059話『戦闘ゴミ箱』
朝の目覚めは、やや重たかった。
「……7時か」
ディアの結界のおかげで安心して眠れたのはありがたい。
スキルの恩恵もあって、体力や筋力の“回復”そのものは足りている。寝起きの関節も重くない。
それでも――目が覚めた瞬間、胸の奥に薄い膜みたいな疲れが残っていた。
(自宅のぬくぬくのベッドと違って、ここは“休む場所”じゃない。寝てても、どこかで警戒が切れない)
濡れタオルで顔を拭き、首筋の汗を拭う。
身体は整っているのに、気持ちだけが一拍遅れて追いついてこない。
(……シャワー、浴びたい)
ソファ代わりの石に丸まっていたコユキが、僕の顔をちらりと見た。
あくび混じりなのに、観察は鋭い。
「……不服そう。シャワーの夢でも見た?」
「顔に出てた?」
「出てる。お風呂が恋しい顔」
「……否定できないな」
ディアが小さく笑って、カップを揺らす。
声は柔らかいのに、言うことは現実的だ。
「結界で眠りは守れるけど、快適さまで“家”にはならないものね。慣れるしかないわ」
こんなことをここで引きずると今日の判断が鈍る。
仕事でも同じ――“感情の滞留”は集中を腐らせる。
朝食を終え、軽くストレッチをして、気合を入れ直す。
「よし、行こう。今日は……40階まで、抜ける」
コユキとディアが頷き、僕たちは転送陣から36階層へ踏み込んだ。
開けた空間に足を踏み入れた途端、空気の質が変わった。
湿り気の奥に、金属を溶かすような酸味。鼻の奥がわずかに痺れる。
そこに、“それ”は静かにいた。
「スライム……?いや、なんか違う……?」
透明な体に銀の縁取り。
ぷるんと揺れる体表の奥で、魔力の波紋がじんわり拡がっている。
見た目は綺麗な銀色ゼリーだ。
足元の石畳が、ヌルリと崩れていた。
「……床、溶けてる?」
ダンジョン特有の硬質な岩石が、腐食したみたいに滑らかな凹みに変わっている。
その中央で、半透明のスライムが小さく揺れていた。
ディアが目を細める。
「任意の物質を……溶かしてるわね。石も対象。でも全部じゃなくて、“選んで”溶かしてる」
コユキが淡々と補足する。
「じゃないと、この地面も階段も全部なくなる。下の階に即落下コース」
「想像が最悪すぎる……」
僕が突っ込むより先に、スライムが、ぴょこ、ぴょこ、と近づいてきた。
威圧感はない。
でも“能力が危険”な個体は、気配が静かなほど怖い。
僕は腰の金属バットを抜いた。
このゲートに来てから、ずっと相棒みたいに握ってきた一本だ。
「……ちょっと失礼」
威嚇半分、反応確認の軽い一撃。
バットの先端が、ヌルリ、と触れた。
その瞬間。
「……え?」
金属が、じわじわと黒く染まり、泡立つように――溶けた。
触れただけ。
相手は、ただ揺れているだけなのに。
「……武器、溶かされた?」
表面張力だけで形を保っているようなゼリー状の体。
その一部が金属を飲み込むように絡みつき、そして、あっさり“消化”していく。
威圧感は、ない。
だけど――明確な危険だけがある。
「……ただ者じゃないな、こいつ」
そこで、僕の口が勝手に動いた。
「……これ、契約できないかな」
「は?」
「え?」
ディアとコユキが、見事に声を揃えた。
――あっ。
口が先に出た。
でも不思議と、後悔はなかった。
理屈じゃない。“今ここで契約すべきだ”と、直感が告げている。
仕事でも、こういう瞬間がある。
数字も理屈も揃ってないのに、確信だけが先に立つやつ。
で、僕の場合……そういう直感を丁寧に扱った方が、結果的にうまくいくことが多い。
もちろん、雑に飛びつくのとは違う。
一回、最悪を想像して、それでも取る価値があるなら――決める。
僕は慌てて言い訳を並べる。
「いや、その、見た目ぷにぷにしてるし……戦闘でも役に立つかもしれないし……ほら、処理とか……」
ディアが一拍置いて、苦笑する。
柔らかい声なのに、内容は容赦がない。
「……魂縛契約、92階のボスでも考えてるなら、あと一体しか契約できないのよ?それでも本気?」
「でも36階、たぶんボスっぽいし、普通に強いはず……それに、この能力、絶対便利だよ」
沈黙。
コユキが小さくため息をついた。
「好きにしたら?……ただし、あとで泣かないでよ」
「よし」
即答してしまった。
こういう判断が“良い社会人”かは知らない。
でも、後悔はしないつもりだ。
ディアも小さく笑って、釘を刺す。
「これまで通り戦闘補助はするわ。でも、その子のことは……あなたが責任を持ちなさいね。私は知らないわよ?」
「もちろん」
魂縛契約のスキルを展開する。
スライムとの魂の接触へ。
スライムは一瞬ぴくりと揺れたが、拒否の意思はない。
むしろ興味深そうに――いや、なんだか嬉しそうに近づいてくる。
「よし……名前がないなら、いるよな。スライムだから……スーラでどう?」
ぷるん、と震えるように応答があった。
【魂魄契約成立──新たな契約個体:スーラ】
右腕に、ぺたっと張り付くように融合してくる。
ぬるくて、冷たくて、妙に心地いい。
……癖になりそうで困る。
「……スーラ。試したいんだけど」
「皮脂と汗だけ吸収、とか……できる?」
沈黙が落ちた。
次の瞬間、ミニチュアのディアが肩に飛び乗ってくる勢いで詰め寄った。
「ちょっと待って。今その発想で契約したの?」
「……衛生面、って理由?」
コユキの冷ややかな視線が痛い。
「だ、だって!昨日今日ずっとベタベタして気持ち悪かったし……!」
スーラから返ってきたのは、言葉ではなく感覚。
“難しい”という、ぼんやりした拒否。
――汗や皮脂だけ、という概念が分からない。
――皮膚ごと溶かす可能性がある。
「やめて!?それは困る!」
「……だから言った」
コユキが呆れたように尻尾を揺らす。
僕は軽く項垂れた。
「やっぱ、ないものねだりだったか……」
ディアが肩を叩く。
声は優しい。でも言葉は的確だ。
「がっかりしないで。処理能力だけでも優秀よ。……ゴミ箱として」
「なんでそこに落ち着くんだよ!」
「だって現実的でしょう?」
「確かに否定できないけど!」
スーラは僕の右腕に巻きついたまま、まるでスライム製のアームパーツみたいになっている。
──37階。
出てきたのは、金属製の大斧を構えたミノタウロスだった。
「ミノタウロスか……しかも武器持ち」
地面が震える。
巨体が突っ込んでくる。
鼻息の熱と鉄の匂いが、距離を詰める速度を教えてくる。
(正面受けは危険。まずは、死角にまわろう)
判断を固めた、その瞬間。
スーラが前に出た。
(──見てて)
そんなふうに伝わる振動。
大斧が振り下ろされ、スーラに命中――したと思った次の瞬間。
「……斧が、溶けてる!?」
接触面から金属が力なくたわみ、熱も火花もないまま輪郭だけが崩れる。
泡が弾けるように欠け、柄の先端から静かに消えていった。
「やった……!スーラ、すごい!」
スーラは跳ねるようにミノタウロスの顔面へ飛びついた。
張り付いた瞬間、ぬるい圧が“押し広がり”湿った音がし、輪郭がほどける――巨体が膝をつく。
「うわ……顔面、消えてる……」
残るのは、空虚な跡だけ。
スーラは満足げにぷにっと波打ちながら、僕の右腕へぺとりと戻ってきた。
(……恐ろしい。でも、頼れる)
ディアが淡く笑う。
「性能は折り紙付きね。もう、完璧な“戦闘ゴミ箱”じゃない」
「その呼び方やめようよ!」
「褒めてるのよ?」
「褒め方が雑!」
コユキが横で、短くまとめる。
「処理担当としては優秀。……今は便利ってことでいいでしょ」
38階。
小休止。時計は13時を回っていた。
ランチを取りながら、出たゴミや容器をスーラに任せて消化してもらう。
便利すぎる。罪悪感が追いつかない。
「……まじで、生活モンスターとしても優秀なんじゃ……」
「何を目指してるの、あなた」
ディアのツッコミは柔らかいのに、刺さる。
「褒めてるんだよな、それ」
「ええ、もちろん。スーラの機能としては最高よ?」
スーラ自身も分かってるのか、身体の波紋がふよんふよんと揺れて楽しげだった。
39階に入ると、空気がまた一段と変わった。
湿り気は消え、乾いた風が頬を撫でる。
地面は岩と砂礫が混じった荒野で、踏み込むたびにざり、と乾いた音が鳴った。
見上げれば天井は高く、遠くに地平線めいた影が伸びている。
閉鎖空間のはずなのに、妙に“広い”。
「……ここ、嫌な広さだな」
景色が開けるぶん、隠れ場所がない。
遮蔽物が少ないのに、視界の端だけがやけに揺れる。
熱気じゃない、魔力の揺らぎのように感じる。
「ここ……なんか、“死”に近い?」
コユキが眉をひそめ、警戒を強める。
スーラは右腕に巻きついたまま動かない。
砂埃を嫌がっているのか、それとも戦いに備えて集中しているのか。
複数のモンスターを撃破しながら、荒野の奥へ進む。
乾いた空気のせいか、呼吸が少し浅くなる。喉の奥がひりつく。
体力は残っているのに、集中だけが削られていく感覚があった。
(広い場所ほど油断が出る。疲れてるときほど、手順を守れ)
戦闘を終え、岩の陰に身体を預けて、僕は大きく息を吐いた。
時間は15時前。
身体は動く。
でも、神経がじわじわ重い。
「終わったか……スーラ、今日ずっと活躍してるな」
軽く右腕を叩くと、スーラがぷにっと応える。
その感触が、乾いた世界の中でやけに“生っぽく”て、少しだけ癒やしになるのが悔しい。
ディアがそっと隣に座る。ミニチュアの姿で、静かに言った。
「お疲れさまです。あとひとつですね」
「今のうちに整えましょう。……40階の前に、全部」
コユキが小さくあくびを漏らしながらも、言葉は締まっている。
「……40階は、きっと一筋縄じゃいかない気がする。いまのうちに、全部整えておくべきだな」
僕は頷きながら、背後の岩肌に身体を預けた。
──あと一層。
スキルが手に入る階層。
“ここまできた”という実感と、“まだ何かが待っている”という予感が、胸の中で混ざり合う。
そんな昼下がりの静けさの中、スーラがそっと僕の胸元に触れてきた。
(……分かってる。お前も、一緒に行くんだよな)
小さく笑って、僕は深く息を吐いた。
そして次の一歩に備えて、しばしの休息に身を預けた。




