060話『堕ちた魔女』
──40階層。
39階の荒野で休んだはずなのに、転送陣を抜けた瞬間、空気が“粘った”。
乾いた風は消え、灰色の靄が肌にまとわりつく。
喉の奥が甘く痺れる。
匂いだけで、嫌な予感が確信に変わった。
「……ここ、空気がまずい」
床は硬い石なのに、足裏に沈むような感覚がある。
現実の質感が薄い。
――それが一番怖い。
中央に、灯りが一本だけ残っていた。
燃え尽きた蝋燭みたいな魔力の残滓。
その光の中に“女”が立っている。
「……女、か?」
いや、正確には――“女だったもの”。
黒く朽ちたドレス。
崩れた顔面。
空洞の瞳。
その周囲だけ、影が濃い。
影が、息をしている。
コユキが視線を細くする。
「堕ちた魔女……。闇の残滓で動いてる。たぶん、幻惑系が本命」
「歓迎の挨拶が来そうね」
ディアの声が柔らかい。
柔らかいのに、警戒は鋭い。
次の瞬間。
女リッチが、口を開いた。
「ようこそ、我が幻想の宴へ──」
声が響いた瞬間、闇の奔流が放たれた。
空間全体が“夜”に沈む。
視界が黒く塗りつぶされるのに、音だけがやけに鮮明だ。
布が擦れる音、骨が軋む音、遠くで誰かが笑う声。
「広範囲……!」
「僕が入る!」
判断は速かった。
ここで守りに入ると、確実に削られる。
初手で崩す。
僕は影へ滑り込む。
影移動――発動。
闇の縁を蹴って死角へ。
いつもの勝ち筋。
視界の外に回って、空間斬糸で切る。
「──行け」
空間斬糸――展開。
糸が空間を裂いて、女の背へ伸びる。
当たる。
――そう思った。
「……甘い」
吐き捨てた瞬間、杖が虚空を切った。
「──闇散れ。闇焔刃」
黒煙が膨れ上がり、紫黒の刃が“遅れて”飛び出す。
反応はした。身体も動いた。
なのに――刃の軌道が、僕の回避を一歩だけ追い越した。
「っ……!」
脇腹をかすめる。
熱い。
焼けるのに、同時に冷たい。
皮膚の下に、氷みたいな痛みが潜り込んでくる。
(……当たった。浅い、でも――)
痛み自体は致命傷じゃない。
問題は、その瞬間だけ意識が“痛み”に引っ張られたことだった。
金曜からずっとゲート内。
身体はスキルで回復しているのに、精神は休み切れていない。
その薄い疲れの層に、今の一撃が刺さって――集中の芯が、ほんの一拍だけ揺らいだ。
(まずい……)
頭の奥で“当たり前”に張り続けていた糸が、ぷつん、と切れた。
(……技能共有結が……途切れた?)
熟練してからは、呼吸みたいに繋がっていたのに。
つまり今の僕は、精神の安定を欠いた――そういうことだ。
コユキの気配が薄い。
ディアの魔力の輪郭も遠い。
スーラの振動も掴めない。
そして、共有をされていたスキルがすべて切れる。
40階で、これは――致命的だ。
焦りが浮かぶ。
浮かんだだけで、視界が一段暗くなる。
女が、静かに囁いた。
「響きなさい。甘き呪縛」
ぞわり、と皮膚が総毛立った。
甘ったるい香りが、空気に混ざる。
味のないはずのダンジョンで、舌に“蜜”が乗る錯覚。
そして――声。
耳じゃない。
頭の奥に、直接落ちてくる。
──怖くないわ……全部、私に委ねて。
あなたは、ただ私を見ていればいいの。
(……あ……れ……?)
視界が、歪んだ。
目の前のディアが――“敵”に見えた。
コユキの白い毛並みが、汚れた影みたいに見えた。
スーラの透明な青銀が、毒々しい何かに変わった。
逆に、中央の醜悪な女が――この世界で一番“正しい”存在に見えた。
(おかしい。分かってる。分かってるのに――)
胸の奥が熱くなる。
守らなきゃ、という感情が生まれる。
誰を?あの女を。
……意味が分からない。
「……お前ら、なんでそこにいるんだよ」
声が、勝手に低くなる。
金属バットを握る手に力が入る。
「邪魔だ……そこから、どけ……!」
コユキの声がする。遠い。
「錯覚よ、秀人。意識を保って――!」
ディアも叫ぶ。
でもその言葉は、僕の耳に“攻撃”として入ってくる。
守らなきゃ。
守らなきゃ。
(違う。違う、違う――)
スーラが、右腕の内側から刺すような振動を送ってきた。
微細な痛み。
僕を止めようとしている。
「……やめて。なんで……敵意なんて……」
そこで――腹が冷えた。
赤黒い“槍”が、腹部に突き立つ感覚。
「──ぐっ……!」
息が抜ける。
口の中に鉄の味。
視界が赤黒く染まる。
痛い。
痛い、という言葉が軽い。
脳が焼ける。
内臓をかき混ぜられる。
“死ぬ”という確信だけが、綺麗に残った。
(……ここで?こんな――)
膝が落ちる。影が滲む。
そして、ふと気づく。
痛みが、“引いていく”。
槍の熱が冷え、輪郭が薄れ、指先で触れたはずの硬さが霧みたいに消える。
(……この感触、知ってる)
あのときだ。
ディアと初めて会った夜――僕の腹を貫いた“赤黒い槍”。
これは――幻覚だ。
その瞬間、氷水みたいな声が、心の奥に響いた。
「目を覚ましなさい、秀人」
ディアの声。
怒っている。
だけど、切実だ。
「甘い声に釣られないで。あなたの意思は……他人の声で操られる人じゃないでしょう?」
幻覚による死と、その一言で、理性が戻った。
目の前が一気に晴れる。
甘い匂いが腐った砂糖に変わり、吐き気がこみ上げる。
「……っ、ディア……」
「今のうちよ。技能共有結、再構築して」
僕は震える息を押し込み、意識を深く落とす。
コユキ、ディア、スーラ――輪郭を探して、結び直す。
技能共有結――再接続。
ぷつり、と戻る感覚。
頭の奥の“線”が、また三本に増える。
「戻った?」
コユキの声が、今度ははっきり届いた。
「……戻った。ごめん、危なかった」
「やっと戻った。じゃ、次は仕返しの番だね」
ディアが小さく笑う。
笑ってるのに、目は笑ってない。
僕の胸が痛む。
(反省は後。まず勝つ)
「隙、作る。いける?」
コユキが影へ滑る。
スーラが右腕から伸び、床の一部を溶かして“逃げ道”を作る。
ディアの結界が薄く広がり、女の闇の流れを一瞬だけ鈍らせた。
「行ける。……今度は外さない」
僕は影を踏む。
影移動――発動。
時間視界――同時に、世界が少し遅くなる。
糸が女の周囲を包囲し、動きを縛る。
女リッチが杖を振ろうとした、その瞬間。
スーラが飛んだ。
ぷに、と音がしそうな柔らかさで、杖に絡みつく。
黒い杖の先端が、泡立つように溶けて消える。
「今!」
コユキが背後へ回り、影から噛みつく。
魔力の残滓が、霧散する音。
女が呻く。
「そんな……我が、宴が……!」
「宴は片づけるものだよ」
コユキの声が冷たい。
ディアが、短く告げる。
「秀人、終わらせて」
僕は頷く。
痛みの記憶が、まだ腹に残っている。――あれが幻覚でも、身体は覚えてしまう。
だからこそ、今は見失わない。
影移動で懐へ。
糸を一点に集める。
空間ごと切る。
「……これで、終わりだ」
空間斬糸――収束、断ち切り。
女リッチの身体が、静かに崩れた。
断末魔は、遠くの蝋燭みたいに細く、消える。
「……終わった」
ようやく、空気の粘りが薄れる。
灰色の靄が、引いていく。
ディアがゆっくり近づいてきた。
ミニチュアの姿のまま、僕の胸元を見上げる。
「……ありがとう。戻ってきてくれて」
「……さっきの槍、前にやられた時以上に……本気で死ぬと思った」
「幻覚でも、心は死ぬわ。だから、叩き起こした」
一瞬だけ、ディアの声が揺れる。
「……あなたに敵意を向けられたときは、ちょっと悲しかったけどね」
胸がきゅっとなる。
「ごめん。次は、もう少し気をつける」
コユキが咳払いみたいに尻尾を揺らした。
「反省会は後。ひとまずクリア、おめでとう」
スーラが、右腕でぷにっと震える。
“片づいた”という満足の波紋。
僕は息を吐いて、コユキの頭をそっと撫でた。
(ありがとう。……本当に)
長かった攻略が、ようやく一区切りついた。
今はただ、この小さなぬくもりで、心をほどいていく。




