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晩年こそ本番。42歳会社員、喋る猫と現代ダンジョン攻略──ここからが本番だ  作者: 七乃白 志優
第三章:交差する意志と揺らぐ心

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021話『新大阪ゲート再侵入』

朝のホームに立った瞬間、違和感に気づいた。


人が、いない。


いつもなら波みたいに押し寄せてくるスーツの群れが、今日はまばらだ。

ちらほらと離れて立つ数人を横目に、僕は電車に乗り込んだ。


車内も、そのままの静けさだった。


「……ガラッガラだな。ありがたいけど」


つい小声で漏れる。


吊り革に手をかけながら車内を見渡すと、座席に数人、立っているのは僕と、離れた位置のサラリーマンが二人だけ。


(いや、これ本当に通勤時間か……?)


政府が「不要不急の外出は控えるように」と通達した影響は、想像以上だった。


新大阪のオフィスに着いても、状況は似たようなものだった。


フロアは照明こそ点いているが、人の気配が薄い。

デスクの島ごとに、ぽつりぽつりと数人が座っているだけだ。


その中で、いつも通りの時間に来ているサブマネージャーの姿を見つけて、僕は自然と頭を下げていた。


「いつも本当にありがとう。半休続きで、しわ寄せいってるよね」


「いえいえ。時任さん、ゲートの件でいろいろ大変なんですよね。午前中に段取りだけもらえれば、あとは私が回しますから」


明るく笑ってくれる部下。


(……こういう一言で、どれだけ救われるか)


仕事って、結局「この人のためなら頑張れるかどうか」の積み重ねだよな、とか、少しだけしみじみしながら席に戻る。


午前中は、そのまま全力で走った。


在宅ではやりにくい調整ごと、紙の書類が絡む処理、関係各所への根回しメール。

やるべきことをリストから一つずつ潰していく。


(よし、この状態なら午後は抜けても大丈夫だ)


そう判断がついたところで、定例の共有だけ済ませてオフィスを後にした。


今日も半休。

午後は——新大阪ゲートの再侵入だ。


ゲート近くに新設された「臨時新大阪ゲート管理施設」は、もともとの屋内通路をパーテーションで強引に区切って作っていた。

無骨な外観に、場違いなほど真新しい看板。


その前で、迷いようのない体格の男が直立不動で立っている。


「時任秀人さんですね」


自衛官らしい男が、きっちりした口調で声をかけてきた。


背筋は一直線、視線もブレない。


(この人、威圧感だけでモンスター一体くらい下がらせられるな……)


そんなことを思いながら、僕は指示に従って受付を済ませる。


「あの、スーツだと動きづらいので、着替えてもいいですか」


「はい。こちらの小部屋をお使いください」


案内された小さな更衣スペースで、僕はカジュアルスーツを脱ぎ、ジャージとスニーカーに着替えた。


もちろん、仕事用のリュックに入っていたわけでも、ロッカーがあるわけでもない。


——影の中に、ディアが隠してくれていた。


(こういう時のための 影収納(シャドウストック)、本当に便利だな)


袖を整え、ファスナーを上げる。

戦闘に出る、というより、部活の延長に行くような格好だ。

でも、そのくらい砕けた方が、僕としてはやりやすい。


ちょうど着替え終えた頃、ドアが軽くノックされた。


「時任さん。一ノ瀬さんがお見えです」


「はい、今行きます」


深呼吸を一つ挟んでから、待ち合わせ場所へ向かった。


そこには、昨日と同じ、あの視線の鋭い女性——一ノ瀬透花が立っていた。

隣には、銀髪のエルフ、リィナ。


(……気のせいだろうけど、昨日よりわずかに表情が和らいで見えた)


そんな印象だけが、静かに胸の奥に残った。


「よろしくお願いします」


一ノ瀬さんが短く告げる。


「こちらこそ。今日はお世話になります」


僕も、必要十分な言葉だけ返す。


互いに最終的な装備を確認し、簡単なルールだけ事前に取り決める。


「……連携は、必要最小限で。お互い、干渉しすぎないようにしましょう」


「了解。そちらが動きやすい形でいいよ。危なそうなら、さすがに助け合うとして」


一ノ瀬さんは、こくりとだけ頷いた。


距離はある。けれど、昨日までの刺々しさは影をひそめ、代わりに冷静な警戒へと切り替わっている。

仕事で言うなら「利害は別でも、互いに歩幅を測れる相手」といった空気だ。


施設の奥、封鎖ラインの向こう側に、新大阪ゲートが口を開けている。


黒い光が、ゆっくりと脈打つように揺れ、その周囲だけ空気が重く沈んでいるようにも見えた。


僕は境界線の手前で一度立ち止まり、息を先に吐ききってから深く吸い込んだ。

深呼吸は「吸う→吐く」より、「吐ききる→勝手に吸える」のほうがうまくいく――

昔、ストレスマネジメントの研修で聞いた豆知識だ。


(余裕はある。でも――強がりに見えないくらいの“緊張”は演じておくべきだ)


一歩、足を踏み出した、その瞬間——


頭の奥に、文字情報が流れ込んできた。


【クリア済み階層:1〜2】

【スタート階層選択可能:1〜3】


(……なるほど。こういう出方か)


前回はステータスボードで見た情報が、今回は“脳内ポップアップ”みたいな形で表示されている。


「三階層から入る」


短く告げると、一ノ瀬さんもリィナも異論なく頷いた。

次の瞬間、視界がぐにゃりと歪む感覚に包まれ、足元の感触が変わる。


着地した瞬間、まず最初に感じたのは「重さ」だった。


湿った空気が肌にまとわりつき、靴底の下で地面がぬるりと沈む。


「……沼地か」


見渡す限りの泥と水たまり。ところどころに立ち枯れた木が突き出て、遠くでは靄が立ち上っている。


一歩踏み出すたびに、靴がズブズブと沈み、バランスを持っていかれそうになる。


(足場が悪い……けど、ここでいきなり軽々動いたら怪しまれるな)


そう思って、あえて少しよろける程度に抑えながら、足を運ぶ。


「っと……、想像以上に滑るな」


自分の実力を隠す、という妙なタスクが増えたせいで、戦闘以外のところでも頭を使う羽目になっている。


「出番だよ、コユキ」


足元の影が、静かに揺れる。


「——ふぁっ」


白銀のモフモフが、影からにゅるっと這い出てきた。三本の尻尾が、湿った空気を払うようにふわりと揺れる。


「初めまして、時任の相棒、コユキです。よろしくどうぞ」


白銀の猫が当然のように挨拶した瞬間――

一ノ瀬さんが、小さく目を丸くした。


リィナは、同じ“契約モンスターを持つ者”として何か感じ取ったのか、静かに微笑んでいた。


「コユキの存在は、ご存知の通り政府側にはまだ話していません。……このまま、内緒にしておいてもらえると助かります」


僕は正面から、一ノ瀬さんにそう伝えた。


しばらく沈黙。視線が、僕とコユキの間を往復する。


「……承知しました」


短く、それだけ。

信用してくれた、というより、「今は飲み込んでおく」と決めた、そんな返事だ。


それで十分だ。


その時——

泥を蹴り上げる音と共に、視界の端で影が跳ねた。


「来る」


一ノ瀬さんが即座に短剣を構える。


ぬかるみをものともせず、黒い塊が弾丸みたいな速度で間合いを詰めてくる。

筋肉の詰まった体躯、光る眼——


「マッドジャガー」


コユキが、耳をぴんと立てながら呟く。


悪路でもスピードを落とさない突撃型。

真正面から受ければ、そのまま飲み込まれるタイプだ。


五感が、自然と戦闘モードに切り替わる。


音。泥の跳ね方。筋肉の収縮。

ジャガーの重心が、どのタイミングで前に乗るか——


重心が、前に落ちる。


(……来た)


僕はバットを握り直す。

影に逃げれば簡単にやり過ごせる――けれど、スキルは隠しておきたい。

今日は、あくまで「一般的な帰還者」レベルの動きに収めなければならない。


突進の速度が、読んでいたよりも――いや、読んでいたのに、あえて半拍ほど遅れて動いた。

演技としての“遅れ”に、体がわずかに反応する。


左足が泥に沈み、バランスが一瞬だけ崩れる。

その“崩れ”を利用して、わざと横に転がるように身を逸らした。


かすめる風圧。耳鳴り。

あと20センチ深く踏み込んでいたら、吹き飛ばされていた。


(……危なっ)


胸の奥が、ほんの少しだけ熱くなる。


ジャガーが振り返るより早く、僕は泥の斜面を蹴り上げた。

体勢は完全ではない。むしろ不完全さを残したまま――


短く、鋭く、バットを横薙ぎにする。


衝撃は、骨をなぞるように返ってきた。

決定打にはしない。動きを止めるだけの力。


ジャガーは泥ごと滑るように吹き飛び、足を取られて横転した。


(これくらいなら“偶然の一撃”に見える)


息がゆっくり戻る。

少し荒い呼吸も、わざとそのまま残した。


そこに被せるように、コユキがマッドジャガーに飛びつき、コアにあたる部分へ牙を立てる。


低く、小さな声。


「……いただくわ」


パクリ、と音もしない“触れ方”。

獲物の首元――外から見ればただの止めの一撃。


コユキが泥を払うように前足を振りながら、何もなかった顔で戻ってきた。


そのタイミングで、念話が落ちてくる。


『……スキル、ひとつ手に入ったわ。地形適応(グラウンドアジャスト)。悪路での機動力補正。あなたにも共有されるから、足元の重さはすぐに消えるはず』


(助かる。沼地での“演技”は足がとられて難しかった)


「ふーん」


一ノ瀬さんが、小さくそんな声を漏らした。

評価とも、疑いともつかないトーン。


沼地を進むうちに、じわじわとスキル効果を実感することになった。


足場の悪い場所でも、踏み込んだ足がぶれない。

地面の状態を、無意識に計算し直しているような感覚だ。


一方で、一ノ瀬さんとリィナも、何かしらのスキルで普通にこなしているように見える。


スライム、沼ワニといった中小のモンスターが何度か襲ってきたが、その都度、「やや苦戦している風」を装いながら処理していく。


ギリギリまで引きつける。

避けるタイミングを、ほんの半拍だけ遅らせる。

わざと息を少し乱してみる。


(変なところで役立つな、長年の“社会人芝居”スキル……)


そんなこんなで、気づけば三階層の終端にたどり着いていた。


「……あれ?」


一ノ瀬さんが足を止める。


ボス部屋があるかと思っていた先には、広いだけの空間と、その奥に黒いゲート、そして光る転送陣だけがぽつんと待っていた。


(ボス、いないパターンか)


肩の力が、少しだけ抜ける。


「——進みましょう」


一ノ瀬さんが短く告げ、僕たちは転送陣へと足を踏み入れた。


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