032話『揺れる気配』
自宅の物置部屋のゲートを抜けると、景色は一転して──
いつもの訓練場となる新大阪ゲート94階。
いつもなら、僕が戻った気配を感じてすぐ、足音も軽くディアが迎えに来る。
……なのに、今日は。
空気が、やけに静かだった。
「……ディア?」
横にいるコユキが耳をぴくりと動かす。
「……いつもなら真っ先に来るんだけどな」
そう言いながら歩みを進めると──
ようやく、城内の廊下の陰からディアが姿を見せた。
しかしその表情には、いつもの柔らかい笑みがなかった。
「……おかえり、秀人」
声も小さい。
そして、僕の顔をまともに見ない。
「どうした?体調が悪いのか?」
「別に。そういうんじゃない。ただ……疲れてるだけ」
一拍置く。
呼吸がわずかに揺れていた。
「……一ノ瀬さんと話してる時のあなた、すごく楽しそうだった」
「え?」
「……無事でよかったわ。本当に」
(……ああ、これは)
若い頃から、恋人とのすれ違いも、結婚生活での微妙な沈黙も、離婚前後のくすぶる空気も、それなりに経験してきた。
だから分かる。
表面上は丁寧なのに、温度がほんの少し違う“あの感じ”。
気持ちの置き場が分からなくて、言葉だけが少しずれていくときの空気。
「なぁ、ディア。本当に大丈夫か?」
「大丈夫。訓練の準備してくる」
短く切るような言い方でそう告げると、ディアはくるりと踵を返し、足早に離れていった。
訓練用のモンスターが召喚される。
だが──いつもより、明らかに強い。
圧が強い。
殺気の密度も、動きの鋭さも、桁が違った。
「おい、ディア……これ──」
制止するより早く、モンスターが飛び込んできた。
ザシュッ。
右腕を鋭い爪が掠め、熱い痛みが走る。
「っ──!」
モンスターが消え、即座にディアが治癒魔法を発動してくれた。
傷口がふわりと光に包まれ、みるみるうちに塞がっていく。
温かいはずの魔力なのに、どこかぎこちない。
治癒が終わった瞬間──ディアの表情がわずかに歪んだ。
ほんの一瞬。
けれど、見逃せない。
焦り。迷い。後悔。
自分でも制御できなかった、そんな気配。
「……ごめん。加減……間違えた……」
小さく震えた声だけを残し、ディアは反射的に背を向けると、その場から逃げるように走り去った。
「ディア、待って!」
僕はすぐに追いかけた。
長い石造りの廊下の途中で、ようやく彼女の足が止まる。
背中だけがこちらに向いていて、肩がわずかに震えている。
しばらく、互いに言葉のない時間が続いた。
やがて──絞るような細い声が落ちてくる。
「……わかんないの。自分でも」
「何が?」
「秀人が……一ノ瀬さんと話してるの見てたら……胸の奥がムズムズして……苦しくなって……」
その横顔は、怒りでも嫉妬の露骨さでもない。
ただ、自分の感情に追いつけず戸惑っている少女のようだった。
「整理できなくて……気付いたら、強いモンスター呼んじゃって……本当に、ごめん……」
声は震えていた。
僕はひとつ深く息を吸い、静かに言う。
「……ディア」
呼びかけると、ディアの肩がわずかに揺れた。
「……なに?」
振り返ったその横顔は、不安と戸惑いを隠しきれていない。
「分からなくてもいいんだよ、──それは」
「え……?」
ゆっくりと、ディアの視線をこちらへ向ける。
僕は息をひとつ整えて言葉を続けた。
「はじめての気持ちって、最初はわからないと思う。そばにいたくなったり、誰かと話してるのを見ると妙に落ち着かなかったり……そういう“反応”が少しずつ積み重なって、やっと理解できるものだと思う」
ディアは瞬きも忘れたように聞いていた。
僕は続ける。
「今は、無理に理解しようとしなくていい。分からないままでもいい。その“分からない”ごと、僕はちゃんと受け止める」
そう言いながら──気づいていた。
こういう時、“気づかない鈍感主人公”ではないつもりだ。
42年生きてきて、いろんな関係のかたちも、終わり方も見てきた。
──これは、ただの気まぐれじゃない。
──まして同情でもない。
ディアは今、自分でも知らない気持ちに触れたところだ。
「……じゃあ。もう少しだけ……そばにいても、いい?」
ディアの細い指が、そっと僕の袖をつまむ。
その指先は、小さく、小さく震えていた。
「もちろん」
だから僕は、その震えを拒まない。
引き寄せもしない。
ただ──逃がさない距離で、静かに受け止めた。
城の一室。
ランタンの灯がゆらぎ、昼夜のないはずの階層に、静かな夜の気配が落ちていた。
僕はソファにもたれ、ディアは少し離れた場所で膝を抱えて座っている。
けれど──時折、ちらりとこちらを見る。
目が合うとすぐに逸らす。その小さな仕草に、いつもより色があった。
「……ねぇ」
ディアがぽつりと声を漏らす。
「気持ちを言葉にするのって、本当にむずかしい。でも……今、胸の奥が……やさしくて、あったかいの。今日みたいにうまくいかなかった日でも、あなたの隣にいると……変な話だけど、落ち着いて……安心する」
「うん」
「どうしてなのか、自分でもちゃんと分からないんだけど……」
ディアは胸に手を添え、そっと押さえる。
その表情は、まるで初めて触れる感情に戸惑う少女そのものだった。
僕は静かに笑う。
「理解は後からでいいよ。急ぐ必要はないから」
その言葉に、ディアは息を小さく吸って──どこか照れたように、僕の隣へ寄ってきた。
肩が触れ、体温が伝わる。
その一瞬、ディアの心臓の鼓動が、ほんのわずか早まった気がした。
「……もう少しだけ、そばにいても……いい?」
「もちろん」
そう答えると、ディアはそっと肩に頭を預けた。
まるで、それが当たり前のように。
ランタンの灯が、静かに揺れる。
影がふたりを覆い、部屋の空気が柔らかく沈む。
言葉はなくても、どちらも離れようとしない。
指先が触れそうで、触れない距離。
呼吸の温度だけが、ゆっくりと混ざっていく。
──やがて、ランタンの火がかすかに小さくなっていく頃。
ふたりは、まだ離れていなかった。
静けさの中で、時間がひとしずくずつ重なっていく。
部屋の灯りが落ちる直前──
ディアの指先が、そっと僕の服をつまんだ。
まるで「行かないで」と言うように。
そして、僕もまた、その手をそっと包んだ。




