056話『朝のサプライズと、世界が開く音』
朝の空気は静かで、ほんの少し冷たいくらいがちょうどいい。
階段を下りて、ぼんやりした頭のままリビングへ向かった──その瞬間、僕の足はぴたりと止まった。
「……おはようございます、秀人」
そこにいたのは──
パジャマ姿で、通常サイズのディアだった。
「……は?」
いや、待ってくれ。
でか──いや、元の姿だ。
しかも手には湯気の立つティーカップ。
ソファに腰掛け、紅茶を静かに味わっている姿は、どう見ても“気品ある朝の貴族”。
「お、おはよう……って、なんで!?」
「ふふ。昨日お話しした通り、短時間なら本来の姿で活動できるようになりましたので……少し、試してみたくて」
頬にかかった金髪を指で払うその仕草は、妙に堂々としていて──
僕の寝起きTシャツ姿との落差がひどい。
「心臓に悪いサプライズはやめてくれ……」
「たまには、こういう朝も良いでしょう?」
紅茶をひと口。いや、本当に貴族だな。
やがて、ディアの身体が淡い光に包まれ、ふわりと縮んでミニチュア姿へ戻った。
「……はい、朝の演出は以上です」
「演出って言った……」
でも、不思議と悪い気分じゃなかった。
気を取り直してノートPCを開く。
慣れた椅子、コーヒーの香り、ほどよい静けさ。
(……やっぱり、家での仕事は落ち着くな)
データを整理しながら、ふと思い出す。
「そういえば、明日は出社する予定だったな。……必要なもの、先にまとめておくか」
予定表を確認し、ひと息ついて軽く背筋を伸ばす。
そんな何気ない作業をこなしているうちに、
静かな午前は、いつも通りゆっくりと終わりに近づいていった。
仕事を終え、玄関へ向かった僕は思わず固まった。
「……え、うち、通販倉庫に転職した?」
段ボール。段ボール。あと段ボール。
するとリビングからコユキが現れ、タブレットを軽く掲げた。
「午前中に届くよう調整しておいたほうが効率的だと思ってね。置配されたものは、全部偽映結界と風景擬態のスキルを使いながら玄関に寄せておいた」
「三日分の遠征準備だよ?これが最低ライン」
その冷静な言葉に、僕は思わず笑ってしまった。
そういえば、政府の依頼報酬用に作った口座の電子決済権限を、“活動支援の範囲で” とコユキに渡したのだった。
「購入履歴、用途ごとに分類してあるけど見る?」
タブレットには、すべての購入品と理由が丁寧にメモされ、分類されて並んでいた。
「……本当、コユキがいれば生活成り立つな」
「当然」
その一言が妙に誇らしげで、可笑しい。
ふわりとキッチンからいい香りが漂った。
「お待たせしました。保存食の準備、ひと通り終わっています」
ミニチュアのディアが、小さなお盆にぎっしり詰めた容器を抱えて飛んできた。
「こんなに……?」
「三日間ですから。影収納に入れておけば鮮度も落ちにくいわ」
淡々と影の空間へ容器を送り込むディア。
…………なんだろう。
本当に、サポート体制が万全すぎる。
(……これ、僕も全力で返さないと釣り合いとれないな)
そんな気持ちが自然と湧いた。
午後はスーパーとドラッグストアへ。
カートいっぱいに補給物資を詰め込み、準備を終える。
その後、サブゲートを通り94階層へ。
「軽い調整で十分だと思うよ。体力は温存したほうがいい」
コユキがいつもの落ち着いた調子で言う。
「ええ。無理を重ねる必要はありません。……軽めに進めましょう、秀人」
ディアも静かに続ける。
二人の段取りに従い、スキルの基礎コンボとコユキとの連携を何度か確認する。
「動きは悪くないね。反応も整ってる」
「このくらいで切り上げるのが最適でしょう」
汗をほんの少し流したところで、訓練は終了した。
サブゲートを抜け、自宅の物置部屋へ戻る。
ふと視線を上げると──昨日の夜に触れた電子ピアノが、静かにそこに置かれていた。
(……そういえば、久しぶりに触ったんだよな)
元嫁が弾いていたピアノ。
僕も昔、タブレットをMIDIで繋いで「音ゲー感覚」で練習していた時期があった。
けれど、仕事、生活。
そして離婚を経て──ピアノはただの“置物”になっていた。
椅子を引く音が静かに響く。
指を鍵盤へ置く。
昨日の感覚をゆっくり呼び起こし──音を鳴らす。
昨日、最初は何度もミスしたフレーズが、今日は自然に繋がる。
指先と音の流れが馴染んでいき、部屋には、思った以上に美しい旋律が広がった。
静かな余韻を胸に残したまま、物置部屋を後にする。
そのまま風呂へ向かい、熱い湯に身を沈めると──
指先の感覚が心地よく緩んでいくのを感じた。
(明日からの準備も進んでるし……悪くない時間だな)
風呂上がりに夕食を済ませ、ようやく落ち着き、リビングへ。
ソファに腰を沈めてなんとなくスマホを手に取り、ニュースアプリを開いた。
その瞬間、画面いっぱいに躍る見出しが目に飛び込んでくる。
《ゲート総合プラットフォーム、正式リリース》
《世界157ヶ所の大型ゲート、マップで一挙公開》
「……ここまで一気に出すのか」
自然と息が漏れた。
興味に任せてリンクをタップすると、地図が切り替わり──思わず言葉を失う。
世界地図が、赤いピンで埋め尽くされていた。
大きなピンだけで157ヶ所。
小さなピンは……数えるのを諦めるレベルで散乱している。
「……世界中、こんなに出てたのか」
地図の密度そのものが「異常事態」を語っていた。
試しに日本をズームすると──
見慣れた都市名の上に、赤いピンが立っている。
新大阪、新宿、名古屋、博多、広島、仙台、札幌。
全部で七つ。どれも“国の軸”とも言える主要都市だ。
スクロールして世界へ視点を広げると、他国の数も手加減なしだった。
アメリカ:ニューヨーク、ロサンゼルス、シカゴ、ヒューストン、サンフランシスコ、シアトル……合計13ヶ所。
中国:北京、上海、広州、成都、西安などで11ヶ所。
インド:デリー、ムンバイ、バンガロール、ハイデラバード、コルカタ……9ヶ所。
ロシア:モスクワ、サンクトペテルブルク、ウラジオストク、ノヴォシビルスクなど6ヶ所。
ブラジル:サンパウロ、リオデジャネイロ、ブラジリアなど5ヶ所。
ドイツ:ベルリン、フランクフルト、ミュンヘン……4ヶ所。
「……完全に“戦略拠点”だな、これ」
経済、人口、軍事、地政学的価値。
世界の“要”ばかりをピンポイントに突いてくる配置。
偶然とは、とても思えない。
スクロールした先には──つい最近訪れたハノイにも、大型ピンが立っていた。
「コユキ、これって……地理的な影響力を基準に出てる感じ?」
「そうだと思うよ。都市規模と位置、交通の結節点……全部、説明がつく」
「人の営みと力の流れ……ゲートは、そういう場所を選ぶのね」
ディアの言葉が、妙にしっくり来る。
日本に視点を戻し、新宿のピンをタップする。
【階層情報:14階までクリア】
博多は11階。広島は8階。名古屋は6階。
そして──新大阪・仙台・札幌は【非公開】。
「……新大阪の情報、やっぱり伏せてくれてる。九条さんの配慮だな」
嬉しさと、重い現実の両方が胸にのしかかる。
世界地図を見下ろしながら、思った。
(僕たち……確実に“戦線の真ん中”にいるんだな)
三人で、無言のまま地図を眺める時間が少し続いた。
他の情報ページでは、階層別モンスター、各国の攻略状況、帰還者の分布など、これまで断片的だったデータが一気に体系化されている。
「こうして見ると……情報そのものが武器になるな」
ぼそっと呟くと、コユキが片目を細めた。
「状況を俯瞰して判断するのは、秀人の得意分野でしょ」
「ええ。そういう冷静さ……私はけっこう好きよ」
少しだけ照れくさくなるが、二人の言葉が素直に胸に落ちた。
大きく息を吐く。
(──明日から、新大阪ゲートだ。目標40階層……)
今の自分にできることを、淡々と積み重ねていけばいい。




