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晩年こそ本番。42歳会社員、喋る猫と現代ダンジョン攻略──ここからが本番だ  作者: 七乃白 志優
第五章:共に在る戦場と日常

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054話『日常と非日常の境目で』

火曜の朝、クローゼットの前でしばらく固まってしまった。


「……スーツって、こんなに肩まわり重かったっけ」


袖を通した瞬間、わずかに生地がきつく感じた。

背中から肩にかけて、知らないうちに“厚み”が出ている。


(……レベルが上がると、こういうところにも影響するんだな)


筋肉がついたというより、身体そのものが密度を増したという感覚に近い。

動きにくいわけではないが、会社用スーツの生地がやけに主張してくる。


ソファでは、コユキがタブレットを操作しながら顔だけこちらに向けた。


「お仕事がんばって。午後は政府施設だしね」


「うん。出社しておこうかなと思って」


ブレスレットの中から、ディアの柔らかい声が響く。


『では、いってらっしゃい。ブレスレットの中から応援してる』


「ありがとう……いってきます」


軽く笑って家を出た。

外出時の同伴体制ももう慣れたもんだ。


電車は思っていたより混んでいた。

満員というほどではないけれど、乗車率は確実に上がっている。


(戻りつつあるんだな、いろいろと)


ドアが開くたびに入れ替わる人波を眺めながら、そんなことを思う。


駅から職場までの道も、どこか懐かしい。

人の数、朝の音、通りの空気……少しずつ“普通”に戻っていく景色があった。


オフィスに着くと、出社率は半分ほど。

それでも在宅続きだった身には、このざわめきが逆に新鮮だ。


「お、時任さん。珍しいですね」


「様子見がてら、ね」


軽く挨拶を返しながら席に着く。

すると近くの同僚がスマホを覗かせてきた。


「見ました? 今朝の話題、“空飛ぶ帰還者”」


「……飛んだか」


画面の中では、ビルの間を滑るように飛ぶ人影。

映像のクオリティも相まって、現実と非現実の境界が曖昧になる。


「通勤、それでできたらいいんですけどね」


「いや……たぶん、空にも信号できるよ。こういうのが増えたら」


くすっと笑い合う。

ただ、胸のどこかで、社会の変化を静かに実感していた。


スキルやモンスターの存在が、確かに“日常”へ混ざり始めている。


(僕らは、今ちょうど境目にいる)


そんな感覚があった。


始業のチャイムがなる。

軽く深呼吸して、キーボードに手を置く。


「さて……仕事、始めるか」


午後14時、淀屋橋の政府施設のロビー。


ここに来るのはもう慣れたものだ。

警備員に軽く会釈し、応接フロアへ向かう。


会議室の前では、九条さんと柊さんが待っていた。


「よく来たな、時任」


「お疲れさまです」


部屋に入ると、ほどよい緊張感が漂っていた。

ベトナムの件も、まだ余韻として残っているのだろう。


九条さんは資料に目を落としながら口を開いた。


「昨日、東京で報告会があった。グエンとの対面は、概ね前向きに受け取られている」


「それなら、少し安心しました」


九条さんは続ける。


「ところで……昨日のニュース、見たか?」


「はい。特務班発足の件ですね。そして──一ノ瀬さんが映っていました」


控えめに苦笑すると、隣の柊さんがわずかに肩を揺らした。


「本当に驚きましたよ。……一ノ瀬さん、完全に“表舞台”に立つ側の人ですね」


(お茶を吹き出したことは言わない……)


九条さんは薄く笑うと、淡々と補足した。


「ゲート対処特務班は、内外の世論を受けて政府が本腰を入れた象徴的な布陣だ。責任者は国家戦略局出身の八代、実戦指揮官には元自衛隊の帰還者・五十嵐が就いた。そして──一ノ瀬が、エースとして名を連ねている」


九条さんの声は淡々としているが、その内側にわずかな誇らしさがあった。


「一ノ瀬は新宿ゲートを単独で13階まで踏破している。10階では雷系スキルも取得したそうだ。……今、日本で最強の帰還者だ。お前を除けば、だが」


その言い方に、わずかな揶揄が混じる。


「一ノ瀬さんなら、納得です。実力もありますし、見た目も華がありますから」


「そうだな」


僕は小さく息を整えた。


「僕は……表に立つより、静かなところで役割を果たすほうが向いています。そのあたりは、これまでどおりで」


九条さんは資料を閉じ、短く答えた。


「分かっている。お前との約束は守る」


それは短いが、揺るぎのない言葉だった。

九条さんは手元の資料を指で軽く叩き、話題を切り替えるように言った。


「それと……昨日のニュースで触れられていたはずだが、“ゲート総合プラットフォーム”も本格稼働に向けて動き出した」


僕は姿勢を少し正した。


「アメリカ主導の仕組みですよね。世界各国のゲート情報をまとめて共有する……」


「ああ。日本政府も正式に参加する方針を決めた。基本的な位置情報やクリア階層は、段階的に公開されていく。もっとも──新大阪など一部は例外扱いだがな」


「つまり、公的な情報の精度が上がる、ということですね」


「そうだ。推測や噂が飛び交う状況は終わる。情報が整理され、国際的にも共有される」


九条さんは淡々と言うが、その裏には“世界がゲートに対応し始めている”という重みがあった。


「当面は“割り振られた四つのゲート”に集中してくれ。他の担当は埋まった。緊急時は応援を頼むが、それ以外は任せる」


「承知しました。……昨日、小型ゲートの一つを11階まで進めています。データは後ほど」


九条さんが眉をわずかに寄せる。


「一日で11階、だと?」


「はい。気づけば、という感じですが」


しばし無言ののち、諦めたように息をつく。


「ほんと、お前は……。で、今後の予定は?」


「今日中に割り振られているラストの小型ゲートを8階層以上まで踏破します。その後は新大阪ゲート。次の目標は──以前お伝えした40階層ですね」


柊さんも九条さんも、同時に呆れたように目を細めた。


「言っていたが……40か。スキル三つ目を狙うつもりだな」


「ええ。無茶はしません。……たぶん」


「“たぶん”は信用ならん」


言葉は厳しいが、どこか柔らかさを含んでいた。


「気をつけろよ。お前は強いが、ゲートは常に想定外がある。報道にないだけで死者もそれなりに出ている」


「承知しました。肝に銘じておきます」


面会を終え立ち上がると、柊さんが軽く手を振った。


「また、ご報告をお待ちしております」


外に出ると、午後の光がやけに明るかった。


「……よし、片付けるか」


その足で別の小型ゲートへ向かう。


4階層のゲートとはいえ、油断は禁物。

けれど身体は自然と動いてくれた。


結果──9階層まで無事に踏破。


新しいスキルは二つ。


幻影標識(ミラージュ・マーカー)

→ 特定の場所に視覚的な幻影を残し、追尾や記憶支援に利用可能。


精神遮断(サイキック・ジャマー)

→ 幻覚・催眠・洗脳など、精神干渉系のスキルに対する抵抗力を高める。一定以下の干渉は自動無効化。


(精神系の耐性強化は……ありがたいな。コユキだけじゃなく、共有される僕にも恩恵がある)


似ている分類のスキルが増えてきた、とも思った。

ただ、それも経験値の証なのだろう。


ゲートを出るころには、夜風が涼しく肌を撫でていた。


駅からの帰り道、コンビニ弁当片手に家路につき──帰宅は、すでに22時目前。


シャワーを浴び、ようやくソファに沈み込む。


「今日もお疲れさま」


「うん、おつかれさま」


ミニチュアのディアは動画を見ていて、コユキは背伸びしながらこちらを見上げる。


「湿度の高い階層だったから、水系スキルがよく馴染んでたな」


「うん。水環創生(アクア・サークレット)で、斬撃も衝撃も作りやすかったよ。水圧の刃とか、水球の押し返しとか……全部、動きに合わせて形を変えられた」


コユキは小さく瞬きして、少し考えてから答えた。


「うーん……理屈ではできると思うよ。水を集めたり、きれいにしたりは得意だから。ただ──“生活用水として安定して出す”ってなると、ちょっと難しいかも」


「魔力の調整がシビアになる感じか?」


「そう。飲み水くらいなら問題ないけど、洗濯とか風呂とかは……魔力の維持が大変だと思う。あと、水圧が強すぎると服が破れちゃうしね」


「……それは困るな」


思わず苦笑すると、コユキも小さく笑った。


「でも、緊急時の水源としてくらいなら、十分役に立つよ。ボクたちのスキルって、使い方次第だから」


僕の肩が、少しだけ緩む。


「そうだな。日常に落とし込めるかどうかは……こっちの創意工夫か」


「うん。ボクも、もっと上手く使えるように練習する。自在操作フレックス・マニピュレートがあるから上達はやいはずだよ」


スキルが、戦闘の補助だけでなく、こうして日常に溶け込んでいく。


──少しずつだけれど、“異能と日常”が混ざりはじめている。


そう感じながら、僕は静かに息を吐いた。


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