055話『契約の更新、指先が奏でる余韻』
デスクに肘をつき、コーヒーの湯気をぼんやり眺める。
「……やっぱり、家がいちばん落ち着くな」
昨日は久しぶりに出社して、午後は政府施設へ。
どれも必要な用事ではあったけれど、こうして自宅で静かに仕事を進められる時間は、やっぱりほっとする。
(ハノイ遠征に、小型ゲート、新大阪、それから面会……)
ここ最近の予定をざっくり頭の中でなぞるだけで、カレンダーの欄がきれいに埋まっていくのが想像できた。
タブレットの向こうで、コユキが首をかしげる。
「ねえ秀人、昨日けっこう人が出社してたけど……今日、在宅でいいの?“会社って、行かなきゃダメな日じゃないのかな”って、ちょっと思って」
「大丈夫だよ。うちはサブマネージャーが優秀だからね。現場の調整も進むし、オフィス内での急ぎの確認は彼が拾ってくれる」
「そっか……じゃあ、出社しなくても困らないんだ?」
「うん。会議もほぼ全部ウェブ会議で片付くし。資料作成や整理は、むしろ家のほうが集中できる」
コユキは安心したように、タブレットの画面を軽くタップした。
「ならよかった。ちょっとだけ心配したから」
「気にしてくれてありがとう。無断欠勤みたいな扱いにはならないよ」
そのやり取りを聞いていたディアが、静かにカップを置く。
「在宅で進められる内容なら……今の働き方で問題ないと思うわ。あなたが一番動きやすい環境で、整えていけばいいの」
「まあ、出社すると人に捕まるしね……」
思わず笑うと、コユキがこちらを横目で見た。
「……じゃあ、午後は訓練するつもりなんだ?」
「うん。スキル三つ目、新大阪の40階……早くそこまで行きたいからね」
自分でも少し笑ってしまうほど、身体の奥にまだ温度が残っている。
ゲームで“手応えが出てきた瞬間”、気づけば夜中までやりこんでいた頃の感覚に少し似ていた。
気持ちが動いているうちに進める。
帰還者になっても、そのあたりの性分は変わらないらしい。
昼食を済ませてから、サブゲートを通って94階層の城へ向かう。
石造りの大広間。高い天井。
何度か通ううちに、「来た」というより「戻ってきた」に近い感覚が、少しずつ混じるようになってきた。
「いらっしゃい、秀人。……訓練の前に、少しお伝えしたいことがあって」
本体のディアは、静かな微笑みで迎えてくれる。
その笑みには、以前より親しみが混ざっていた。
「ブレスレットを、お借りしてもいいかしら」
「うん。どうぞ」
受け取ったブレスレットを、ディアは両手でそっと包み込む。
目を閉じた瞬間、指先から淡い紅光が滲み、表面に術式が静かに浮かび上がった。
「これは……?」
「“魂縛契約(仮)”の状態を、あらためて解析してみたの。血の契約だけだった頃よりも、結びつきがずっと深くなっていて……少し驚いたわ」
淡々とした言い方なのに、どこか柔らかい。
ディアは自分の指先を軽く噛み、一滴の血をブレスレットへ落とす。
床に展開した魔法陣が、紅の脈動とともに静かに広がった。
数十秒ののち、光が収束する。
「……これで強化は終わりよ」
「……毎回思うけど、神秘的な工程だな」
「今回の調整で、ミニチュア状態の出力を“百分の一以下”から“一割近く”まで高められたわ。数字だけでも十倍以上だけれど……いちばん大きいのは、使い方の幅が広がったことね」
「戦闘時の選択肢が一気に増える、ってこと?」
「ええ。──それから、もう一つ。基礎機能が安定したおかげで……ようやく、飲食が可能になったの」
「飲食、できるようになるんだ?……そして、最初に出てくるのがそこなんだ」
ディアは少しだけ目を細め、控えめに微笑んだ。
「ふふ……紅茶を“味わう”という行為は、とても大切なのよ」
「重要ポイントがそこなんだな……」
そこへ、コユキが横から一言。
「紅茶がないと、生存性が下がるらしいよ」
「ディア基準の生存性なんて初めて聞いたんだが……」
軽くため息を吐いたところで、ディアが真顔に戻る。
「それから……魔力の消費をうまく抑えれば、1日2〜3時間ほどは“本体サイズ”で活動できるようになったわ。もちろん、これはあくまで分体として扱える力の範囲の話で──本気で戦えば、数分が限界でしょうけれど……それでも、以前とは比べものにならないはずよ」
「それは……かなり大きいな」
「ええ。これからは、状況に応じて姿を変えながら動けるわ。あなたのそばで、もう少し“できること”が増える……そういうことよ」
最後の語尾が、わずかに甘くなる。
意図していないようで、意図しているようでもある。
ディアがそっと手を上げる。
「それと、もうひとつ。──92階に送っていた影が、“現地の主”から反応を得たわ」
「……本当に繋がったんだな」
「ええ。こちらの影が向こうの“ボス”と思われる存在と対話に成功したの。興味を持たれたみたい。ありがたいことだわ」
「……となると、いつか僕とも会える可能性はあるのかな。いや──正確には、“会う手段って作れないのか”って方だけど」
ディアは静かに頷き、視線を少しだけ和らげた。
「その点については、すでに考えているわ。いまのままでは、あなたと直接会ってもらう方法が確立できていない。……でも、手立てはあるの。94階と92階を“転送陣”で繋ぐ計画を進めているところよ」
「転送陣……?」
「ええ。向こうの技術体系と、こちらの魔力理論。ふたつを正しく組み合わせれば、階層間リンクそのものは実現可能よ」
ディアはそこで、少しだけ真剣な色を帯びた。
「ただし──安全性は最優先で考える。万が一、92階の主が“敵意”を示した場合でも、こちらに被害が及ばないように仕組みを組むつもりよ。」
淡々とした口調なのに、その芯は強い。
そして、次の瞬間ふっと表情が和らぐ。
「……それにね。心配はいらないわ。ここには──“完璧で、無敵で、最強で、ついでにあなた好みの私”がいるもの」
「……ディア、それはだいぶ盛ってない?」
「事実を少しだけ脚色しただけよ」
ほんのり頬を染めたまま、視線だけがこちらをまっすぐ射抜いてくる。
声は落ち着いているのに、どこか照れと甘さが混じった響き。
「あなたの期待には、できる限り応えたいもの。だから……安心して準備しておいて」
その柔らかな言い方に、胸の奥が静かに温かくなる。
(向こうと繋がる日は、本当に近いんだな)
その実感が、ゆっくりと灯った。
近未来階層の主。
新しい協力者になるのか、それとも別の形になるのか。
考えることは増えたけれど、胸の内側は不思議と軽かった。
「じゃあ……始めようか」
訓練は、連携の基本確認から。
影移動で敵の死角へ潜り込み、
コユキが煙幕顕現と偽映結界で認識をずらす。
そこへ僕が空間斬糸を通す──という、一見単純な型。
けれど、決まると一撃で沈む。
「影、左から流す。……3、2、1」
「今。煙、展開。足止め完了」
「斬る」
薄い膜のような空間が、裂ける感覚。
その向こう側に“いたはずのもの”が、抵抗なく切り離されていく。
何度か繰り返すうち、呼吸のリズムは自然と揃っていた。
「では、次はこちらね」
ディアが呼び出したのは、明らかに格が違う大型モンスター。
獣の体躯に、鉱石質の外殻。
ぎらりと光る眼だけが、不気味なほど生々しい。
「スキル耐性持ちよ。特に、属性系と状態異常が通りづらいわ」
「……手加減なしだね」
「秀人の習熟度に合わせた結果よ?」
淡々としているのに、どこか信頼を滲ませる声音だった。
そこから先は、さすがに息が上がった。
空間斬糸の角度を変え、
コユキの撹乱と射撃を挟み、
削り、引き、跳び、また削る──。
時間の感覚が曖昧になった頃、ようやく最後の一撃が通る。
そして、体の奥であの感覚が弾けた。
【レベルアップ:Lv51】
「……よし」
息を吐くと、コユキが頷いた。
「おめでとう。……今日はここで切るほうが、たぶん効率いいよ」
「そうですね。負荷と回復のバランスを考えると、ここまでが適切ですね」
二人からそう言われると、続ける気力もすっと落ち着いた。
「分かった。今日はここまでにしよう」
訓練後、ディアが思い出したように微笑んだ。
「体力の回復も兼ねて……今日は城の浴場を使っていってね」
(浴場なんて、あったんだ……)
94階の浴場は、別格だった。
石造りの湯船。
ほどよい温度。
天井が高く、湯の音がやわらかく響く。
「……これは贅沢だな」
肩まで沈みながら、明日からの段取りをひとつずつ並べていく。
風呂上がり、自宅へ戻り、簡単な夕食を並べる。
三人でテーブルにつくのも、すっかり馴染んできた。
「どうぞ」
ディアの前にも紅茶と軽食を置き──ふと手が止まる。
(……本当に、飲めるんだよな)
そんな僕をよそに、ディアは自然な仕草でカップを持ち上げた。
「いただきます」
ひと口。
それだけなのに、喉を通る動作が妙に印象深い。
──本当に“味わって”いる。
続けて、丁寧な手つきでキッシュを切り分けていく。
小柄なのに、仕草だけはまるで貴族のように洗練されていた。
「……なんというか、新鮮だな」
「そうかしら?」
「うん。ミニチュア状態だと食事すらできなかったろ?それが、隣で普通に紅茶飲んで食べてるってだけで……なんか、すごいことしてる気分になる」
「感慨に浸るのはいいけど……秀人、スプーン止まってる。冷めちゃうよ?」
コユキの冷静なツッコミに、思わず笑ってしまう。
「はいはい……面倒見がいいな」
静かで、けれど温かい食卓だった。
食後、温かい空気のまま、話題がひと段落した頃──
僕は、ふと思い出したように口を開いた。
「そうだ。……金曜の午後から、日曜の昼過ぎまで。新大阪ゲートに籠もるつもりでいる」
「了解。必要な物資は、こっちでリスト作って影に詰めておく」
「保存食は私が揃えておくわ。手間のかからないものを選ぶ」
「助かる。じゃあ……明日は準備日にしよう」
三人とも、“長期戦”も特に表情を変えず受け入れる。
そのまま少し沈黙が落ちて──
静かなティーカップの音が響いた瞬間、ふと、コユキがこちらを見上げて言った。
「そういえばさ……物置部屋に電子ピアノあるよね?」
「……ああ。あるよ」
唐突な話題に、一瞬だけ記憶が揺れる。
(元嫁が、たまに弾いてたピアノだ)
結婚した頃は、それなりに一緒に過ごしていた。
学生時代のテニスサークルで知り合い、盛り上がって……そのまま結婚して。
でも、テニスをやめてからは“共通の何か”がだんだん減っていった。
僕はアニメやゲーム、漫画が好きで、向こうはドラマや芸能が好きだった。
好きなものが食い違うと──
考え方も遊び方、また、仕事への向き合い方も、少しずつズレていった。
価値観の違い、よくある話だ。
誰が悪いってわけでもない。
「サブゲートに入る時に見かけて。全然使ってないみたいだったから……やらないのかなって思って」
「……しばらく触ってないな」
「ふーん。じゃあ今は、もう弾かない感じ?」
胸の奥に、少しだけ引っかかりが生まれた。
「……昔、ちょっとだけ練習してたんだ。タブレットと繋いで、音ゲーみたいに落ちる鍵盤が流れてくるやつでさ。あれのおかげで簡単な曲なら弾けるようになったけど……結局はものにならなかった」
自然と口が開いていた。
メインで弾いていたのは元嫁である。
封印していたわけでもないが、誰かに話すようなことでもなかった。
コユキは尻尾をゆらりと揺らしながら、軽く笑った。
「へぇ。秀人って、ひそかに色々やってるよね」
「“ひそかに”って言うな……ただの趣味だよ」
「でもさ。今の秀人なら、もっと弾けるんじゃない?」
「……え?」
「だって自在操作あるし。前より指の動きも正確になってる。練習すれば、“本当に弾ける人”みたいになるんじゃない?」
その言葉に、思わず息が止まる。
(……確かに。今なら)
弾けるようになりたかった曲。
あのとき何度やってもつまずいたフレーズ。
どうしても指が追いつかなかった箇所。
もしかしたら、今日は──。
「……試してみるか」
立ち上がると、ディアがやわらかく微笑んだ。
「ええ。あなたの“できること”が増えるのは……とても素敵なことだもの」
物置部屋の扉を開ける。
薄い布をかけられた電子ピアノは、静かにそこに佇んでいた。
椅子に座り、深呼吸し──鍵盤へ指を置く。
(いけるか……?)
最初の一音は、驚くほど自然に響いた。
指がすべるように流れ、昔は必ずつまずいていたパートもスムーズに繋がる。
自在操作が、必要な部分だけそっと補助する。
気づけば、夢中で練習していた。
──1時間後。
最後の一音が、透き通った余韻を残して消える。
ミスタッチは一度もなかった。
入口では、コユキとディアがそっと拍手していた。
「……普通に上手かった。びっくりしたよ」
「本当に、後半、綺麗だったわ。秀人」
胸の奥が、ほわっと温かくなる。
「……すごいな、このスキル……本当に、“できる”が増えるんだな」
その夜は、静かな家の中にピアノの余韻が長く溶け続け──
穏やかに、ゆっくりと終わっていった。




