現実を見てる。……それだけで、十分えらいよ」


「……」


「次。距離感は“最初から正解”を作らなくていい。自分が壊れない範囲の距離を、少しずつ調整していけばいい」


「……はい」


「頼るのが苦手なら、“頼り方”を小さくする。全部言わなくていい。まずは一個だけ、相談する。そういうのでいい」


一ノ瀬は、何度か頷いて、少し笑って、またグラスを傾けた。


そして――なんとなく予想していた質問が、ふいに来る。


「……男の人って、みんな浮気するんですか?」


グラスを持つ手が止まった。


(……根っこは、そこなんだな)


僕は目を逸らさず、落ち着いて返した。


「持論だけど。性別じゃないと思う。する人はする。しない人はしない。それだけ」


「……」


「ただ、浮気しそうな人って、目につきやすい。派手だったり、言葉が上手かったり。そういう人ほど記憶に残るから、“みんなそう”に見える時がある」


一ノ瀬は小さく息を吐いた。


「……なるほど」


少しだけ、肩が落ちた。

でも、質問はまだ続いた。


「……時任さんって、奥さん、いるんですか?」


「いや。今はいないよ」


「じゃあ……彼女さんは?」


「いるよ」


「……じゃあ──時任さんも、浮気、するんですか?」


真正面から来た。

僕は一瞬だけ黙る。


どう答えるのが正しいか。

……じゃない。


(僕は、どう在りたいんだろう)


結婚していた頃、そんなことはしなかった。

でも今の僕は、もう「会社員だけ」の自分じゃない。


胸の内で、そっと呼ぶ。


『……ディア。僕がもし、他の誰かに心が揺れたら。どう思う?』


返事は早かった。静かで、でも迷いのない声。


『そうね──あなたが、私とコユキを“一番”に置き続けてくれるなら。私は、それだけでいいわ』


『あなたが望むなら、他の女性と関係を持つこと自体を、私は頭ごなしに否定しない……』


『できたら……隠しごとはしないでほしい。それに……私は、あなたに“義務”で隣にいてほしくないの。責任感だけで私を選ぶのは、少し悲しい』


『私はずっと、あなたの一番でいたい。だけど同時に──あなたが、ワクワクしながら隣にいてくれることを望んでるのよ』


……ディアらしい。

合理的で、冷たいようで、妙に優しい。


でも、ふと引っかかる。


(前は、そんな余裕なかっただろ)


恋心に目覚めた直後。

わかりやすく嫉妬して――空気がピリついた夜が、確かにあった。


『……ディア、変わったな』


僕がそう返すと、間髪入れずに返事が飛んできた。


『ええ。私も成長するのよ』


『あなたの隣にいると、学ぶことが多い。……あの時の私は“初めての感情”で、扱い方を知らなかった。だから、つい噛みつきたくなっただけ』


影の奥から、コユキが小さく鼻を鳴らす気配がした。


『“噛みつく”って言い方、かわいく言い換えてるだけだよね』


『黙りなさい、コユキ』


(……通常運転だな)


胸の奥が、少しだけ軽くなる。

この会話だけで、答えはまとまった。


僕はグラスを置いて、一ノ瀬を見る。


「僕は、嘘をついてまで浮気はしない。たぶん、それはしない」


一ノ瀬の目が揺れる。


「……たぶん?」


「“たぶん”って言うと弱いけど。人は、惹かれることはある。それ自体は止められない」


一ノ瀬の眉が、ほんの少し動く。


「でも、もし彼女が“それでもいい”と分かった上で許して、相手も事情を理解して納得して――全員が同意してるなら……形として成立する場合は、あるかもしれない」


「じゃあ……彼女が嫌って言ったら?」


「やらない。許してくれないのにやるのは、浮気じゃなくて、裏切りだから」


一ノ瀬は、しばらく僕の顔を見ていた。

それから、ふっと息を吐く。


「……ふーん……」


含みのある相槌。

でも、さっきより少しだけ――肩の力が抜けたようにも見えた。


「……時任さんって、誠実ですね」


「許可がある前提で話してる時点で、誠実かどうかは怪しいけど」


僕は少しだけ肩をすくめた。


「世間には“オープンマリッジ”とか“ポリアモリー”とか、そういう言葉もあるしね。多様性の時代って、便利な言い方もできる」


……言った瞬間、自分で自分にツッコミたくなった。

さっきから、口がやけに滑る。


(……あれ。今日、僕もちょっと饒舌だな)


たぶん酒のせいだ、たぶん。

状態異常耐性(アブノーマルシールド)があっても……口が軽くなるのは防げないらしい。


一ノ瀬は、黙って僕の言葉を待っている。


「若い頃、ドイツに住んでた友人がいてさ。奥さんとは別に“ソウルメイト”だって紹介された女性がいたんだよ。で、驚いたのが——奥さんとその人も普通に仲が良かった。変に隠してる感じもなくて、ちゃんと“合意の形”として成立してた」


グラスの縁を指でなぞってから、僕は視線を戻す。


「だから、当事者同士が納得してるなら、形はいろいろあっていいと思う。恋愛の形だけじゃなくて、人間関係って本来そういうもんだろって」


一拍。


「ただ——それでも、僕は“裏切り”はしたくない。恋愛に限らずね」


「……うん」


僕が苦笑すると、一ノ瀬も小さく笑った。


「……話、変わるんですけど。ゲート内のことなんですけどね──」


どうやら、夜はまだ終わらないらしい。


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