067話『問いと応え』
政府庁舎のロビーを抜けて、外に出た。
春の空気がふっと肺に入って、肩の力が少しだけ抜ける。
街の音が戻ってきて、ようやく現実に足がついた気がした。
(……やっと終わった)
そう思った瞬間――
「──時任さん!」
背中に飛んできた声に振り返る。
そこにいたのは、一ノ瀬透花だった。
特務班の制服姿のまま、小走りでこちらに寄ってくる。
その横に、いつものようにリィナが静かに並んでいた。
「お疲れさまです。あの……今、お時間ありますか?」
「ん?どうしたの」
一ノ瀬は、一拍置いてから真っすぐ言った。
「前に助けていただいたお礼が、きちんとできていなくて……それと、もうひとつ。相談に、乗ってほしいんです」
“相談”の言い方が、妙にまっすぐだった。
お礼だけなら、たぶん僕は「もう十分だよ」で流した。
でも――相談と言われると、逃げづらい。
(年下って、こういう時ずるいな)
「わかった。じゃあ、少しだけ」
そう言った瞬間、一ノ瀬の肩がふっと落ちた。
安堵の息が見えるくらい、わかりやすい。
そして次の瞬間、彼女はスマホを取り出した。
「えっと……お肉とお魚、どちらが好きですか?」
「……急に?じゃあ、お肉」
「わかりました」
スラスラと画面を操作して、迷いがない。
予約完了の通知が出たらしく、一ノ瀬は顔を上げて笑った。
「個室、取れました。すぐ近くです」
(……相談、って言ってたよな?)
――というわけで、僕はあっさり捕まった。
向かったのは、梅田だった。
淀屋橋から一駅。
本来なら電車ですぐだけど、予約は17時。
少し時間がある。
「……歩こうか。一駅分くらいなら、ちょうどいい」
一ノ瀬が頷く。
けど、問題はリィナだ。
目立つ。
僕が口にする前に、リィナが小さく指を組んだ。
次の瞬間――“いる”のに、意識がそこを素通りする感覚が生まれる。
見れば確かに立っている。
でも、認識しようとしない限り、頭に入ってこない。
(……視界を消すんじゃなくて、認識をずらすタイプか)
一ノ瀬が小声で言う。
「リィナのスキルです。気配を消して、意識されにくくしてます」
そのまま僕らは、梅田へ向かって一駅分歩いた。
地下街を抜けて地上に出て、ビルの谷間の路地へ入る。
大通りの音がふっと遠のんだ先に、目的の和食店があった。
派手さはないのに、入口の時点で「高い」と分かる。
(財布が、先に身構えてる)
通された個室は、和風モダンで落ち着いていた。
一ノ瀬の隣にリィナが座り、視線を外に向ける。
“話をしていい場所”を、ちゃんと作ってくれてる感じがした。
注文が終わると、一ノ瀬が小さく頭を下げる。
「改めて──あのとき、助けてくださってありがとうございました」
「病院でも言ってたろ。気にしなくていいって」
「……でも、言いたかったんです」
その言い方が、嘘じゃないのがわかる。
「じゃあ、ありがたく受け取っとくよ」
一ノ瀬は、少しだけ照れたように笑った。
そこからは自然に、少し雑談になった。
「時任さんって、ゲートに入る前……どんなお仕事だったんですか?」
「今も辞めてないよ。ITの会社で、開発のプロジェクトマネージャーをしてる」
「意外です。もっと“現場慣れ”してる人かと思ってました」
「現場慣れって意味なら、システム開発にも“炎上”があって……」
「……あ、聞かない方がいいやつですね」
「その通り。やめとこう。――一言だけ言うと、ITの仕事って世間が思ってる以上に、泥臭い」
リィナは無言のまま。
でも一ノ瀬の呼吸のすぐそばに、守る気配だけ置いている。
(ほんと、護衛だな)
料理が運ばれてきたあたりで、僕は背中に薄い寒気を感じた。
(……視線)
ブレスレットの奥。影の奥。
――いる。
確実に見てる。
“美味しいものを目の前で食べてる側”と、“出てこられない側”のふたりが。
(ごめん。これは仕事の延長だ)
心の中で謝って、箸を取る。
前菜、吸い物、そして――和牛の炙り。
香りだけで、もう反則みたいだった。
「……これは、反則だな」
思わず漏れる。
「ふふ。ここのお肉、評判なんです」
一ノ瀬は嬉しそうに笑う。
でも、その笑顔の奥に――ほんの少しだけ影が見えた。
そして、それはすぐ言葉になる。
「……あの、時任さん。そろそろ、相談の方……いいですか?」
「もちろん」
一ノ瀬はグラスに口をつけて、一口、二口。
その目が、もう笑っていなかった。
「……父が、浮気してたんです。それも三人。高校生のときに全部バレて……母が泣いてました」
「……そうだったんだ」
静かな声だった。
でも言葉が、刃みたいに細い。
「たぶん私、それで……ずっと男性不信なんです。優しくされると裏がある気がして。言葉も、全部疑ってしまう」
「……」
「すみません。いきなり、こんな話」
「いいよ。言いたいこと、全部言って」
「……で、ですね。私、この前まで大学院生で……いま特務班に配属されて……社会人一年目で……」
「うん」
「上司も、ほとんど男性で。どう接していいか、わからなくなるときがあって……」
「そりゃそうだよ。特殊な職場だろうし、最初から上手くやれる人の方が少ない」
一ノ瀬は小さく頷く。
「“エース”って言われるのも、怖いです。自分がそんな存在でいいのかもわからなくて……プレッシャーもすごくて……」
(……張りつめすぎてる)
僕は、言葉を急がないようにした。
焦って正論を投げると、余計刺さる。
「まず、ひとつだけ。怖いって思ってる時点で、もうちゃんと現実を見てる。……それだけで、十分えらいよ」
「……」
「次。距離感は“最初から正解”を作らなくていい。自分が壊れない範囲の距離を、少しずつ調整していけばいい」
「……はい」
「頼るのが苦手なら、“頼り方”を小さくする。全部言わなくていい。まずは一個だけ、相談する。そういうのでいい」
一ノ瀬は、何度か頷いて、少し笑って、またグラスを傾けた。
そして――なんとなく予想していた質問が、ふいに来る。
「……男の人って、みんな浮気するんですか?」
グラスを持つ手が止まった。
(……根っこは、そこなんだな)
僕は目を逸らさず、落ち着いて返した。
「持論だけど。性別じゃないと思う。する人はする。しない人はしない。それだけ」
「……」
「ただ、浮気しそうな人って、目につきやすい。派手だったり、言葉が上手かったり。そういう人ほど記憶に残るから、“みんなそう”に見える時がある」
一ノ瀬は小さく息を吐いた。
「……なるほど」
少しだけ、肩が落ちた。
でも、質問はまだ続いた。
「……時任さんって、奥さん、いるんですか?」
「いや。今はいないよ」
「じゃあ……彼女さんは?」
「いるよ」
「……じゃあ──時任さんも、浮気、するんですか?」
真正面から来た。
僕は一瞬だけ黙る。
どう答えるのが正しいか。
……じゃない。
(僕は、どう在りたいんだろう)
結婚していた頃、そんなことはしなかった。
でも今の僕は、もう「会社員だけ」の自分じゃない。
胸の内で、そっと呼ぶ。
『……ディア。僕がもし、他の誰かに心が揺れたら。どう思う?』
返事は早かった。静かで、でも迷いのない声。
『そうね──あなたが、私とコユキを“一番”に置き続けてくれるなら。私は、それだけでいいわ』
『あなたが望むなら、他の女性と関係を持つこと自体を、私は頭ごなしに否定しない……』
『できたら……隠しごとはしないでほしい。それに……私は、あなたに“義務”で隣にいてほしくないの。責任感だけで私を選ぶのは、少し悲しい』
『私はずっと、あなたの一番でいたい。だけど同時に──あなたが、ワクワクしながら隣にいてくれることを望んでるのよ』
……ディアらしい。
合理的で、冷たいようで、妙に優しい。
でも、ふと引っかかる。
(前は、そんな余裕なかっただろ)
恋心に目覚めた直後。
わかりやすく嫉妬して――空気がピリついた夜が、確かにあった。
『……ディア、変わったな』
僕がそう返すと、間髪入れずに返事が飛んできた。
『ええ。私も成長するのよ』
『あなたの隣にいると、学ぶことが多い。……あの時の私は“初めての感情”で、扱い方を知らなかった。だから、つい噛みつきたくなっただけ』
影の奥から、コユキが小さく鼻を鳴らす気配がした。
『“噛みつく”って言い方、かわいく言い換えてるだけだよね』
『黙りなさい、コユキ』
(……通常運転だな)
胸の奥が、少しだけ軽くなる。
この会話だけで、答えはまとまった。
僕はグラスを置いて、一ノ瀬を見る。
「僕は、嘘をついてまで浮気はしない。たぶん、それはしない」
一ノ瀬の目が揺れる。
「……たぶん?」
「“たぶん”って言うと弱いけど。人は、惹かれることはある。それ自体は止められない」
一ノ瀬の眉が、ほんの少し動く。
「でも、もし彼女が“それでもいい”と分かった上で許して、相手も事情を理解して納得して――全員が同意してるなら……形として成立する場合は、あるかもしれない」
「じゃあ……彼女が嫌って言ったら?」
「やらない。許してくれないのにやるのは、浮気じゃなくて、裏切りだから」
一ノ瀬は、しばらく僕の顔を見ていた。
それから、ふっと息を吐く。
「……ふーん……」
含みのある相槌。
でも、さっきより少しだけ――肩の力が抜けたようにも見えた。
「……時任さんって、誠実ですね」
「許可がある前提で話してる時点で、誠実かどうかは怪しいけど」
僕は少しだけ肩をすくめた。
「世間には“オープンマリッジ”とか“ポリアモリー”とか、そういう言葉もあるしね。多様性の時代って、便利な言い方もできる」
……言った瞬間、自分で自分にツッコミたくなった。
さっきから、口がやけに滑る。
(……あれ。今日、僕もちょっと饒舌だな)
たぶん酒のせいだ、たぶん。
状態異常耐性があっても……口が軽くなるのは防げないらしい。
一ノ瀬は、黙って僕の言葉を待っている。
「若い頃、ドイツに住んでた友人がいてさ。奥さんとは別に“ソウルメイト”だって紹介された女性がいたんだよ。で、驚いたのが——奥さんとその人も普通に仲が良かった。変に隠してる感じもなくて、ちゃんと“合意の形”として成立してた」
グラスの縁を指でなぞってから、僕は視線を戻す。
「だから、当事者同士が納得してるなら、形はいろいろあっていいと思う。恋愛の形だけじゃなくて、人間関係って本来そういうもんだろって」
一拍。
「ただ——それでも、僕は“裏切り”はしたくない。恋愛に限らずね」
「……うん」
僕が苦笑すると、一ノ瀬も小さく笑った。
「……話、変わるんですけど。ゲート内のことなんですけどね──」
どうやら、夜はまだ終わらないらしい。




