035話『予測は現実に』
翌朝。
いつものようにガラガラの電車に揺られながら、僕は静かに息を吐いた。
考えているのは──一ノ瀬とリィナの容体のこと。
と言っても、命に別状がないと聞いているので“気に掛けている”程度だ。
それより今、意識を占めているのは別の方だった。
SNSで増え続ける“帰還者”の話題。
期待、興味、戸惑い、警戒。
さまざまな反応が、細かなノイズのように流れ続けている。
不安というより──
「この先、社会はどう変わっていくのか」
「その変化の中で、自分はどう動くべきか」
そんなふうに、自然と考えてしまう。
職業柄かもしれない。
状況が変わるなら、いち早く“脚本”を描いておきたい。
流れの先を読むのは、仕事でも日常でも変わらない癖だ。
電車の揺れに身を預けながら、僕は静かに思考を巡らせていた。
午前中はいつもどおり在宅勤務だ。
サブマネージャーとの打ち合わせ、資料確認、社内チャットでの調整。
体は習慣で動いてくれるが、意識の一部はどうしても別のところを向いている。
(……まぁ、こういう日もあるか)
そう自分に言い聞かせながら、タスクだけはきっちり片づけた。
午後。
僕は予定どおり、淀屋橋の政府施設へ向かった。
案内された会議室のドアを開けると、中には柊さんがひとり。
テーブルに広げた資料を見つめている。
「こんにちは、柊さん」
「……こんにちは、時任さん」
軽く会釈を交わす。
いつもと同じ挨拶なのに、空気が違った。
表情が、硬い。
淡々とした官僚的な冷静さではなく、どこか張りつめている。
「……何かありましたか?」
沈黙が落ちる前に尋ねると、柊さんは一瞬視線を伏せ、それから静かに口を開いた。
「まずは、ご安心ください。一ノ瀬さんと、リィナさんについてですが……」
胸の奥が、わずかに強く打つ。
「リィナさんは、時任さんが病院を後にされたあと──お持ちの回復スキル、癒光循環を、一ノ瀬さんとご自身に時間をかけて複数回行いました。その結果、外傷はほとんど癒えています。ただ、精神的にも肉体的にも疲労が大きかったため、一昨日までは入院、その後はご自宅で療養されています」
「……そうですか。無事でよかったです」
肩の力が、少し抜けた。
雰囲気からしてもっと重い話を覚悟していただけに、その安堵は大きい。
……なのに、空気は軽くならない。
柊さんの表情も声の温度も、まだどこか張りつめたままだ。
「……ただし」
柊さんの声が、もう一段だけ低くなる。
「本日、3月22日は、別の意味で“節目”の日でもあります」
僕は自然と姿勢を正した。
ここからが本題だ、と直感が告げている。
「大型ゲートが発生したのは、3月3日金曜日の18時45分。そして、小型ゲートの発生はその二日後、3月5日日曜日の朝6時45分──覚えていらっしゃいますか?」
「はい。聞いています」
「そして、今日が“小型ゲート発生から17日目”です」
心臓が、ひとつ大きく打った。
(……そうだ。素数の下一桁が7の日──17日目が“危険日”だったな。聞いていたのに、日々の対応で完全に意識から抜けていた)
「今朝方、岐阜県の小型ゲートで、スタンピードが発生しました」
会議室の空気が、すっと冷える。
柊さんは手元の資料を一枚めくり、淡々と続けた。
「山奥の渓谷にあった小型ゲートです。地形の関係で捜索が遅れ、民間人にも政府側にも発生時点では把握されていませんでした。確認されたのは、スタンピード発生後です」
「……なるほど。そもそも“見つけられていなかった”わけですね」
「はい。現在も調査中ですが、“2階層構造”の小型ゲートである可能性が高いと見ています」
2階層ゲート。未踏。17日目。
そして──以前、九条さんから聞かされた話。
「……ついに、日本でも起きたわけですね」
自分でそう呟いたとき、背筋に冷たいものが走る。
これはもう、“もしも”ではない。
柊さんはファイルを閉じ、まっすぐ僕を見た。
「現在、政府が把握している帰還者は142名。その中には、優秀な方も、まだ経験の浅い方も、協力的な方も、そうでない方も含まれますが……」
一呼吸おいて、言葉を続ける。
「少なくとも、スタンピードの沈静化に動ける人材は、一定数確保できていると考えています。ですから、時任さんお一人に、その対応を背負っていただく必要はありません」
──つまり、「あなたが行かなくてもいい」ということだ。
その言葉に、ほんの少しだけ安堵が混じる。
「……そうですか」
数字を聞いた瞬間、頭の中で別の歯車が回り始めた。
142人。
完全戦力とは言えないまでも、現場に立てる人間がそれだけいるなら──
(……だったら、こちらも“協力の仕方”を変えられる)
ごく自然に、しかしはっきりと、ひとつの方向性が定まっていく。
僕は手元のスマホを指先で叩いた。
AIアプリを開き、簡潔に入力する。
【下一桁が7の6番目から10番目の素数を教えて】
一秒もせずに、画面に数字が返る。
僕は姿勢を正し直し、口を開いた。
「ひとつ、提案があります」
柊さんの視線が、わずかに鋭さを帯びる。
いつもの理知的な眼差しだ。
それを正面から受け止める。
「僕の担当エリアを、“電車で片道2時間以内、日帰り可能な範囲”に限定していただけませんか」
「……理由を伺っても?」
「対応効率です。物理的な移動に時間を取られるのが、どうしてももったいなくて」
「……なるほど。理屈としては筋が通っています。ただ──その条件ですと、時任さんが対応できる小型ゲートは“相当限定される”ことになりますが……?」
「承知しています」
僕は軽く頷き、すぐに次の案を続けた。
「それと、小型ゲートについてですが。今後は“8階層まで”一気に攻略するつもりです」
「……8階層まで、ですか?」
さすがに、柊さんの目が見開かれる。
今の段階で、政府が把握している中に“8階層クリア済みの小型ゲート”は日本に存在しないはずだ。
常識的に考えれば、到達が難しい領域だ。
「……時任さん。ここまでの実績を見る限り……あなたなら、可能なのだろうとは思います」
淡々とした、誇張のない言い回し。
過大評価でも、持ち上げでもない。
事実だけを見て出した判断。
その言い方に、逆に重みがあった。
「“できる”という前提で、話を進めてよろしいという理解で?」
「はい」
僕は短く返し、そのまま続けた。
「8階層まで攻略すれば、そのゲートは3月5日から換算で136日間、安全になります。およそ今から4ヶ月。そのぶん、ほかの現場に人員を回す余裕が生まれるはずです」
「報酬は3階層クリア時点の金額で構いません。見返りは求めません。ただし──」
ここで声を意図的に落とす。
「僕が8階層までクリアしたという事実は、他の帰還者には“絶対に知られたくない”。ですので、僕が担当する小型ゲートについては、他の帰還者の入場を制限していただきたいんです」
「理由は?」
「無駄な注目や比較、警戒心や対抗意識を生みたくないからです。目立てば、不要な軋轢も増える」
しばしの沈黙のあと、柊さんは静かに頷く。
「……合理的な懸念だと思います」
「もう一点あります」
僕は視線を逸らさず、言葉を重ねた。
「もし、その日に対応可能な小型ゲートが、さきほどお伝えしたエリア内に存在しなかった場合──その日は“新大阪ゲートの階層攻略”を、僕一人で進めさせてください」
「進める……というのは、どこまでを想定されていますか」
「どこまで行けるかは分かりません。ただ、到達階層については、必ず政府に報告します。そのうえで、ひとつ条件があります」
ここからは、交渉ではなく“線引き”だ。
「新大阪ゲートには、政府関係者を含めて“誰も入らせないでください”。これは絶対条件です。配信目的の無断侵入や、軍事利用として自衛隊員に1階だけ踏破させてスキルを取らせる──そうした“あらゆる試み”も禁止でお願いします」
「……絶対条件、ですか」
「もしひとりでも、無断でゲート内に踏み込んだ場合。その時点で、僕は一切の協力を打ち切ります。今後の小型ゲート対応も含めて、完全に手を引きます」
会議室の空気が、ぴんと張りつめる。
無茶な要求なのは分かっている。
それでも、譲れない一線というものはある。
数秒の沈黙の後、柊さんは静かに息を吐いた。
「……その件については、私の権限だけでは決められません。上長である九条に確認させてください」
「構いません」
「ただ、ひとつだけ、こちらからもお願いがあります」
書類を閉じ、柊さんは真っ直ぐこちらを見る。
「ゲート内の“階層リポップ周期”について、政府は一定の追跡手段を持っています。簡単に言えば、どこまで進んだかを間接的に把握する術がある、ということです」
「ですので、くれぐれも“虚偽の報告”だけは避けてください。いずれズレが露見したとき、信頼関係が壊れてしまいます」
(階層リポップ周期、か……。帰ったらコユキに確認しておくか)
「……分かりました。嘘で信用を失うのは本意ではありません。そのような真似はしません」
会話が一区切りつく。
僕は一度姿勢を整え、今日以降の動きだけ確認する。
「今日は、このあとゲートには入りません。明日以降は、回答内容を確認してから動きます」
「承知しました。本日はお越しいただき、ありがとうございます、時任さん」
「こちらこそ、ご丁寧にありがとうございました」
そう言って席を立ち、会議室の扉を開く。
柊さんへ軽く会釈を返し、静かに閉めた。
……その瞬間、背中にまとわりついていた緊張が、すっとほどけていくのを感じた。
(交渉には慣れているつもりでも──“仕掛ける側”に立つと、やっぱり心拍は上がるな)
仕事でもそうだ。
戦略を切り出す時は、表面上は落ち着いて見せていても──内側では、案外ドキドキしている。
けれど、その緊張やプレッシャーに飲まれず、最後まで通しきる人間ほど、結局は出世していく。
何度も、それを目の前で見てきた。
だからこそ、緊張の全てが悪いわけではない。
今は、覚悟を決めて、次の段階に踏み出す前の、あの独特の静けさに近い。
(……スタンピードが、日本でも始まった)
外気に触れた瞬間、その実感がじわりと胸に降りてくる。
もう、元のフェーズには戻らない。
日本も、社会も、確実に変わっていく。




