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晩年こそ本番。42歳会社員、喋る猫と現代ダンジョン攻略──ここからが本番だ  作者: 七乃白 志優
第四章:月は静かに見ていた

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035話『予測は現実に』

翌朝。

いつものようにガラガラの電車に揺られながら、僕は静かに息を吐いた。


考えているのは──一ノ瀬とリィナの容体のこと。

と言っても、命に別状がないと聞いているので“気に掛けている”程度だ。


それより今、意識を占めているのは別の方だった。


SNSで増え続ける“帰還者”の話題。

期待、興味、戸惑い、警戒。

さまざまな反応が、細かなノイズのように流れ続けている。


不安というより──

「この先、社会はどう変わっていくのか」

「その変化の中で、自分はどう動くべきか」


そんなふうに、自然と考えてしまう。


職業柄かもしれない。

状況が変わるなら、いち早く“脚本”を描いておきたい。

流れの先を読むのは、仕事でも日常でも変わらない癖だ。


電車の揺れに身を預けながら、僕は静かに思考を巡らせていた。


午前中はいつもどおり在宅勤務だ。


サブマネージャーとの打ち合わせ、資料確認、社内チャットでの調整。

体は習慣で動いてくれるが、意識の一部はどうしても別のところを向いている。


(……まぁ、こういう日もあるか)


そう自分に言い聞かせながら、タスクだけはきっちり片づけた。


午後。

僕は予定どおり、淀屋橋の政府施設へ向かった。


案内された会議室のドアを開けると、中には柊さんがひとり。

テーブルに広げた資料を見つめている。


「こんにちは、柊さん」


「……こんにちは、時任さん」


軽く会釈を交わす。

いつもと同じ挨拶なのに、空気が違った。


表情が、硬い。

淡々とした官僚的な冷静さではなく、どこか張りつめている。


「……何かありましたか?」


沈黙が落ちる前に尋ねると、柊さんは一瞬視線を伏せ、それから静かに口を開いた。


「まずは、ご安心ください。一ノ瀬さんと、リィナさんについてですが……」


胸の奥が、わずかに強く打つ。


「リィナさんは、時任さんが病院を後にされたあと──お持ちの回復スキル、癒光循環(ヒールライト)を、一ノ瀬さんとご自身に時間をかけて複数回行いました。その結果、外傷はほとんど癒えています。ただ、精神的にも肉体的にも疲労が大きかったため、一昨日までは入院、その後はご自宅で療養されています」


「……そうですか。無事でよかったです」


肩の力が、少し抜けた。

雰囲気からしてもっと重い話を覚悟していただけに、その安堵は大きい。


……なのに、空気は軽くならない。

柊さんの表情も声の温度も、まだどこか張りつめたままだ。


「……ただし」


柊さんの声が、もう一段だけ低くなる。


「本日、3月22日は、別の意味で“節目”の日でもあります」


僕は自然と姿勢を正した。

ここからが本題だ、と直感が告げている。


「大型ゲートが発生したのは、3月3日金曜日の18時45分。そして、小型ゲートの発生はその二日後、3月5日日曜日の朝6時45分──覚えていらっしゃいますか?」


「はい。聞いています」


「そして、今日が“小型ゲート発生から17日目”です」


心臓が、ひとつ大きく打った。


(……そうだ。素数の下一桁が7の日──17日目が“危険日”だったな。聞いていたのに、日々の対応で完全に意識から抜けていた)


「今朝方、岐阜県の小型ゲートで、スタンピードが発生しました」


会議室の空気が、すっと冷える。


柊さんは手元の資料を一枚めくり、淡々と続けた。


「山奥の渓谷にあった小型ゲートです。地形の関係で捜索が遅れ、民間人にも政府側にも発生時点では把握されていませんでした。確認されたのは、スタンピード発生後です」


「……なるほど。そもそも“見つけられていなかった”わけですね」


「はい。現在も調査中ですが、“2階層構造”の小型ゲートである可能性が高いと見ています」


2階層ゲート。未踏。17日目。

そして──以前、九条さんから聞かされた話。


「……ついに、日本でも起きたわけですね」


自分でそう呟いたとき、背筋に冷たいものが走る。


これはもう、“もしも”ではない。


柊さんはファイルを閉じ、まっすぐ僕を見た。


「現在、政府が把握している帰還者は142名。その中には、優秀な方も、まだ経験の浅い方も、協力的な方も、そうでない方も含まれますが……」


一呼吸おいて、言葉を続ける。


「少なくとも、スタンピードの沈静化に動ける人材は、一定数確保できていると考えています。ですから、時任さんお一人に、その対応を背負っていただく必要はありません」


──つまり、「あなたが行かなくてもいい」ということだ。


その言葉に、ほんの少しだけ安堵が混じる。


「……そうですか」


数字を聞いた瞬間、頭の中で別の歯車が回り始めた。

142人。

完全戦力とは言えないまでも、現場に立てる人間がそれだけいるなら──


(……だったら、こちらも“協力の仕方”を変えられる)


ごく自然に、しかしはっきりと、ひとつの方向性が定まっていく。


僕は手元のスマホを指先で叩いた。

AIアプリを開き、簡潔に入力する。


【下一桁が7の6番目から10番目の素数を教えて】


一秒もせずに、画面に数字が返る。

僕は姿勢を正し直し、口を開いた。


「ひとつ、提案があります」


柊さんの視線が、わずかに鋭さを帯びる。

いつもの理知的な眼差しだ。

それを正面から受け止める。


「僕の担当エリアを、“電車で片道2時間以内、日帰り可能な範囲”に限定していただけませんか」


「……理由を伺っても?」


「対応効率です。物理的な移動に時間を取られるのが、どうしてももったいなくて」


「……なるほど。理屈としては筋が通っています。ただ──その条件ですと、時任さんが対応できる小型ゲートは“相当限定される”ことになりますが……?」


「承知しています」


僕は軽く頷き、すぐに次の案を続けた。


「それと、小型ゲートについてですが。今後は“8階層まで”一気に攻略するつもりです」


「……8階層まで、ですか?」


さすがに、柊さんの目が見開かれる。


今の段階で、政府が把握している中に“8階層クリア済みの小型ゲート”は日本に存在しないはずだ。

常識的に考えれば、到達が難しい領域だ。


「……時任さん。ここまでの実績を見る限り……あなたなら、可能なのだろうとは思います」


淡々とした、誇張のない言い回し。

過大評価でも、持ち上げでもない。

事実だけを見て出した判断。


その言い方に、逆に重みがあった。


「“できる”という前提で、話を進めてよろしいという理解で?」


「はい」


僕は短く返し、そのまま続けた。


「8階層まで攻略すれば、そのゲートは3月5日から換算で136日間、安全になります。およそ今から4ヶ月。そのぶん、ほかの現場に人員を回す余裕が生まれるはずです」


「報酬は3階層クリア時点の金額で構いません。見返りは求めません。ただし──」


ここで声を意図的に落とす。


「僕が8階層までクリアしたという事実は、他の帰還者には“絶対に知られたくない”。ですので、僕が担当する小型ゲートについては、他の帰還者の入場を制限していただきたいんです」


「理由は?」


「無駄な注目や比較、警戒心や対抗意識を生みたくないからです。目立てば、不要な軋轢も増える」


しばしの沈黙のあと、柊さんは静かに頷く。


「……合理的な懸念だと思います」


「もう一点あります」


僕は視線を逸らさず、言葉を重ねた。


「もし、その日に対応可能な小型ゲートが、さきほどお伝えしたエリア内に存在しなかった場合──その日は“新大阪ゲートの階層攻略”を、僕一人で進めさせてください」


「進める……というのは、どこまでを想定されていますか」


「どこまで行けるかは分かりません。ただ、到達階層については、必ず政府に報告します。そのうえで、ひとつ条件があります」


ここからは、交渉ではなく“線引き”だ。


「新大阪ゲートには、政府関係者を含めて“誰も入らせないでください”。これは絶対条件です。配信目的の無断侵入や、軍事利用として自衛隊員に1階だけ踏破させてスキルを取らせる──そうした“あらゆる試み”も禁止でお願いします」


「……絶対条件、ですか」


「もしひとりでも、無断でゲート内に踏み込んだ場合。その時点で、僕は一切の協力を打ち切ります。今後の小型ゲート対応も含めて、完全に手を引きます」


会議室の空気が、ぴんと張りつめる。


無茶な要求なのは分かっている。

それでも、譲れない一線というものはある。


数秒の沈黙の後、柊さんは静かに息を吐いた。


「……その件については、私の権限だけでは決められません。上長である九条に確認させてください」


「構いません」


「ただ、ひとつだけ、こちらからもお願いがあります」


書類を閉じ、柊さんは真っ直ぐこちらを見る。


「ゲート内の“階層リポップ周期”について、政府は一定の追跡手段を持っています。簡単に言えば、どこまで進んだかを間接的に把握する術がある、ということです」


「ですので、くれぐれも“虚偽の報告”だけは避けてください。いずれズレが露見したとき、信頼関係が壊れてしまいます」


(階層リポップ周期、か……。帰ったらコユキに確認しておくか)


「……分かりました。嘘で信用を失うのは本意ではありません。そのような真似はしません」


会話が一区切りつく。

僕は一度姿勢を整え、今日以降の動きだけ確認する。


「今日は、このあとゲートには入りません。明日以降は、回答内容を確認してから動きます」


「承知しました。本日はお越しいただき、ありがとうございます、時任さん」


「こちらこそ、ご丁寧にありがとうございました」


そう言って席を立ち、会議室の扉を開く。

柊さんへ軽く会釈を返し、静かに閉めた。


……その瞬間、背中にまとわりついていた緊張が、すっとほどけていくのを感じた。


(交渉には慣れているつもりでも──“仕掛ける側”に立つと、やっぱり心拍は上がるな)


仕事でもそうだ。

戦略を切り出す時は、表面上は落ち着いて見せていても──内側では、案外ドキドキしている。


けれど、その緊張やプレッシャーに飲まれず、最後まで通しきる人間ほど、結局は出世していく。

何度も、それを目の前で見てきた。


だからこそ、緊張の全てが悪いわけではない。

今は、覚悟を決めて、次の段階に踏み出す前の、あの独特の静けさに近い。


(……スタンピードが、日本でも始まった)


外気に触れた瞬間、その実感がじわりと胸に降りてくる。

もう、元のフェーズには戻らない。

日本も、社会も、確実に変わっていく。


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