031話『淡く灯る、その距離で』
病院の廊下は、夜の空気をそのまま閉じ込めたように静かだった。
三階層の救出劇から、まだ一時間ほどしか経っていない。
僕は個室の前の長椅子に座り、薄いガラス越しに眠る二人を見ていた。
ベッドの上、一ノ瀬は点滴につながれ、呼吸は浅いが整っていた。
そしてその隣では、リィナが疲れを抱えたまま、小さく寝息を立てている。
──助けられて、本当に良かった。
あの紫の魔弾が脳裏をよぎるたび、喉がひりつく。
一撃でも遅れていたら、どちらも今ここにはいなかった。
スマホが震えた。九条さんからだ。
【柊がそちらに向かっている。22時前後に到着予定】
僕はすぐ返信する。
【承知しました。病室で待機しておきます】
壁の時計は20時半を指していた。
救急搬送の時点では全身が緊張していたのに、今は現実に追いつくように疲労が押し寄せてくる。
長椅子に体を預け、影に丸まるコユキへ念話を送る。
『……静かだな』
『うん。いい静けさだと思うよ。二人とも、生きてる』
『ああ。ギリギリだったけどな』
影の中の小さな白猫は、いつもの調子で落ち着いた声を返した。
その穏やかさが救いになっていた。
ブレスレットが淡く光り、ミニチュアのディアが現れる。
「ねぇ秀人。あんたはまた戦う。ゲートがあれば飛び込む。でも……その先に、何を望んでるの?」
「……何を、か」
僕はしばらく黙った。
目的?
使命?
そんな格好いいものはない。
だからこそ、嘘をつかずに言った。
「まだ先なんて見えてない。ただ──今が楽しいんだ。」
ディアが無言になる。
だけど否定ではない。
むしろ、続きを促す沈黙だった。
「退屈な毎日から抜けてさ。毎日が想像つかなくて、次の展開が読めなくて……それが、すごく心地いい。だから戦ってるだけだよ。ワクワクが続くなら、それで十分だ。」
飾り気のない本音。
「……ふふ」
かすかな笑いが漏れた。
冷たくも艶のある声に、ほんの少しだけ柔らかさが混じっている。
「そういう答え、嫌いじゃないわ。目的も野望もないのに、迷わず前へ進むのって……案外いちばんタチが悪いんだから」
声音は呆れているようで、でもどこか楽しそうだった。
「あんたがどこまで行くのか……ちょっと楽しみになってきた」
それ以上何も言わず、光の粒になってブレスレットへ戻っていった。
ディアの興味の矛先は──使命ではなく“秀人という存在そのもの“へ向いていた。
22時前。
静かにノックが響き、扉が開いた。
入ってきたのは柊さんだった。
いつもよりややラフなジャケット姿。
だが、その眼差しは変わらず冷静だった。
「時任さん、お疲れさまです」
「来ていただいて助かります。正直……僕もそろそろ限界でした」
少し苦笑気味に立ち上がり、病室の状況を簡潔に報告する。
「お二人とも容体は安定しています。ただ、すぐに動ける状態ではありません」
柊さんはすぐに頷き、落ち着いた声で答えた。
「承知しました。こちらで監視と調整を引き継ぎます」
「ありがとうございます。僕は、このあと近くのホテルで休もうと思います。……正直、ここで倒れられる状況でもないので」
「当然です。今日の件は相当に負担が大きかったはずです。どうかゆっくり休んでください」
丁寧な一礼を向ける柊に、僕も軽く頭を下げる。
「では、よろしくお願いします」
そう言って病室を後にした。
ホテルの部屋へ戻り、靴を脱いだ瞬間──そのままベッドに沈み込んだ。
……助かった。
声にならない言葉が、胸の奥でようやくほどけていく。
張り詰めていた何かが、じわりと緩んでいった。
だが、その直後にふっと思考がよぎる。
(……まだ、2週間と少ししか経ってないんだよな)
ゲートが出現して、わずか16日。
それなのに、もう一ヶ月分、いや二ヶ月分くらいの密度で“変化”が雪崩れ込んできている。
スキルを覚え、契約して、レベルが上がり、戦い、守り、また戦って──気づけば、ずっと全力で走り続けている感覚だった。
(……なんとなく、ゲームの“序盤ブースト”に似てるな)
スマホゲームを始めたばかりの頃。
課金で一気に強くなって、敵もサクサク倒せて、進むたびに気持ちよかった。
──でも慣れたら、一気に飽きた。
(ディアには“今が楽しい”なんて言ったけど……この毎日も、そのうち“退屈”に変わるんだろうか)
答えは出ないまま、視界が静かに落ちていく。
そのまま、深い眠りへ沈んでいった。
*
翌朝。
僕は7時すぎに病室へ戻った。
柊さんはすでに来ていて、壁際でタブレットに目を通していた。
顔つきは疲れているはずなのに、姿勢は崩れていない。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
「……はい。思っていたよりは休めました」
僕が答えると、柊さんは落ち着いた表情で軽く頷いた。
ベッドでは一ノ瀬もリィナも、まだ静かに眠っている。
「……お二人とも、一度も意識を?」
「はい。医師によれば、本日中には目覚める可能性が高いとのことです」
そこで柊さんの視線が僕へ向く。
「昨日の現場について、差し支えない範囲で構いません。状況を教えていただけますか?」
「承知しました。僕が把握できた内容のみですが……」
僕は必要な部分だけを順序立てて説明する。
「到着時、一ノ瀬さんはリィナを庇う形でいました。おそらく意識はわずかにあったようですが、戦闘継続はほぼ不可能な状態でした」
柊さんの表情がほんの少しだけ沈む。
「敵の種類は?」
「シャーマン風のゴブリンが一体。それと──小型ゲートでは想定外の強さを持つデビル型のモンスターがいました」
「……想定外の強さを持つデビル、ですか」
「おそらく、あのゴブリンに“召喚系スキル”があったのだと思います。ダンジョン内のモンスターをランダムに呼び寄せるタイプで……今回は最悪の個体を引いた可能性があります」
本当は──これは昨夜、コユキから教えてもらった推測だ。
僕自身も、分析として腑に落ちた。
柊さんはしばらく沈黙し、それからゆっくり頷いた。
「詳細は、一ノ瀬さんが目覚め次第、改めて確認いたします」
その言葉が終わるのと同時に、ベッドのシーツがわずかに揺れた。
一ノ瀬透花が、ゆっくりとまぶたを開く。
柊さんが声をかける前に、
「……おはようございます」
かすれた声が、静かな病室に落ちた。
「ご気分はいかがですか?」と柊さんが問う。
「……水を……少しだけ」
柊さんはすぐに介助し、彼女の喉に無理のないよう少量を含ませる。
僕は一ノ瀬さんの横へ立ち、静かに声をかけた。
「目を覚まされて安心しました」
彼女は僕の方へ視線を向け──ほんの一瞬、まつげが揺れた。
「……本当に、助けていただき……ありがとうございました」
「間に合って良かったです」
彼女はしばらく僕を見つめ、ためらいがちに──けれど、どこか迷いを含んだ息を吐いた。
「……あらためて……ありがとうございました」
その頬が、ほんのわずかに赤く染まった。
その瞬間、ブレスレットがかすかに熱を帯びる。
気のせいかもしれない。
でも、チリッと小さく火花が走ったような気配だった。
*
それから少しして、リィナも目を覚ました。
「……ん……あれ……?」
焦点を探すように視線が揺れ、すぐに大きく見開かれる。
「……わたし……生きて……?」
一ノ瀬が微笑んだ。
「ええ。あなたを庇って、私も倒れて……でも、助けてくださった方がいたの」
一ノ瀬の言葉に、リィナの視線が僕へ向く。
「……時任さん……?」
焦点が合った瞬間、リィナの目が大きく開く。
「もしかして……助けて、くださったんですか……?」
「はい。間に合ってよかったです」
誤魔化さず、しかし必要以上に大げさにもしない。
淡々と事実だけを返す。
リィナはその言葉を聞いて、胸に手を当て、ほっと息を落とした。
「……ありがとうございます……」
そして僕は立ち上がった。
「では、僕はこれで。今後の対応は柊さんが行ってくれますので、ご安心ください」
出口へ向かいかけたとき──
「……時任さん」
一ノ瀬さんの声が僕を呼び止める。
振り返ると、彼女はベッドの上でまっすぐこちらを見ていた。
「……本当に、ありがとうございました。このご恩は、必ずお返しします」
「……お気持ちだけで十分です。どうか今日は休んでください」
軽く会釈し、病室を後にした。
病院を出ると、日の光が少しだけ眩しく感じた。
最寄り駅のベンチに腰を下ろし、電車を待っていると、足元の影がわずかに揺れた。
コユキが、そっと声をかけてくる。
『……二人とも、助かってよかったね。本当に、あと一歩だった』
『ああ。本当に、間に合ってよかったよ』
コユキの声には、安堵と少しの誇らしさが混じっていた。
だが──ブレスレットの中のディアは、静かなままだ。
『……ディア? 聞こえてる?』
念話を送っても、返答はない。
『……もしかして、寝ちゃってるのかな……?』
コユキが小さくつぶやく。
けれど──胸の奥に、針の先みたいな違和感が残ったままだ。
(……ディアが“無言”って、珍しいよな)
普段、仕事で遅刻も欠勤もない社員が、連絡もなく突然姿を見せない──ただそれだけで、不安がじわりと広がる。
“いつも通り”が崩れたとき、人は何かを察してしまう。
ディアの沈黙にも、どこか同じ空気を感じていた。
もっとも、返事をくれるならそれでいい。
話せるなら、ちゃんと向き合うべきだ。
ちょうどその時、電車がホームに滑り込み、春の風が足元をふっと揺らした。
(……帰ったら、ちゃんと話そう)
僕は小さく息をつき、電車へと足を踏み入れた。




