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晩年こそ本番。42歳会社員、喋る猫と現代ダンジョン攻略──ここからが本番だ  作者: 七乃白 志優
第五章:共に在る戦場と日常

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055話『契約の更新、指先が奏でる余韻』

デスクに肘をつき、コーヒーの湯気をぼんやり眺める。


「……やっぱり、家がいちばん落ち着くな」


昨日は久しぶりに出社して、午後は政府施設へ。

どれも必要な用事ではあったけれど、こうして自宅で静かに仕事を進められる時間は、やっぱりほっとする。


(ハノイ遠征に、小型ゲート、新大阪、それから面会……)


ここ最近の予定をざっくり頭の中でなぞるだけで、カレンダーの欄がきれいに埋まっていくのが想像できた。


タブレットの向こうで、コユキが首をかしげる。


「ねえ秀人、昨日けっこう人が出社してたけど……今日、在宅でいいの?“会社って、行かなきゃダメな日じゃないのかな”って、ちょっと思って」


「大丈夫だよ。うちはサブマネージャーが優秀だからね。現場の調整も進むし、オフィス内での急ぎの確認は彼が拾ってくれる」


「そっか……じゃあ、出社しなくても困らないんだ?」


「うん。会議もほぼ全部ウェブ会議で片付くし。資料作成や整理は、むしろ家のほうが集中できる」


コユキは安心したように、タブレットの画面を軽くタップした。


「ならよかった。ちょっとだけ心配したから」


「気にしてくれてありがとう。無断欠勤みたいな扱いにはならないよ」


そのやり取りを聞いていたディアが、静かにカップを置く。


「在宅で進められる内容なら……今の働き方で問題ないと思うわ。あなたが一番動きやすい環境で、整えていけばいいの」


「まあ、出社すると人に捕まるしね……」


思わず笑うと、コユキがこちらを横目で見た。


「……じゃあ、午後は訓練するつもりなんだ?」


「うん。スキル三つ目、新大阪の40階……早くそこまで行きたいからね」


自分でも少し笑ってしまうほど、身体の奥にまだ温度が残っている。

ゲームで“手応えが出てきた瞬間”、気づけば夜中までやりこんでいた頃の感覚に少し似ていた。


気持ちが動いているうちに進める。

帰還者になっても、そのあたりの性分は変わらないらしい。


昼食を済ませてから、サブゲートを通って94階層の城へ向かう。


石造りの大広間。高い天井。

何度か通ううちに、「来た」というより「戻ってきた」に近い感覚が、少しずつ混じるようになってきた。


「いらっしゃい、秀人。……訓練の前に、少しお伝えしたいことがあって」


本体のディアは、静かな微笑みで迎えてくれる。

その笑みには、以前より親しみが混ざっていた。


「ブレスレットを、お借りしてもいいかしら」


「うん。どうぞ」


受け取ったブレスレットを、ディアは両手でそっと包み込む。

目を閉じた瞬間、指先から淡い紅光が滲み、表面に術式が静かに浮かび上がった。


「これは……?」


「“魂縛契約(仮)”の状態を、あらためて解析してみたの。血の契約だけだった頃よりも、結びつきがずっと深くなっていて……少し驚いたわ」


淡々とした言い方なのに、どこか柔らかい。

ディアは自分の指先を軽く噛み、一滴の血をブレスレットへ落とす。

床に展開した魔法陣が、紅の脈動とともに静かに広がった。


数十秒ののち、光が収束する。


「……これで強化は終わりよ」


「……毎回思うけど、神秘的な工程だな」


「今回の調整で、ミニチュア状態の出力を“百分の一以下”から“一割近く”まで高められたわ。数字だけでも十倍以上だけれど……いちばん大きいのは、使い方の幅が広がったことね」


「戦闘時の選択肢が一気に増える、ってこと?」


「ええ。──それから、もう一つ。基礎機能が安定したおかげで……ようやく、飲食が可能になったの」


「飲食、できるようになるんだ?……そして、最初に出てくるのがそこなんだ」


ディアは少しだけ目を細め、控えめに微笑んだ。


「ふふ……紅茶を“味わう”という行為は、とても大切なのよ」


「重要ポイントがそこなんだな……」


そこへ、コユキが横から一言。


「紅茶がないと、生存性が下がるらしいよ」


「ディア基準の生存性なんて初めて聞いたんだが……」


軽くため息を吐いたところで、ディアが真顔に戻る。


「それから……魔力の消費をうまく抑えれば、1日2〜3時間ほどは“本体サイズ”で活動できるようになったわ。もちろん、これはあくまで分体として扱える力の範囲の話で──本気で戦えば、数分が限界でしょうけれど……それでも、以前とは比べものにならないはずよ」


「それは……かなり大きいな」


「ええ。これからは、状況に応じて姿を変えながら動けるわ。あなたのそばで、もう少し“できること”が増える……そういうことよ」


最後の語尾が、わずかに甘くなる。

意図していないようで、意図しているようでもある。


ディアがそっと手を上げる。


「それと、もうひとつ。──92階に送っていた影が、“現地の主”から反応を得たわ」


「……本当に繋がったんだな」


「ええ。こちらの影が向こうの“ボス”と思われる存在と対話に成功したの。興味を持たれたみたい。ありがたいことだわ」


「……となると、いつか僕とも会える可能性はあるのかな。いや──正確には、“会う手段って作れないのか”って方だけど」


ディアは静かに頷き、視線を少しだけ和らげた。


「その点については、すでに考えているわ。いまのままでは、あなたと直接会ってもらう方法が確立できていない。……でも、手立てはあるの。94階と92階を“転送陣”で繋ぐ計画を進めているところよ」


「転送陣……?」


「ええ。向こうの技術体系と、こちらの魔力理論。ふたつを正しく組み合わせれば、階層間リンクそのものは実現可能よ」


ディアはそこで、少しだけ真剣な色を帯びた。


「ただし──安全性は最優先で考える。万が一、92階の主が“敵意”を示した場合でも、こちらに被害が及ばないように仕組みを組むつもりよ。」


淡々とした口調なのに、その芯は強い。


そして、次の瞬間ふっと表情が和らぐ。


「……それにね。心配はいらないわ。ここには──“完璧で、無敵で、最強で、ついでにあなた好みの私”がいるもの」


「……ディア、それはだいぶ盛ってない?」


「事実を少しだけ脚色しただけよ」


ほんのり頬を染めたまま、視線だけがこちらをまっすぐ射抜いてくる。


声は落ち着いているのに、どこか照れと甘さが混じった響き。


「あなたの期待には、できる限り応えたいもの。だから……安心して準備しておいて」


その柔らかな言い方に、胸の奥が静かに温かくなる。


(向こうと繋がる日は、本当に近いんだな)


その実感が、ゆっくりと灯った。


近未来階層の主。

新しい協力者になるのか、それとも別の形になるのか。

考えることは増えたけれど、胸の内側は不思議と軽かった。


「じゃあ……始めようか」


訓練は、連携の基本確認から。


影移動(シャドウ・シフト)で敵の死角へ潜り込み、

コユキが煙幕顕現(スモークジェネレート)偽映結界(ミラーシェード)で認識をずらす。

そこへ僕が空間斬糸(スペース・スレッド)を通す──という、一見単純な型。


けれど、決まると一撃で沈む。


「影、左から流す。……3、2、1」


「今。煙、展開。足止め完了」


「斬る」


薄い膜のような空間が、裂ける感覚。

その向こう側に“いたはずのもの”が、抵抗なく切り離されていく。


何度か繰り返すうち、呼吸のリズムは自然と揃っていた。


「では、次はこちらね」


ディアが呼び出したのは、明らかに格が違う大型モンスター。


獣の体躯に、鉱石質の外殻。

ぎらりと光る眼だけが、不気味なほど生々しい。


「スキル耐性持ちよ。特に、属性系と状態異常が通りづらいわ」


「……手加減なしだね」


「秀人の習熟度に合わせた結果よ?」


淡々としているのに、どこか信頼を滲ませる声音だった。


そこから先は、さすがに息が上がった。


空間斬糸(スペース・スレッド)の角度を変え、

コユキの撹乱と射撃を挟み、

削り、引き、跳び、また削る──。


時間の感覚が曖昧になった頃、ようやく最後の一撃が通る。


そして、体の奥であの感覚が弾けた。


【レベルアップ:Lv51】


「……よし」


息を吐くと、コユキが頷いた。


「おめでとう。……今日はここで切るほうが、たぶん効率いいよ」


「そうですね。負荷と回復のバランスを考えると、ここまでが適切ですね」


二人からそう言われると、続ける気力もすっと落ち着いた。


「分かった。今日はここまでにしよう」


訓練後、ディアが思い出したように微笑んだ。


「体力の回復も兼ねて……今日は城の浴場を使っていってね」


(浴場なんて、あったんだ……)


94階の浴場は、別格だった。


石造りの湯船。

ほどよい温度。

天井が高く、湯の音がやわらかく響く。


「……これは贅沢だな」


肩まで沈みながら、明日からの段取りをひとつずつ並べていく。


風呂上がり、自宅へ戻り、簡単な夕食を並べる。

三人でテーブルにつくのも、すっかり馴染んできた。


「どうぞ」


ディアの前にも紅茶と軽食を置き──ふと手が止まる。


(……本当に、飲めるんだよな)


そんな僕をよそに、ディアは自然な仕草でカップを持ち上げた。


「いただきます」


ひと口。

それだけなのに、喉を通る動作が妙に印象深い。


──本当に“味わって”いる。


続けて、丁寧な手つきでキッシュを切り分けていく。

小柄なのに、仕草だけはまるで貴族のように洗練されていた。


「……なんというか、新鮮だな」


「そうかしら?」


「うん。ミニチュア状態だと食事すらできなかったろ?それが、隣で普通に紅茶飲んで食べてるってだけで……なんか、すごいことしてる気分になる」


「感慨に浸るのはいいけど……秀人、スプーン止まってる。冷めちゃうよ?」


コユキの冷静なツッコミに、思わず笑ってしまう。


「はいはい……面倒見がいいな」


静かで、けれど温かい食卓だった。

食後、温かい空気のまま、話題がひと段落した頃──

僕は、ふと思い出したように口を開いた。


「そうだ。……金曜の午後から、日曜の昼過ぎまで。新大阪ゲートに籠もるつもりでいる」


「了解。必要な物資は、こっちでリスト作って影に詰めておく」


「保存食は私が揃えておくわ。手間のかからないものを選ぶ」


「助かる。じゃあ……明日は準備日にしよう」


三人とも、“長期戦”も特に表情を変えず受け入れる。


そのまま少し沈黙が落ちて──

静かなティーカップの音が響いた瞬間、ふと、コユキがこちらを見上げて言った。


「そういえばさ……物置部屋に電子ピアノあるよね?」


「……ああ。あるよ」


唐突な話題に、一瞬だけ記憶が揺れる。


(元嫁が、たまに弾いてたピアノだ)


結婚した頃は、それなりに一緒に過ごしていた。

学生時代のテニスサークルで知り合い、盛り上がって……そのまま結婚して。

でも、テニスをやめてからは“共通の何か”がだんだん減っていった。


僕はアニメやゲーム、漫画が好きで、向こうはドラマや芸能が好きだった。


好きなものが食い違うと──

考え方も遊び方、また、仕事への向き合い方も、少しずつズレていった。


価値観の違い、よくある話だ。

誰が悪いってわけでもない。


「サブゲートに入る時に見かけて。全然使ってないみたいだったから……やらないのかなって思って」


「……しばらく触ってないな」


「ふーん。じゃあ今は、もう弾かない感じ?」


胸の奥に、少しだけ引っかかりが生まれた。


「……昔、ちょっとだけ練習してたんだ。タブレットと繋いで、音ゲーみたいに落ちる鍵盤が流れてくるやつでさ。あれのおかげで簡単な曲なら弾けるようになったけど……結局はものにならなかった」


自然と口が開いていた。

メインで弾いていたのは元嫁である。

封印していたわけでもないが、誰かに話すようなことでもなかった。


コユキは尻尾をゆらりと揺らしながら、軽く笑った。


「へぇ。秀人って、ひそかに色々やってるよね」


「“ひそかに”って言うな……ただの趣味だよ」


「でもさ。今の秀人なら、もっと弾けるんじゃない?」


「……え?」


「だって自在操作フレックス・マニピュレートあるし。前より指の動きも正確になってる。練習すれば、“本当に弾ける人”みたいになるんじゃない?」


その言葉に、思わず息が止まる。


(……確かに。今なら)


弾けるようになりたかった曲。

あのとき何度やってもつまずいたフレーズ。

どうしても指が追いつかなかった箇所。


もしかしたら、今日は──。


「……試してみるか」


立ち上がると、ディアがやわらかく微笑んだ。


「ええ。あなたの“できること”が増えるのは……とても素敵なことだもの」


物置部屋の扉を開ける。

薄い布をかけられた電子ピアノは、静かにそこに佇んでいた。


椅子に座り、深呼吸し──鍵盤へ指を置く。


(いけるか……?)


最初の一音は、驚くほど自然に響いた。

指がすべるように流れ、昔は必ずつまずいていたパートもスムーズに繋がる。


自在操作フレックス・マニピュレートが、必要な部分だけそっと補助する。


気づけば、夢中で練習していた。


──1時間後。


最後の一音が、透き通った余韻を残して消える。


ミスタッチは一度もなかった。


入口では、コユキとディアがそっと拍手していた。


「……普通に上手かった。びっくりしたよ」


「本当に、後半、綺麗だったわ。秀人」


胸の奥が、ほわっと温かくなる。


「……すごいな、このスキル……本当に、“できる”が増えるんだな」


その夜は、静かな家の中にピアノの余韻が長く溶け続け──

穏やかに、ゆっくりと終わっていった。


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