021話『新大阪ゲート再侵入』
朝のホームに立った瞬間、違和感に気づいた。
人が、いない。
いつもなら波みたいに押し寄せてくるスーツの群れが、今日はまばらだ。
ちらほらと離れて立つ数人を横目に、僕は電車に乗り込んだ。
車内も、そのままの静けさだった。
「……ガラッガラだな。ありがたいけど」
つい小声で漏れる。
吊り革に手をかけながら車内を見渡すと、座席に数人、立っているのは僕と、離れた位置のサラリーマンが二人だけ。
(いや、これ本当に通勤時間か……?)
政府が「不要不急の外出は控えるように」と通達した影響は、想像以上だった。
新大阪のオフィスに着いても、状況は似たようなものだった。
フロアは照明こそ点いているが、人の気配が薄い。
デスクの島ごとに、ぽつりぽつりと数人が座っているだけだ。
その中で、いつも通りの時間に来ているサブマネージャーの姿を見つけて、僕は自然と頭を下げていた。
「いつも本当にありがとう。半休続きで、しわ寄せいってるよね」
「いえいえ。時任さん、ゲートの件でいろいろ大変なんですよね。午前中に段取りだけもらえれば、あとは私が回しますから」
明るく笑ってくれる部下。
(……こういう一言で、どれだけ救われるか)
仕事って、結局「この人のためなら頑張れるかどうか」の積み重ねだよな、とか、少しだけしみじみしながら席に戻る。
午前中は、そのまま全力で走った。
在宅ではやりにくい調整ごと、紙の書類が絡む処理、関係各所への根回しメール。
やるべきことをリストから一つずつ潰していく。
(よし、この状態なら午後は抜けても大丈夫だ)
そう判断がついたところで、定例の共有だけ済ませてオフィスを後にした。
今日も半休。
午後は——新大阪ゲートの再侵入だ。
ゲート近くに新設された「臨時新大阪ゲート管理施設」は、もともとの屋内通路をパーテーションで強引に区切って作っていた。
無骨な外観に、場違いなほど真新しい看板。
その前で、迷いようのない体格の男が直立不動で立っている。
「時任秀人さんですね」
自衛官らしい男が、きっちりした口調で声をかけてきた。
背筋は一直線、視線もブレない。
(この人、威圧感だけでモンスター一体くらい下がらせられるな……)
そんなことを思いながら、僕は指示に従って受付を済ませる。
「あの、スーツだと動きづらいので、着替えてもいいですか」
「はい。こちらの小部屋をお使いください」
案内された小さな更衣スペースで、僕はカジュアルスーツを脱ぎ、ジャージとスニーカーに着替えた。
もちろん、仕事用のリュックに入っていたわけでも、ロッカーがあるわけでもない。
——影の中に、ディアが隠してくれていた。
(こういう時のための 影収納、本当に便利だな)
袖を整え、ファスナーを上げる。
戦闘に出る、というより、部活の延長に行くような格好だ。
でも、そのくらい砕けた方が、僕としてはやりやすい。
ちょうど着替え終えた頃、ドアが軽くノックされた。
「時任さん。一ノ瀬さんがお見えです」
「はい、今行きます」
深呼吸を一つ挟んでから、待ち合わせ場所へ向かった。
そこには、昨日と同じ、あの視線の鋭い女性——一ノ瀬透花が立っていた。
隣には、銀髪のエルフ、リィナ。
(……気のせいだろうけど、昨日よりわずかに表情が和らいで見えた)
そんな印象だけが、静かに胸の奥に残った。
「よろしくお願いします」
一ノ瀬さんが短く告げる。
「こちらこそ。今日はお世話になります」
僕も、必要十分な言葉だけ返す。
互いに最終的な装備を確認し、簡単なルールだけ事前に取り決める。
「……連携は、必要最小限で。お互い、干渉しすぎないようにしましょう」
「了解。そちらが動きやすい形でいいよ。危なそうなら、さすがに助け合うとして」
一ノ瀬さんは、こくりとだけ頷いた。
距離はある。けれど、昨日までの刺々しさは影をひそめ、代わりに冷静な警戒へと切り替わっている。
仕事で言うなら「利害は別でも、互いに歩幅を測れる相手」といった空気だ。
施設の奥、封鎖ラインの向こう側に、新大阪ゲートが口を開けている。
黒い光が、ゆっくりと脈打つように揺れ、その周囲だけ空気が重く沈んでいるようにも見えた。
僕は境界線の手前で一度立ち止まり、息を先に吐ききってから深く吸い込んだ。
深呼吸は「吸う→吐く」より、「吐ききる→勝手に吸える」のほうがうまくいく――
昔、ストレスマネジメントの研修で聞いた豆知識だ。
(余裕はある。でも――強がりに見えないくらいの“緊張”は演じておくべきだ)
一歩、足を踏み出した、その瞬間——
頭の奥に、文字情報が流れ込んできた。
【クリア済み階層:1〜2】
【スタート階層選択可能:1〜3】
(……なるほど。こういう出方か)
前回はステータスボードで見た情報が、今回は“脳内ポップアップ”みたいな形で表示されている。
「三階層から入る」
短く告げると、一ノ瀬さんもリィナも異論なく頷いた。
次の瞬間、視界がぐにゃりと歪む感覚に包まれ、足元の感触が変わる。
着地した瞬間、まず最初に感じたのは「重さ」だった。
湿った空気が肌にまとわりつき、靴底の下で地面がぬるりと沈む。
「……沼地か」
見渡す限りの泥と水たまり。ところどころに立ち枯れた木が突き出て、遠くでは靄が立ち上っている。
一歩踏み出すたびに、靴がズブズブと沈み、バランスを持っていかれそうになる。
(足場が悪い……けど、ここでいきなり軽々動いたら怪しまれるな)
そう思って、あえて少しよろける程度に抑えながら、足を運ぶ。
「っと……、想像以上に滑るな」
自分の実力を隠す、という妙なタスクが増えたせいで、戦闘以外のところでも頭を使う羽目になっている。
「出番だよ、コユキ」
足元の影が、静かに揺れる。
「——ふぁっ」
白銀のモフモフが、影からにゅるっと這い出てきた。三本の尻尾が、湿った空気を払うようにふわりと揺れる。
「初めまして、時任の相棒、コユキです。よろしくどうぞ」
白銀の猫が当然のように挨拶した瞬間――
一ノ瀬さんが、小さく目を丸くした。
リィナは、同じ“契約モンスターを持つ者”として何か感じ取ったのか、静かに微笑んでいた。
「コユキの存在は、ご存知の通り政府側にはまだ話していません。……このまま、内緒にしておいてもらえると助かります」
僕は正面から、一ノ瀬さんにそう伝えた。
しばらく沈黙。視線が、僕とコユキの間を往復する。
「……承知しました」
短く、それだけ。
信用してくれた、というより、「今は飲み込んでおく」と決めた、そんな返事だ。
それで十分だ。
その時——
泥を蹴り上げる音と共に、視界の端で影が跳ねた。
「来る」
一ノ瀬さんが即座に短剣を構える。
ぬかるみをものともせず、黒い塊が弾丸みたいな速度で間合いを詰めてくる。
筋肉の詰まった体躯、光る眼——
「マッドジャガー」
コユキが、耳をぴんと立てながら呟く。
悪路でもスピードを落とさない突撃型。
真正面から受ければ、そのまま飲み込まれるタイプだ。
五感が、自然と戦闘モードに切り替わる。
音。泥の跳ね方。筋肉の収縮。
ジャガーの重心が、どのタイミングで前に乗るか——
重心が、前に落ちる。
(……来た)
僕はバットを握り直す。
影に逃げれば簡単にやり過ごせる――けれど、スキルは隠しておきたい。
今日は、あくまで「一般的な帰還者」レベルの動きに収めなければならない。
突進の速度が、読んでいたよりも――いや、読んでいたのに、あえて半拍ほど遅れて動いた。
演技としての“遅れ”に、体がわずかに反応する。
左足が泥に沈み、バランスが一瞬だけ崩れる。
その“崩れ”を利用して、わざと横に転がるように身を逸らした。
かすめる風圧。耳鳴り。
あと20センチ深く踏み込んでいたら、吹き飛ばされていた。
(……危なっ)
胸の奥が、ほんの少しだけ熱くなる。
ジャガーが振り返るより早く、僕は泥の斜面を蹴り上げた。
体勢は完全ではない。むしろ不完全さを残したまま――
短く、鋭く、バットを横薙ぎにする。
衝撃は、骨をなぞるように返ってきた。
決定打にはしない。動きを止めるだけの力。
ジャガーは泥ごと滑るように吹き飛び、足を取られて横転した。
(これくらいなら“偶然の一撃”に見える)
息がゆっくり戻る。
少し荒い呼吸も、わざとそのまま残した。
そこに被せるように、コユキがマッドジャガーに飛びつき、コアにあたる部分へ牙を立てる。
低く、小さな声。
「……いただくわ」
パクリ、と音もしない“触れ方”。
獲物の首元――外から見ればただの止めの一撃。
コユキが泥を払うように前足を振りながら、何もなかった顔で戻ってきた。
そのタイミングで、念話が落ちてくる。
『……スキル、ひとつ手に入ったわ。地形適応。悪路での機動力補正。あなたにも共有されるから、足元の重さはすぐに消えるはず』
(助かる。沼地での“演技”は足がとられて難しかった)
「ふーん」
一ノ瀬さんが、小さくそんな声を漏らした。
評価とも、疑いともつかないトーン。
沼地を進むうちに、じわじわとスキル効果を実感することになった。
足場の悪い場所でも、踏み込んだ足がぶれない。
地面の状態を、無意識に計算し直しているような感覚だ。
一方で、一ノ瀬さんとリィナも、何かしらのスキルで普通にこなしているように見える。
スライム、沼ワニといった中小のモンスターが何度か襲ってきたが、その都度、「やや苦戦している風」を装いながら処理していく。
ギリギリまで引きつける。
避けるタイミングを、ほんの半拍だけ遅らせる。
わざと息を少し乱してみる。
(変なところで役立つな、長年の“社会人芝居”スキル……)
そんなこんなで、気づけば三階層の終端にたどり着いていた。
「……あれ?」
一ノ瀬さんが足を止める。
ボス部屋があるかと思っていた先には、広いだけの空間と、その奥に黒いゲート、そして光る転送陣だけがぽつんと待っていた。
(ボス、いないパターンか)
肩の力が、少しだけ抜ける。
「——進みましょう」
一ノ瀬さんが短く告げ、僕たちは転送陣へと足を踏み入れた。




