013話『赤のゲート、再起動』
夜。
夕食を済ませたあと、僕はリビングのソファで目を閉じていた。
温め直したコーヒーみたいに、ようやく体が落ち着いてきた。
ちょうどいい温度の夜だ。
隣のクッションでは、コユキが香箱座りで小さく丸くなる。
白い毛並みが照明を柔らかく返して、視界の角が丸くなる感じがした。
「猫って、いいな」
思わず、独り言が漏れた。
「……なあ、少しだけ撫でてもいいか」
「撫でる“だけ”よ? 毛並みが乱れるのは嫌だから」
「了解。指先で一往復」
指の腹でそっと額に触れる。髪より細い繊維が、体温を帯びて指へ戻ってくる。
それだけで呼吸が深くなった。
——そのとき、視界の端に、色の違う空気が混じった。
廊下の突き当たり。二階の物置部屋のドアの隙間から、ほのかに赤が滲んでいる。
「コユキ。あの部屋……明かり、つけた記憶はない」
「私は行ってないわ。物置でしょ?」
胸の中で、心拍が一段だけ高く跳ねた。
僕は立ち上がり、階段を上る。足音が、壁に吸い込まれていく。
——まさか。
ドアノブに触れ、ゆっくり押す。
赤黒い光が、呼吸するみたいに部屋の壁を染め、中心に穴のような歪みを作っていた。
「ゲート……? いや、色が違う」
新大阪で見た“黒”ではない。
赤黒い光の層が複層に重なって、心拍と反対のリズムでゆらぐ。
「間違いないわね。サブゲートよ」
コユキが、当然のように断言する。
「大型ダンジョン——新大阪みたいな“黒いゲート”が本体。これはその“裏口”。どこかの階層に直通しているタイプ」
「入口が家に……理由は?」
「“導かれた者”であるあなたに反応した可能性が高いわ。座標というより、人に紐づく“経路”ね」
決定的な言い方だった。
こういうとき、彼女の確信は当たる。僕は深く息を吸い込む。
「今すぐ、はやめておく。準備をして、明日入る」
「賛成。段取り八割ね」
「……それを言うか」
仕事でもよく聞く。八割は準備で決まり、残りの二割が実行。
それを猫に言われるとは思わなかった。
コユキの一言は、まるで経験豊富なマネージャーのようで、少しだけ笑ってしまった。
日付が変わる前、僕はスマートスピーカーに声を投げる。
「申請チャットに送って。——明日火曜は、急用で休みます」
現実に一本、手を通してから非現実に触れる。
それが、社会人としての安全装備だ。
*
翌朝。
玄関に荷物を並べ、内容を最終確認する。
金属バット。非常食と水。替えのシャツ。簡易包帯。携帯ライト。スマホ。
前回、十時間近く口にできなかった空腹の記憶は、もう教訓に変わっている。
「バットって、野球でも始めるの?」
「鉄パイプの実績がある。運用実績は信用できる」
「ふふ、言い方が完全に会社員」
コユキが小さく笑って、尾をひと振りした。
階段を上がる。二階の物置部屋に漂う赤黒い光は、まだそこにあった。
光の波が壁紙の模様を撫で、部屋の空気だけ温度が違う。
「行く」
頷きを交わし、僕たちは渦へ踏み込む。
空間がねじれ、耳鳴りが一瞬だけ高くなる。
足裏に固い地面の反発が戻ると、暗い空が頭上にあった。
薄闇。雲の切れ目から、赤い月が覗く。
空気は乾いていて冷たい。息が白くならない程度の冷え方。
正面に、城がある。
黒い石で積まれた外壁は光を拒むように鈍く沈み、窓という窓が闇を抱えている。
廃墟のようでいて、どこか“生きている”気配があった。
風が止まり、耳鳴りのような静寂だけが続く。
「ボス感、満載だな」
言葉に出すと、少しだけ緊張が整理される。
背後を振り返ると、赤黒い光はまだ開いていた。退路は、いまのところ、ある。
「段取り通り。まずは周辺の確認——」
「グルル……」
低い唸りが闇から剥がれ落ちた。
茂みの陰で光の吸収が変わる。複数。目だけが先にこちらを掴む。
灰色の毛。二足のシルエット。牙。
僕より頭ひとつ分、大きい。
三匹。
心臓が一拍、強く。肺が一瞬だけ浅くなる。
恐怖は情報不足の裏返しだ。なら、観察して、補えばいい。
「落ち着いて、秀人。スキルは起動できる」
「……ああ」
この二日で、技能共有結の維持はすっかり体に染みついた。
意識しなくても、呼吸するみたいに保てる。
それでも、指先はわずかに震えていた。目の前の“現実”には、まだ慣れない。
「——来る」
三匹が滑るように距離を潰す。
反射が理屈を追い越す。
「影移動!」
影へ滑り込む。視界の明暗が反転し、敵背後の地面に跳ね返る。
肩の上でグリップを調整し、金属バットを振り抜いた。
骨ではない手応え。密度が揺れる。吠え声。
背後に足音。回避が間に合わず、肩に浅い痛みが走った。
「右、来る!」
コユキの声がクリックのように脳に刺さる。
足首を軸に、バットの先で噛みつきを弾く。鉄の感触が手のひらに戻る。
呼吸。
恐怖は、まだいる。けれど、並走させられる。
「——時間視界」
世界が半歩、遅くなる。
視界の端で“未来の残像”が薄く線を引く。
踏み込み、重心、腰の回転。三匹分の予兆が重なり、ほどける。
「見えた」
影の縁を踏み、背中の黒を狙ってもう一度“潜る”。
足元へ抜け、バットを一閃。
命中の瞬間、灰色の輪郭が粒子にほどけた。
崩壊というより、構造が分解された感じだ。
魔力そのものが空気に還っていく。
「消えた……?」
「普通のモンスターって感じじゃないわね。生き物っていうより現象に近いかも。」
一体目が消えると、恐怖の位置が後ろへ下がった。
残り二匹。
頭のどこかで、会議の段取りを立てるみたいに並び替える。
二匹目は外側へ振らせて、硬直へ差し込む。
三匹目は影の切り返しで“足元”を奪う。
「来い」
二匹が重なるタイミングで、再び視界を一段落とす。
牙の軌道と爪の角度が、スロー再生で“読める”。
すれ違いざま、全身のバネを一本にまとめて振る。
手首に、確かな終わりの感触。
音が、遅れて耳に落ちてきた。
静寂。
遠い風の音だけが、城の壁に擦れている。
「……終わったか」
喉の奥で空気を温め、吐く。
バットの先端に残る虚ろな重みが、少しずつ抜けていく。
「よくやったわ、秀人」
コユキが肩に前足を触れる。
それだけで、世界が現実側へ数ミリ戻る。
「模写捕食は?」
「一応、試してみたけど無理だったわ。粒になって消えて、取り込むものが何も残らなかったの。」
「なるほど」
敵のスキルは得られない。
でも、経験は蓄積される。
ステータスを確認するとレベルは8に上がっていた。
倒せば経験は入る。これは確かな手応えだった。
「……動き、だいぶ噛み合ってきたわね」
「ああ。さっきの連携も悪くなかった」
ふと顔を上げる。
赤い月の下、城の輪郭が黒い紙のように切り抜かれている。
入口は、まだ遠い。けれど、道は見える。
退路は背後に。相棒は隣に。
必要な条件は、そろっている。
「行こうか」
「ええ」
僕はバットを握りしめ、城へ向けて歩き出した。




