047話『異国の空、契約者の影』
目を開けると、コユキの肉球が僕の頬にむぎゅっと押し付けられていた。
「ほら秀人、起きる時間。今日は海外でしょ?」
「……はいはい、頼んでおいてなんだけど、遠慮ないな」
昨夜、念のため目覚ましのセットだけでなく“起こしてくれ”と依頼したのは僕だ。
アラームより確実な白モフアラーム。今日も仕事が早い。
顔を洗い、コーヒーを淹れ、在宅分の作業をさっと片付ける。
サブマネージャーへ、不在中の対応をお願いする。
まだ午前中だけど、気持ちはすっかり“出発モード”だ。
「よし……これで一区切り」
カップに残ったコーヒーを飲み干し、ノートPCを閉じた。
今日の本番は、仕事じゃない。
「さて……いよいよ、ベトナムだな」
パスポート、変換プラグ、モバイルバッテリー、着替え……
スーツケースを開けて最終チェック。
「よし。忘れ物なし」
「ボクも準備完了!影にこもる準備も万端!」
「私も問題ないわ。今日はブレスレット内で魔力を温存しておくから」
ディアの声がふわっと響く。
「じゃあ行こうか。──いざ、ハノイ」
玄関を出た瞬間、空気がほんの少しだけ旅の匂いを帯びた気がした。
関西空港へ向かう電車。
見慣れた景色なのに、今日はどこか少し違って見える。
「……久々の海外だな」
胸の奥が軽く跳ねる。この“旅立つ感じ”が、悪くない。
ただ──
(影にコユキ入れて、ブレスレットにディア……ほんとに手荷物検査いけるよな……?)
『問題ないって言ったでしょ〜』
『心配しすぎよ。どちらかと言えば、あなたの飲みかけのペットボトルが危険ね』
実際その通りで、引っかかったのは僕の水だった。
……恥ずかしい。
でも手続きは順調に進み、15時──搭乗口へ。
飛行機に乗り込むころには、不安より楽しみの方が勝っていた。
離陸の重力が身体を押しつけ、窓の外が雲の海へ変わっていく。
(……さて、5時間半。何しよう)
訓練もできない。ネットも弱い。映画も今は気分じゃない。
結局、念話に意識を向けた。
『ねぇ、コユキ。ひとつ聞いていい?』
『なに?機内トーク?暇だもんね』
『……なんか、こうして地上と離れて空を飛んでるとさ。普段考えないことが、ふっと頭に浮かぶんだよ』
『変なこと?……まあ、聞くだけ聞くよ』
『僕がもし死んだら……コユキはどうなる?』
『んー……数十分〜数時間で消えると思うよ。契約が“生存前提”だから。』
『逆は?コユキが死んだら僕は?』
『影響ナシ。けど……もう “次の相棒となる契約モンスター” は出てこないと思う』
胸の奥が、わずかにざわめく。
『秀人、向こうでの段取りだけ確認しとこっか?』
『……ああ。そうだな』
僕はブレスレットを指で軽く叩く。
『ディア、聞こえる?例の件、頼んでいた通りでお願いしたい』
『ええ。任せて』
『助かる。じゃあ僕は、話を引き出すことに集中する』
──それだけの、簡単な打ち合わせだった。
必要以上に重くもしない。
でも抜かりはない。
どんな場でも、結果の7割は“準備の精度”で決まる──それは仕事でも同じだ。
目的を揃え、役割を決め、最悪パターンを想定しておく。
それから──聞かれること。聞くべきこと。その“想定問答”の整理。
これを事前にやっておくだけで、現場の迷いがほとんど消える。
答えに詰まらないだけで、相手への印象は段違いだ。
それが僕の“いつもの準備”。
機内の低いエンジン音だけが続いていた。
『全部のゲートが世界から消えたらどうなるんだろうな』
『それは……私にも今はわからないわ』
僕は窓の外を見た。
白い雲と青い空の境目の、あの遠さが妙に胸に残る。
(……ゲートって、結局なんなんだろうな)
答えは出ないまま、飛行機は進んでいく。
現地時間での午後8時過ぎ。ハノイ・ノイバイ国際空港に、無事着陸した。
外へ出た瞬間、まとわりつくような湿気が肌に絡みつく。
「……この湿気、久しぶりだな」
『わ〜、活気ある空気!こういうの好き〜!』
『香辛料と油の匂い……この国、日本と違ってなんだか元気ね』
二人ともテンションが高い。
僕だけが“海外”で静かに緊張してる……気がする。
(……いや、正直に言うと、英語が苦手なんだよな。)
ある程度は翻訳アプリでなんとかなるし、海外出張の経験もある。
(言語理解スキルとか……どこかの階層で落ちてたりしないかな。)
ふとそんな帰還者的な発想が頭に浮かぶ。
現実世界で苦手なことほど、スキルで解決できるような気がしてしまうのは、たぶんこの今の生活の“副作用”だ。
「さて、Grab起動っと」
こういう時、配車アプリは本当に頼りになる。
車を呼び、ドライバーと軽く言葉を交わし、市街地へ。
夜景に包まれたハノイは、雑多で、熱くて、なんかすごく“生きている街”だった。
(……日本みたいに外出規制がかかってないのかな)
50分ほどでホテルへ到着。
チェックインして部屋に入ると──
「広っ……」
ツインルームのベッドに倒れ込み、そのまま天井を見上げる。
「さて……飯に行くか」
ホテルから少し歩いた大通りには、屋台がぎっしり並んでいた。
匂いだけで飯が食える勢い。
「フォーください」
指差し注文は世界共通語。
出てきたフォーはあっさりしてて、出汁が沁みてくる。
『おいしそー!ボクも後でちょうだいね!』
(……僕、一応ぼっち飯なんだけどな?)
でも、不思議と寂しくなかった。
旅先の空気と、“仲間の気配”がそう思わせてくれるのかもしれない。
食べ歩きしながらホテルへ戻り──コユキ用バインミーも購入。
「差し入れ」
『おおっ、今夜のご褒美だね!』
シャワーを浴び、ようやく息をつく。
テレビをつけ、翻訳アプリ越しにニュースを眺める。
《世界各地でスタンピード対策が加速──帰還者の軍事研究が議論に》
《国連、スキル発現者データの共有案を検討へ》
「なるほど……ここでも大きな話題か」
「当然よ。スキル社会への移行はもう始まってるもの」
窓の外にはハノイの夜景と月。
明日の午後3時──いよいよ、ボスモンスターをテイムしたという帰還者と面会する。
「準備はした……思い描いたとおりに進んでくれたら嬉しいな」
小さくつぶやき、テレビを消す。
異国の夜が、静かに深まっていった。




