表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
晩年こそ本番。42歳会社員、喋る猫と現代ダンジョン攻略──ここからが本番だ  作者: 七乃白 志優
第三章:交差する意志と揺らぐ心

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

32/78

032話『揺れる気配』

自宅の物置部屋のゲートを抜けると、景色は一転して──

いつもの訓練場となる新大阪ゲート94階。


いつもなら、僕が戻った気配を感じてすぐ、足音も軽くディアが迎えに来る。

……なのに、今日は。


空気が、やけに静かだった。


「……ディア?」


横にいるコユキが耳をぴくりと動かす。


「……いつもなら真っ先に来るんだけどな」


そう言いながら歩みを進めると──

ようやく、城内の廊下の陰からディアが姿を見せた。


しかしその表情には、いつもの柔らかい笑みがなかった。


「……おかえり、秀人」


声も小さい。

そして、僕の顔をまともに見ない。


「どうした?体調が悪いのか?」


「別に。そういうんじゃない。ただ……疲れてるだけ」


一拍置く。

呼吸がわずかに揺れていた。


「……一ノ瀬さんと話してる時のあなた、すごく楽しそうだった」


「え?」


「……無事でよかったわ。本当に」


(……ああ、これは)


若い頃から、恋人とのすれ違いも、結婚生活での微妙な沈黙も、離婚前後のくすぶる空気も、それなりに経験してきた。


だから分かる。

表面上は丁寧なのに、温度がほんの少し違う“あの感じ”。

気持ちの置き場が分からなくて、言葉だけが少しずれていくときの空気。


「なぁ、ディア。本当に大丈夫か?」


「大丈夫。訓練の準備してくる」


短く切るような言い方でそう告げると、ディアはくるりと踵を返し、足早に離れていった。


訓練用のモンスターが召喚される。


だが──いつもより、明らかに強い。

圧が強い。

殺気の密度も、動きの鋭さも、桁が違った。


「おい、ディア……これ──」


制止するより早く、モンスターが飛び込んできた。


ザシュッ。


右腕を鋭い爪が掠め、熱い痛みが走る。


「っ──!」


モンスターが消え、即座にディアが治癒魔法を発動してくれた。

傷口がふわりと光に包まれ、みるみるうちに塞がっていく。


温かいはずの魔力なのに、どこかぎこちない。


治癒が終わった瞬間──ディアの表情がわずかに歪んだ。


ほんの一瞬。

けれど、見逃せない。


焦り。迷い。後悔。

自分でも制御できなかった、そんな気配。


「……ごめん。加減……間違えた……」


小さく震えた声だけを残し、ディアは反射的に背を向けると、その場から逃げるように走り去った。


「ディア、待って!」


僕はすぐに追いかけた。


長い石造りの廊下の途中で、ようやく彼女の足が止まる。

背中だけがこちらに向いていて、肩がわずかに震えている。


しばらく、互いに言葉のない時間が続いた。


やがて──絞るような細い声が落ちてくる。


「……わかんないの。自分でも」


「何が?」


「秀人が……一ノ瀬さんと話してるの見てたら……胸の奥がムズムズして……苦しくなって……」


その横顔は、怒りでも嫉妬の露骨さでもない。

ただ、自分の感情に追いつけず戸惑っている少女のようだった。


「整理できなくて……気付いたら、強いモンスター呼んじゃって……本当に、ごめん……」


声は震えていた。


僕はひとつ深く息を吸い、静かに言う。


「……ディア」


呼びかけると、ディアの肩がわずかに揺れた。


「……なに?」


振り返ったその横顔は、不安と戸惑いを隠しきれていない。


「分からなくてもいいんだよ、──それは」


「え……?」


ゆっくりと、ディアの視線をこちらへ向ける。


僕は息をひとつ整えて言葉を続けた。


「はじめての気持ちって、最初はわからないと思う。そばにいたくなったり、誰かと話してるのを見ると妙に落ち着かなかったり……そういう“反応”が少しずつ積み重なって、やっと理解できるものだと思う」


ディアは瞬きも忘れたように聞いていた。


僕は続ける。


「今は、無理に理解しようとしなくていい。分からないままでもいい。その“分からない”ごと、僕はちゃんと受け止める」


そう言いながら──気づいていた。

こういう時、“気づかない鈍感主人公”ではないつもりだ。


42年生きてきて、いろんな関係のかたちも、終わり方も見てきた。


──これは、ただの気まぐれじゃない。

──まして同情でもない。


ディアは今、自分でも知らない気持ちに触れたところだ。


「……じゃあ。もう少しだけ……そばにいても、いい?」


ディアの細い指が、そっと僕の袖をつまむ。

その指先は、小さく、小さく震えていた。


「もちろん」


だから僕は、その震えを拒まない。

引き寄せもしない。

ただ──逃がさない距離で、静かに受け止めた。


城の一室。

ランタンの灯がゆらぎ、昼夜のないはずの階層に、静かな夜の気配が落ちていた。


僕はソファにもたれ、ディアは少し離れた場所で膝を抱えて座っている。


けれど──時折、ちらりとこちらを見る。

目が合うとすぐに逸らす。その小さな仕草に、いつもより色があった。


「……ねぇ」


ディアがぽつりと声を漏らす。


「気持ちを言葉にするのって、本当にむずかしい。でも……今、胸の奥が……やさしくて、あったかいの。今日みたいにうまくいかなかった日でも、あなたの隣にいると……変な話だけど、落ち着いて……安心する」


「うん」


「どうしてなのか、自分でもちゃんと分からないんだけど……」


ディアは胸に手を添え、そっと押さえる。

その表情は、まるで初めて触れる感情に戸惑う少女そのものだった。


僕は静かに笑う。


「理解は後からでいいよ。急ぐ必要はないから」


その言葉に、ディアは息を小さく吸って──どこか照れたように、僕の隣へ寄ってきた。


肩が触れ、体温が伝わる。

その一瞬、ディアの心臓の鼓動が、ほんのわずか早まった気がした。


「……もう少しだけ、そばにいても……いい?」


「もちろん」


そう答えると、ディアはそっと肩に頭を預けた。

まるで、それが当たり前のように。


ランタンの灯が、静かに揺れる。

影がふたりを覆い、部屋の空気が柔らかく沈む。


言葉はなくても、どちらも離れようとしない。

指先が触れそうで、触れない距離。

呼吸の温度だけが、ゆっくりと混ざっていく。


──やがて、ランタンの火がかすかに小さくなっていく頃。


ふたりは、まだ離れていなかった。


静けさの中で、時間がひとしずくずつ重なっていく。


部屋の灯りが落ちる直前──


ディアの指先が、そっと僕の服をつまんだ。

まるで「行かないで」と言うように。


そして、僕もまた、その手をそっと包んだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ