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晩年こそ本番。42歳会社員、喋る猫と現代ダンジョン攻略──ここからが本番だ  作者: 七乃白 志優
第五章:共に在る戦場と日常

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060話『堕ちた魔女』

──40階層。


39階の荒野で休んだはずなのに、転送陣を抜けた瞬間、空気が“粘った”。

乾いた風は消え、灰色の靄が肌にまとわりつく。

喉の奥が甘く痺れる。

匂いだけで、嫌な予感が確信に変わった。


「……ここ、空気がまずい」


床は硬い石なのに、足裏に沈むような感覚がある。

現実の質感が薄い。

――それが一番怖い。


中央に、灯りが一本だけ残っていた。

燃え尽きた蝋燭みたいな魔力の残滓。

その光の中に“女”が立っている。


「……女、か?」


いや、正確には――“女だったもの”。


黒く朽ちたドレス。

崩れた顔面。

空洞の瞳。

その周囲だけ、影が濃い。

影が、息をしている。


コユキが視線を細くする。


「堕ちた魔女……。闇の残滓で動いてる。たぶん、幻惑系が本命」


「歓迎の挨拶が来そうね」


ディアの声が柔らかい。

柔らかいのに、警戒は鋭い。


次の瞬間。


女リッチが、口を開いた。


「ようこそ、我が幻想の宴へ──」


声が響いた瞬間、闇の奔流が放たれた。

空間全体が“夜”に沈む。

視界が黒く塗りつぶされるのに、音だけがやけに鮮明だ。

布が擦れる音、骨が軋む音、遠くで誰かが笑う声。


「広範囲……!」


「僕が入る!」


判断は速かった。

ここで守りに入ると、確実に削られる。

初手で崩す。


僕は影へ滑り込む。


影移動(シャドウ・シフト)――発動。


闇の縁を蹴って死角へ。

いつもの勝ち筋。

視界の外に回って、空間斬糸(スペース・スレッド)で切る。


「──行け」


空間斬糸(スペース・スレッド)――展開。


糸が空間を裂いて、女の背へ伸びる。

当たる。

――そう思った。


「……甘い」


吐き捨てた瞬間、杖が虚空を切った。


「──闇散れ。闇焔刃(ダーク・ブレイズ)


黒煙が膨れ上がり、紫黒の刃が“遅れて”飛び出す。

反応はした。身体も動いた。

なのに――刃の軌道が、僕の回避を一歩だけ追い越した。


「っ……!」


脇腹をかすめる。

熱い。

焼けるのに、同時に冷たい。

皮膚の下に、氷みたいな痛みが潜り込んでくる。


(……当たった。浅い、でも――)


痛み自体は致命傷じゃない。

問題は、その瞬間だけ意識が“痛み”に引っ張られたことだった。


金曜からずっとゲート内。

身体はスキルで回復しているのに、精神は休み切れていない。

その薄い疲れの層に、今の一撃が刺さって――集中の芯が、ほんの一拍だけ揺らいだ。


(まずい……)


頭の奥で“当たり前”に張り続けていた糸が、ぷつん、と切れた。


(……技能共有結(コードリンク)が……途切れた?)


熟練してからは、呼吸みたいに繋がっていたのに。

つまり今の僕は、精神の安定を欠いた――そういうことだ。


コユキの気配が薄い。

ディアの魔力の輪郭も遠い。

スーラの振動も掴めない。

そして、共有をされていたスキルがすべて切れる。


40階で、これは――致命的だ。


焦りが浮かぶ。

浮かんだだけで、視界が一段暗くなる。


女が、静かに囁いた。


「響きなさい。甘き呪縛(アモール・ドレイン)


ぞわり、と皮膚が総毛立った。

甘ったるい香りが、空気に混ざる。

味のないはずのダンジョンで、舌に“蜜”が乗る錯覚。


そして――声。


耳じゃない。

頭の奥に、直接落ちてくる。


──怖くないわ……全部、私に委ねて。

あなたは、ただ私を見ていればいいの。


(……あ……れ……?)


視界が、歪んだ。


目の前のディアが――“敵”に見えた。

コユキの白い毛並みが、汚れた影みたいに見えた。

スーラの透明な青銀が、毒々しい何かに変わった。


逆に、中央の醜悪な女が――この世界で一番“正しい”存在に見えた。


(おかしい。分かってる。分かってるのに――)


胸の奥が熱くなる。

守らなきゃ、という感情が生まれる。

誰を?あの女を。

……意味が分からない。


「……お前ら、なんでそこにいるんだよ」


声が、勝手に低くなる。

金属バットを握る手に力が入る。


「邪魔だ……そこから、どけ……!」


コユキの声がする。遠い。


「錯覚よ、秀人。意識を保って――!」


ディアも叫ぶ。


でもその言葉は、僕の耳に“攻撃”として入ってくる。

守らなきゃ。

守らなきゃ。


(違う。違う、違う――)


スーラが、右腕の内側から刺すような振動を送ってきた。

微細な痛み。

僕を止めようとしている。


「……やめて。なんで……敵意なんて……」


そこで――腹が冷えた。


赤黒い“槍”が、腹部に突き立つ感覚。


「──ぐっ……!」


息が抜ける。

口の中に鉄の味。

視界が赤黒く染まる。


痛い。

痛い、という言葉が軽い。

脳が焼ける。

内臓をかき混ぜられる。

“死ぬ”という確信だけが、綺麗に残った。


(……ここで?こんな――)


膝が落ちる。影が滲む。

そして、ふと気づく。


痛みが、“引いていく”。


槍の熱が冷え、輪郭が薄れ、指先で触れたはずの硬さが霧みたいに消える。


(……この感触、知ってる)


あのときだ。

ディアと初めて会った夜――僕の腹を貫いた“赤黒い槍”。


これは――幻覚だ。


その瞬間、氷水みたいな声が、心の奥に響いた。


「目を覚ましなさい、秀人」


ディアの声。

怒っている。

だけど、切実だ。


「甘い声に釣られないで。あなたの意思は……他人の声で操られる人じゃないでしょう?」


幻覚による死と、その一言で、理性が戻った。

目の前が一気に晴れる。

甘い匂いが腐った砂糖に変わり、吐き気がこみ上げる。


「……っ、ディア……」


「今のうちよ。技能共有結(コードリンク)、再構築して」


僕は震える息を押し込み、意識を深く落とす。

コユキ、ディア、スーラ――輪郭を探して、結び直す。


技能共有結(コードリンク)――再接続。


ぷつり、と戻る感覚。

頭の奥の“線”が、また三本に増える。


「戻った?」


コユキの声が、今度ははっきり届いた。


「……戻った。ごめん、危なかった」


「やっと戻った。じゃ、次は仕返しの番だね」


ディアが小さく笑う。

笑ってるのに、目は笑ってない。

僕の胸が痛む。


(反省は後。まず勝つ)


「隙、作る。いける?」


コユキが影へ滑る。

スーラが右腕から伸び、床の一部を溶かして“逃げ道”を作る。

ディアの結界が薄く広がり、女の闇の流れを一瞬だけ鈍らせた。


「行ける。……今度は外さない」


僕は影を踏む。


影移動(シャドウ・シフト)――発動。


時間視界(クロノサイト)――同時に、世界が少し遅くなる。


糸が女の周囲を包囲し、動きを縛る。

女リッチが杖を振ろうとした、その瞬間。


スーラが飛んだ。


ぷに、と音がしそうな柔らかさで、杖に絡みつく。

黒い杖の先端が、泡立つように溶けて消える。


「今!」


コユキが背後へ回り、影から噛みつく。

魔力の残滓が、霧散する音。


女が呻く。


「そんな……我が、宴が……!」


「宴は片づけるものだよ」


コユキの声が冷たい。


ディアが、短く告げる。


「秀人、終わらせて」


僕は頷く。

痛みの記憶が、まだ腹に残っている。――あれが幻覚でも、身体は覚えてしまう。


だからこそ、今は見失わない。


影移動(シャドウ・シフト)で懐へ。

糸を一点に集める。

空間ごと切る。


「……これで、終わりだ」


空間斬糸(スペース・スレッド)――収束、断ち切り。


女リッチの身体が、静かに崩れた。

断末魔は、遠くの蝋燭みたいに細く、消える。


「……終わった」


ようやく、空気の粘りが薄れる。

灰色の靄が、引いていく。


ディアがゆっくり近づいてきた。

ミニチュアの姿のまま、僕の胸元を見上げる。


「……ありがとう。戻ってきてくれて」


「……さっきの槍、前にやられた時以上に……本気で死ぬと思った」


「幻覚でも、心は死ぬわ。だから、叩き起こした」


一瞬だけ、ディアの声が揺れる。


「……あなたに敵意を向けられたときは、ちょっと悲しかったけどね」


胸がきゅっとなる。


「ごめん。次は、もう少し気をつける」


コユキが咳払いみたいに尻尾を揺らした。


「反省会は後。ひとまずクリア、おめでとう」


スーラが、右腕でぷにっと震える。

“片づいた”という満足の波紋。


僕は息を吐いて、コユキの頭をそっと撫でた。


(ありがとう。……本当に)


長かった攻略が、ようやく一区切りついた。

今はただ、この小さなぬくもりで、心をほどいていく。


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