054話『日常と非日常の境目で』
火曜の朝、クローゼットの前でしばらく固まってしまった。
「……スーツって、こんなに肩まわり重かったっけ」
袖を通した瞬間、わずかに生地がきつく感じた。
背中から肩にかけて、知らないうちに“厚み”が出ている。
(……レベルが上がると、こういうところにも影響するんだな)
筋肉がついたというより、身体そのものが密度を増したという感覚に近い。
動きにくいわけではないが、会社用スーツの生地がやけに主張してくる。
ソファでは、コユキがタブレットを操作しながら顔だけこちらに向けた。
「お仕事がんばって。午後は政府施設だしね」
「うん。出社しておこうかなと思って」
ブレスレットの中から、ディアの柔らかい声が響く。
『では、いってらっしゃい。ブレスレットの中から応援してる』
「ありがとう……いってきます」
軽く笑って家を出た。
外出時の同伴体制ももう慣れたもんだ。
電車は思っていたより混んでいた。
満員というほどではないけれど、乗車率は確実に上がっている。
(戻りつつあるんだな、いろいろと)
ドアが開くたびに入れ替わる人波を眺めながら、そんなことを思う。
駅から職場までの道も、どこか懐かしい。
人の数、朝の音、通りの空気……少しずつ“普通”に戻っていく景色があった。
オフィスに着くと、出社率は半分ほど。
それでも在宅続きだった身には、このざわめきが逆に新鮮だ。
「お、時任さん。珍しいですね」
「様子見がてら、ね」
軽く挨拶を返しながら席に着く。
すると近くの同僚がスマホを覗かせてきた。
「見ました? 今朝の話題、“空飛ぶ帰還者”」
「……飛んだか」
画面の中では、ビルの間を滑るように飛ぶ人影。
映像のクオリティも相まって、現実と非現実の境界が曖昧になる。
「通勤、それでできたらいいんですけどね」
「いや……たぶん、空にも信号できるよ。こういうのが増えたら」
くすっと笑い合う。
ただ、胸のどこかで、社会の変化を静かに実感していた。
スキルやモンスターの存在が、確かに“日常”へ混ざり始めている。
(僕らは、今ちょうど境目にいる)
そんな感覚があった。
始業のチャイムがなる。
軽く深呼吸して、キーボードに手を置く。
「さて……仕事、始めるか」
午後14時、淀屋橋の政府施設のロビー。
ここに来るのはもう慣れたものだ。
警備員に軽く会釈し、応接フロアへ向かう。
会議室の前では、九条さんと柊さんが待っていた。
「よく来たな、時任」
「お疲れさまです」
部屋に入ると、ほどよい緊張感が漂っていた。
ベトナムの件も、まだ余韻として残っているのだろう。
九条さんは資料に目を落としながら口を開いた。
「昨日、東京で報告会があった。グエンとの対面は、概ね前向きに受け取られている」
「それなら、少し安心しました」
九条さんは続ける。
「ところで……昨日のニュース、見たか?」
「はい。特務班発足の件ですね。そして──一ノ瀬さんが映っていました」
控えめに苦笑すると、隣の柊さんがわずかに肩を揺らした。
「本当に驚きましたよ。……一ノ瀬さん、完全に“表舞台”に立つ側の人ですね」
(お茶を吹き出したことは言わない……)
九条さんは薄く笑うと、淡々と補足した。
「ゲート対処特務班は、内外の世論を受けて政府が本腰を入れた象徴的な布陣だ。責任者は国家戦略局出身の八代、実戦指揮官には元自衛隊の帰還者・五十嵐が就いた。そして──一ノ瀬が、エースとして名を連ねている」
九条さんの声は淡々としているが、その内側にわずかな誇らしさがあった。
「一ノ瀬は新宿ゲートを単独で13階まで踏破している。10階では雷系スキルも取得したそうだ。……今、日本で最強の帰還者だ。お前を除けば、だが」
その言い方に、わずかな揶揄が混じる。
「一ノ瀬さんなら、納得です。実力もありますし、見た目も華がありますから」
「そうだな」
僕は小さく息を整えた。
「僕は……表に立つより、静かなところで役割を果たすほうが向いています。そのあたりは、これまでどおりで」
九条さんは資料を閉じ、短く答えた。
「分かっている。お前との約束は守る」
それは短いが、揺るぎのない言葉だった。
九条さんは手元の資料を指で軽く叩き、話題を切り替えるように言った。
「それと……昨日のニュースで触れられていたはずだが、“ゲート総合プラットフォーム”も本格稼働に向けて動き出した」
僕は姿勢を少し正した。
「アメリカ主導の仕組みですよね。世界各国のゲート情報をまとめて共有する……」
「ああ。日本政府も正式に参加する方針を決めた。基本的な位置情報やクリア階層は、段階的に公開されていく。もっとも──新大阪など一部は例外扱いだがな」
「つまり、公的な情報の精度が上がる、ということですね」
「そうだ。推測や噂が飛び交う状況は終わる。情報が整理され、国際的にも共有される」
九条さんは淡々と言うが、その裏には“世界がゲートに対応し始めている”という重みがあった。
「当面は“割り振られた四つのゲート”に集中してくれ。他の担当は埋まった。緊急時は応援を頼むが、それ以外は任せる」
「承知しました。……昨日、小型ゲートの一つを11階まで進めています。データは後ほど」
九条さんが眉をわずかに寄せる。
「一日で11階、だと?」
「はい。気づけば、という感じですが」
しばし無言ののち、諦めたように息をつく。
「ほんと、お前は……。で、今後の予定は?」
「今日中に割り振られているラストの小型ゲートを8階層以上まで踏破します。その後は新大阪ゲート。次の目標は──以前お伝えした40階層ですね」
柊さんも九条さんも、同時に呆れたように目を細めた。
「言っていたが……40か。スキル三つ目を狙うつもりだな」
「ええ。無茶はしません。……たぶん」
「“たぶん”は信用ならん」
言葉は厳しいが、どこか柔らかさを含んでいた。
「気をつけろよ。お前は強いが、ゲートは常に想定外がある。報道にないだけで死者もそれなりに出ている」
「承知しました。肝に銘じておきます」
面会を終え立ち上がると、柊さんが軽く手を振った。
「また、ご報告をお待ちしております」
外に出ると、午後の光がやけに明るかった。
「……よし、片付けるか」
その足で別の小型ゲートへ向かう。
4階層のゲートとはいえ、油断は禁物。
けれど身体は自然と動いてくれた。
結果──9階層まで無事に踏破。
新しいスキルは二つ。
《幻影標識》
→ 特定の場所に視覚的な幻影を残し、追尾や記憶支援に利用可能。
《精神遮断》
→ 幻覚・催眠・洗脳など、精神干渉系のスキルに対する抵抗力を高める。一定以下の干渉は自動無効化。
(精神系の耐性強化は……ありがたいな。コユキだけじゃなく、共有される僕にも恩恵がある)
似ている分類のスキルが増えてきた、とも思った。
ただ、それも経験値の証なのだろう。
ゲートを出るころには、夜風が涼しく肌を撫でていた。
駅からの帰り道、コンビニ弁当片手に家路につき──帰宅は、すでに22時目前。
シャワーを浴び、ようやくソファに沈み込む。
「今日もお疲れさま」
「うん、おつかれさま」
ミニチュアのディアは動画を見ていて、コユキは背伸びしながらこちらを見上げる。
「湿度の高い階層だったから、水系スキルがよく馴染んでたな」
「うん。水環創生で、斬撃も衝撃も作りやすかったよ。水圧の刃とか、水球の押し返しとか……全部、動きに合わせて形を変えられた」
コユキは小さく瞬きして、少し考えてから答えた。
「うーん……理屈ではできると思うよ。水を集めたり、きれいにしたりは得意だから。ただ──“生活用水として安定して出す”ってなると、ちょっと難しいかも」
「魔力の調整がシビアになる感じか?」
「そう。飲み水くらいなら問題ないけど、洗濯とか風呂とかは……魔力の維持が大変だと思う。あと、水圧が強すぎると服が破れちゃうしね」
「……それは困るな」
思わず苦笑すると、コユキも小さく笑った。
「でも、緊急時の水源としてくらいなら、十分役に立つよ。ボクたちのスキルって、使い方次第だから」
僕の肩が、少しだけ緩む。
「そうだな。日常に落とし込めるかどうかは……こっちの創意工夫か」
「うん。ボクも、もっと上手く使えるように練習する。自在操作があるから上達はやいはずだよ」
スキルが、戦闘の補助だけでなく、こうして日常に溶け込んでいく。
──少しずつだけれど、“異能と日常”が混ざりはじめている。
そう感じながら、僕は静かに息を吐いた。




