058話『巡る癒しと、限界のバット』
朝、6時半。
結界の中は、ダンジョンとは思えないほど穏やかだった。
「……よく寝た。寝たけど……シャワーないの、地味にきついな」
汗の残り方が、思考より先に心を削る。
濡れタオルで拭いても“応急処置”でしかない。
「体を一瞬で清潔にしてくれるスキルとか、ないのかな……」
「ないものはない。……現実的にいこう、秀人」
朝から容赦ない。
ディアが紅茶をひと口含んでから、楽しそうに言う。
「ふふ。もし“潔癖すぎるモンスター”がいたら……そういうスキルを持ってるかもしれないわね」
僕の本気に、二人がくすりと笑った――が。
ディアはカップを置くと、少しだけ表情を改めた。
「……ちなみに。似たことは、私なら“できなくはない”わ」
「たしかに……ディアなら何でもできそう」
「浄化に近い術式なら、汗や臭いを薄くする程度はできるわ。……でも」
ディアの視線が、まっすぐ刺さる。
「それを当たり前にしないで。ここはあなたとコユキが“自力で回す”練習の場でもあるの。私のサポートは最低限よ」
コユキも淡々と続けた。
「ディアが全部やると、秀人の判断が鈍る。依存は、あとで致命傷になる」
「……言い方」
「事実」
「ふふ。必要なときは手を出すわ。でも“快適”を先に配るのは違う。今は――泥臭くいきましょう」
……分かってる。
最初から誰かの手で整えてもらうと、自分で回す力が育たない。
自走できる状態を作るのが先。
仕事も同じだ。
「了解。じゃあ、濡れタオルで我慢します」
「うん。それで十分」
「良い子ね」
朝食を済ませて、探索を再開する。
28階は湿地帯みたいな構造で、足場が悪い。
腐った草の匂い、ぬかるみの吸い付く感触。
毒属性の気配も濃い。
でも、耐性が揃っている今の僕らなら、致命傷にはなりにくい。
「……あれは?」
透明な外殻、淡い緑のコア。
精霊みたいに浮かぶ、美しい“何か”。
敵意を剥き出しにはしていない。
だからこそ、嫌な予感がした。
「可愛い。……でも、厄介そう」
戦闘が始まると、予感は当たった。
そのモンスターは癒律の精霊、ヒール・エコー。
仲間を呼び、回復支援で戦線を延命するタイプだ。
放置すると、いつまでも終わらない。
視界に映る数は増える。
湿った空気が、回復の光をやけに鮮やかに反射する。
そして――回復の“間”が、こちらの攻撃の“間”を奪っていく。
判断は一つだった。
僕が射線をずらし、コユキが影から滑るように距離を詰める。
ディアの声が短く、冷える。
最後は――コユキが、影から滑るように距離を詰めた。
「回復の核を落として。周辺は私が押さえる」
刹那。
コユキの口元が、ほんの少しだけ吊り上がった。
「──模写捕食、完了」
次の瞬間、淡い緑の光がコユキの足元に細く流れた。
「新スキル。癒泉導脈」
「……来たか」
声が漏れる。
回復自体なら、癒光循環もある。
ディアから借りてる再生だってある。
それでも――これは違う。
でも、これは“違う”。
「一定時間、回復を“流し続ける”タイプ。範囲支援。ボクも対象」
「つまり――戦いながら周りを回復し続けられる、ってことだな」
コユキが短く頷く。
今は三人だけで回っている。
でももし、護衛対象が複数いたら。
救出が絡んだら。
後衛を守りながら押し切る必要が出たら。
効くのは、“自分だけ助かる手段”じゃない。
戦線全体を底上げできる、こういうスキルだ。
(何事も、想定してるかどうかで結果が変わる。備えは、臆病じゃなくて“仕事ができる”ってことだ)
コユキの尻尾が、ぴこっと跳ねた。
「……役に立つスキルでしょ?」
「うん。十分すぎるくらい」
勢いのまま30階も突破。
時刻はちょうど昼。
「ここでランチにしよう」
転送陣の前で腰を下ろし、温めたスープ付きの食事を広げる。
「……ディア、料理の完成度が上がりすぎてない?」
「必要だからやってるだけ。……それに、あなたが“食べられる顔”をするの、嫌いじゃない」
さらっと言うのがずるい。
僕は視線を逸らして、スプーンを動かした。
午後も順調に進む。31階、32階。
罠の類はスキルとコユキの直感で回避し、立ち回りに余裕がある。
33階クリアは19時過ぎ。
転送陣の前で座り込む僕に、コユキが近づいてくる。
「……このまま、いっきに35階まで行けそう?」
「疲れてはいるけど、まだいける」
ディアが口を挟む。柔らかいのに、芯がある。
「でも、欲張りすぎは禁物よ。夕食を挟んで一度整えましょう。その後は……1、2階で今日は終わり。いい?」
「……了解。腹ごしらえ、しよう」
影から取り出した食事を広げるだけなのに、妙に“遠征感”が出る。
「こうして影に保存できるの、ほんと便利だな」
「便利だけど無限じゃないよ。劣化しないわけでもない。管理が必要」
「うん。その管理、すでに誰かがやってくれてるけど」
「……雑に丸投げしないで?」
ディアの小さな睨み。
僕は笑って箸を動かした。
34階はボス階層。
派手な苦戦はなかったけど、油断すれば噛まれる。
そういう強さだった。
足音の反響、呼吸の乱れ、武器が擦れる音。
集中が薄れた瞬間に、相手の間合いに入る。
(勝てる。だけど、勝てるからこそ危ない。“慣れ”が一番の敵だ)
一度だけ、ディアが結界をはって立て直す場面があったが、最終的には僕たちの連携勝ちだった。
そして35階。
敵が“武器”を持っていた。
動きは単調でも、当たれば痛い。
痛いだけじゃない。
崩れる。
(……こっちは相変わらず、金属バット一本。空間斬糸を覚えても、結局いま殴るのはこれだ)
金属がぶつかる音が、やけに乾いて響く。
受け止めるたび、手のひらに痺れが残った。
コユキが敵の得物を見て、尻尾を揺らす。
「秀人の金属バット、そろそろ限界じゃない?変えてもいいと思う」
「だよな。いまは根性で振ってるだけだし……折れる前に考えたい」
ディアが淡く笑って、釘を刺すように言う。
「“根性”は最後の保険よ。装備は、先に整えるもの。……帰ったら、ちゃんと見直しましょう」
淡々と会話しながら、必要な判断だけを積み重ねる。
時刻は23時48分。
「……今日は、ここまで」
「正解。疲労は思考の敵だよ」
「結界、張るわね」
結界が広がり、空間がふっと静まった。
装備を外しながら、僕は小さく息を吐く。
「……体の拭き取りしてから寝よう」
濡れタオルで首筋を拭いた瞬間、逆に現実が刺さった。
「……でもさ。やっぱ風呂ないの、地味にきついな……」
コユキが、三本の尻尾をぴっと揺らす。
「いまさら?秀人、文明の恩恵に甘やかされすぎ」
「否定できないけど!汗のベタつきがさ、精神を削るんだよ」
ディアがくすっと笑い、わざとらしく肩をすくめた。
「ふふ。潔癖ね。……でも分かるわ。睡眠の質、落ちるもの」
「だろ?こう……“回復した感”が足りない」
「なら、明日も生き残って帰ること。お風呂はその報酬よ」
「報酬制か……」
「当然」
コユキが淡々と締める。
「文句言えるうちは余裕。はい、寝る」
「はいはい」
寝袋に潜り込む。
「おやすみ、二人とも」
「おやすみなさい、秀人」
「おやすみー」
結界の内側は、ほんのり温かい。
ダンジョンの冷たさが遠のいていく中で、僕の意識も静かに沈んでいった。




