003話『影を駆ける敵、刻まれるスキル』
砕けたタイルを踏みしめるたび、靴底が小さく鳴る。
薄暗く崩れた通路の奥。湿った風が、ゆるやかに吹き抜けていた。
「……少し、慣れてきたみたいね」
前を歩くコユキが、ちらりとこちらを見る。
その銀の瞳には、わずかな試す色があった。
「緊張が切れたわけじゃない。普通に歩こうと歩き方を変えただけだよ」
「ふふ、言葉の割に動きが落ち着いてるわ。最初より呼吸が整ってる」
「……たしかに、最初は無我夢中だったかもな」
言いながら自分でも驚いていた。
最初の戦闘の時のような恐怖は、もうなかった。
代わりにあるのは、どこかに満ちる“張り詰めた静けさ”。
緊張と静けさが、今は不思議と心地いい。
「ここ、さっきより空気が重い気がする」
「奥に行くほど魔素が濃くなるから。慣れないうちは、身体がだるく感じるのよ」
魔素。
この世界での酸素みたいなもの——そう彼女は言っていた。
空気が濃くなり、頭の芯がじんわりと痺れてくる。
異世界の“呼吸”に、少しずつ身体が順応していくのを感じた。
そのとき、コユキの耳がピクリと動く。
次の瞬間、彼女の声が低くなった。
「……来るわ。前とは違う気配」
壁の亀裂から、ぬるりと黒い粘液のようなものが這い出てくる。
スライム——だが、前に戦った個体とは違う。
その表面は光を吸い込み、まるで影が形を得たように揺らめいていた。
「……動きが違うな」
黒い塊は地面を滑るように進む。
次の瞬間、まるで影に溶けるように姿を消し、別の位置に現れた。
「今の見た?“跳んだ”んじゃない、“滑った”のよ」
コユキの声が鋭くなる。
「影を媒介に移動してる。……影移動ね」
「スキル……?」
「ええ。短距離を影ごと滑るスキル。なるほど、これなら——摂取対象としても面白い」
「……摂取?」
「説明してなかったわね」
コユキはわずかに顎を引き、視線をスライムから外さないまま言った。
「私の固有スキルは2つ。時間視界と、模写捕食。敵の身体の一部を取り込むことで、そのスキル構造を模写できるの。もちろん全部じゃないけど」
「……取り込むって、まさか……食べるのか?」
「噛むの。舐めるの。ちょっと“味見”すれば十分よ」
軽く言いながら、コユキのしっぽがふわりと揺れた。
僕は喉の奥がひやりとするのを感じながら、鉄パイプを握り直す。
スライムが再び影に沈み、音もなく滑るように迫ってくる。
「……来るよ!」
スライムがこちらに向けて滑るように突進してきた。
「避けて!」
叫ぶと同時に、僕は脇へ飛んだ。
背後を刃のような粘液がかすめる。ゾクリと背筋が冷える。
「いい反応ね、秀人」
スライムがこちらを威嚇し、再び影を這う。
その瞬間、コユキが跳ねた。
白銀の身体が空中を弧を描き、スライムの頭上から落ちる。
刹那、鋭く光る爪がスライムの表皮を切り裂いた。
「今!」
彼女の口元が一瞬、獣のそれに変わった気がした。
──ガブッ!
次の瞬間、スライムの身体の一部がコユキの口の中で光を放ち、霧のように溶けて消える。
「……模写、完了」
着地と同時に言い放つその声は、どこか興奮をはらんでいた。
「……終わった、のか?」
「ええ」
「ええ。スキルは奪えたわ。影移動――新しい手札ね」
彼女の尻尾がゆるく揺れた。
その仕草は、どこか満足げだった。
「そのスキル、僕にも共有できるのか?」
「慣れるまでは、練習が必要。影に入る感覚、タイミング、距離の制御。うまく扱えなければ、ただの暴走スキルよ」
「……了解。練習して何とかモノにする」
「その意気よ、マスター」
コユキの口元が、わずかに緩んだ。
厳しさの中に、嬉しさが滲む。
ふと気になって、僕は尋ねた。
「なあ、この階層にも“層主”ってやつがいるのか?」
「ええ。層主はこの階層の“核”みたいな存在。いない階もあるけど、第一層には必ずいるわ」
「そうなのか。……じゃあ、そろそろボスが出てきたりするのかな」
「もう少し奥みたい。ただ——油断しないで」
コユキが前を向いたまま、静かに言う。
その横顔が、わずかに真剣さを増していた。
歩きながら、ふと道中の話を思い出す。
「……ていうか、喋れるモンスターが普通じゃないって話、改めて思うけど、こうして色々聞けるの助かるな」
「ふふ、それくらい分かってるなら感謝しなさい。“言葉が通じる”モンスターなんて、そう多くないんだから」
「はいはい、ありがたく思っとくよ」
「その“軽い返事”がもう少し丁寧になれば、なお良しね」
「モンスターにマナー指導されるとは思わなかったよ」
「当然でしょ?私は格が違うの」
口調はいつものように少しツンと尖っている。
でも、その尻尾はどこか楽しげに揺れていた。
軽口を交わしながら、ふたりは再び歩き出す。
崩れた廊下に、鉄とコンクリートの残響が淡く響く。
廃墟の奥。
次の試練が、静かにその時を待っていた――。




