057話『招集の予兆、結界の夜』
金曜の朝、新大阪。
カジュアルスーツに袖を通し、いつものオフィスへ向かう。
昨日は在宅だったぶん、気持ちはまだ軽い――はずなのに。
(通勤って、体力というより“気力”を削るんだよな)
午前中の仕事は、特別なこともなく淡々と進んだ。
午後から半休。
今日は“潜る”日だ。
昼休憩が入ってすぐ、スマホが震えた。
【九条:4月12日(水)、会わせたい人がいる。政府施設に来られるか】
……嫌な文面だ。
会わせたい人。
水曜日。
政府施設。
ろくな予感がしない。
(政治絡みとか、肩書きだけで空気が重くなる相手とか。ああいうのは、会話より前に疲れる)
とはいえ放置はできない。
深呼吸ひとつして、指を動かす。
【14時以降であれば伺えます。なおこれから日曜夜まで、ゲート滞在が長くなるため連絡が取りづらくなります】
“潜る”前の、最低限の根回し。
ゲート内では通信が入らない。
即応はできないと、先に伝える。
しばらくして、スマホが再び震えた。
【九条:水曜日、15時半に来てもらえると助かる。日曜夜まで連絡がつかない件も了解した】
……やっぱり、そうなるよな。
結局は一度、顔を出さないと済まない。
【承知しました】だけ返し、スマホを伏せた。
(さて。午後はいよいよ本番だ)
14時前。
会社を出て、そのまま新大阪ゲートへ向かう。
金曜から日曜まで、二泊三日。
“何も起きない前提”で動くための長期攻略だ。
施設前には、いつもの隊員さんが立っていた。
「時任さん、今日は……なんだか気合い入ってますね」
「ええ。ちょっと長めです。日曜の夜まで戻らない可能性があるので、そのつもりでお願いします」
隊員さんが一瞬、言葉を失う。
「えっ……そんな長期で。大丈夫ですか?」
「計画的にやります。九条さんにも伝えてありますし、たぶん問題ないはずです」
前に一ノ瀬が戻ってこなくて、外がざわついた。
あの時は結果的に間に合ったけど、危機一髪だった。
でも今回は、そういう話じゃない。
今回は“余計な騒ぎを起こさない”ために、先に伝える。
連絡が薄くて外がざわついたら、確認だの報告だので時間が溶ける。
社会人の段取りって、結局これだ。
「起きてから走る」より、「起きないように先に伝える」。
一言あるだけで、あとから飛んでくる確認や説明といったコストがごっそり減る。
「承知しました。“長期攻略中”として扱います。お気をつけて」
「ありがとうございます」
軽く会釈して、ゲートの渦へ足を踏み入れる。
空気が、ひとつ切り替わる。
視界が揺らぎ、音が遠のいていく。
──新大阪ゲート、21階層。
「……よし」
声にすると、呼吸が整う。
ブレスレットから、ミニチュアのディアがふわりと姿を現す。
涼しい顔で、僕の肩口に視線を置く。
「40階。……焦らず、着実にいきましょう」
影の縁から、コユキの耳がのぞいた。
白い尻尾が三本、わずかに揺れる。
「ボクも準備できてる」
「うん。行こう」
21階から25階までは、正直、快調だった。
敵の圧は少しずつ増している。
湿った空気が肺に重く、遠くで金属が擦れるような鳴き声がする。
それでも、こちらのレベルと連携が上回っていた。
僕が影移動で死角へ滑り込み、コユキが認識をずらす。
そこへ空間斬糸を通す。
視界、足場、退路。
頭の中でチェックが回り続ける。
(崩れるとしたら、“手順”だ。疲労で手順が抜ける。抜けた瞬間に事故になる)
時間視界を使うまでもない。まだ温存でいい。
「技能共有結も安定してる」
ディアの声は淡々としているのに、どこか満足げだった。
25階を抜けた頃、時計は20時を少し回っていた。
転送陣の前で、自然と足が止まる。
「ここで一回、夕食にしよう。26階に入る前にエネルギー補給」
「賛成。ボクも今のうちに整えたい」
ディアも頷く。
「食事と休息は、戦闘と同じくらい大事よ。判断が鈍るでしょ?」
平坦な石床の広場に腰を下ろす。
戦闘が途切れると、ダンジョンは驚くほど静かだった。
「……しかし、ゲートの中は相変わらず“食の敵”だな」
僕がぼそっと言うと、コユキが軽く鼻を鳴らす。
「魔力汚染が強い。味が良くても、ダンジョン産の植物や肉は身体が拒否する。食べた瞬間に吐いてしまう」
「安全なごはんは……外から持ち込むしかないよな」
「だから昨日、影にぎっしり詰めてくれたでしょ。デザートもある」
少しだけ得意げな言い方に、僕は小さく笑った。
「……僕、恵まれてるな」
「ようやく気づいた?」
「ずっと前から思ってる」
ディアが紅茶をひと口含み、淡く笑う。
食後、26階。
通路は細く、入り組んでいた。落とし穴、傾斜、見えにくい段差。
歩くたびに、石が湿り気を含んで滑る。
ランダムに見えて――違う。
「……誘導性がある。踏ませに来てる」
コユキが首を傾げ、通路の床をじっと見た。
「つまり、ここは“転ばせて笑う係”がいるってこと?」
「悪趣味にもほどがあるな」
「でもほら、人生もさ。油断した瞬間に落とし穴あるじゃん?」
「急に深いこと言うな。あと今は人生じゃなくてダンジョンだ」
ディアが小さく息を吐く。
「罠そのものより、“焦り”を引き出す設計ね。踏ませるための道筋を作ってる」
コユキが真面目な顔に戻り、淡々と続ける。
「焦ると視野が狭くなる。視野が狭くなると確認が雑になる。確認が雑になると事故る。……いつものやつ」
「因果関係を三段活用みたいに言うな。社内研修か」
「分かりやすいでしょ?」
妙に納得してしまうのが悔しい。
通路を進みながら、ふと足が止まる。
「……この地形、どこかで見たことがある」
石の模様。曲がり方。柱の配置。
微妙に違うのに、骨格が同じだ。
「別のゲートの階層でも似た感じがあった。……パーツの使い回し、みたいな」
モンスターもそうだ。
同じ種族を微調整したような個体が、別の階層や別のゲートにもいる。
「上に行けば変わるんだろうけど……低階層は“既知の素材”で組まれてる感じがする」
二人が静かに頷いた。
27階を抜けた頃、時計は24時を回っていた。
「……そろそろ限界じゃない?」
コユキの声は軽い。でも判断は正確だ。
「賛成です。本日はここまでにして、休息を優先しましょう」
「助かる。僕も思ったより汗かいてる」
28階へ続く転送陣の近く、安全地帯で腰を下ろす。
ディアが指先を走らせると、淡い霧の膜がふわりと広がった。
結界が展開される。
風の流れが止まり、湿気が外側へ押し出されていく。
呼吸が、急に楽になる。
「すごいな……“防ぐ”だけじゃなくて、環境まで整えるのか」
ディアは少しだけ胸を張った。
「防衛と環境制御はセットよ。睡眠の質が落ちたら、明日の判断が鈍るでしょ?」
「……寝不足で会議に出るのと同じだな」
「そういうこと」
一拍置いて、ディアが続ける。
淡々としてるのに、どこか誇らしさが滲んだ。
「それに――前より精度も出力も上がってるの。魂縛契約(仮)のおかげで、魔力の通りが良くなったのよ。だから、この程度の結界なら……朝まで維持するのも余裕よ」
「……なるほど」
頼もしさだけが、すっと残る。
「ありがとう、ディア。……じゃあ、寝よう」
装備を整え、寝袋へ。
コユキは僕の隣、ディアはブレスレットの中へ戻る。
「……今日は、よく動いた」
深く息を吐いて目を閉じる。
静かなダンジョンの夜に、僕たちの呼吸だけが溶けていった。




