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晩年こそ本番。42歳会社員、喋る猫と現代ダンジョン攻略──ここからが本番だ  作者: 七乃白 志優
第二章:現実という名の迷宮

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013話『赤のゲート、再起動』

夜。

夕食を済ませたあと、僕はリビングのソファで目を閉じていた。

温め直したコーヒーみたいに、ようやく体が落ち着いてきた。

ちょうどいい温度の夜だ。


隣のクッションでは、コユキが香箱座りで小さく丸くなる。

白い毛並みが照明を柔らかく返して、視界の角が丸くなる感じがした。


「猫って、いいな」


思わず、独り言が漏れた。


「……なあ、少しだけ撫でてもいいか」


「撫でる“だけ”よ? 毛並みが乱れるのは嫌だから」


「了解。指先で一往復」


指の腹でそっと額に触れる。髪より細い繊維が、体温を帯びて指へ戻ってくる。

それだけで呼吸が深くなった。


——そのとき、視界の端に、色の違う空気が混じった。


廊下の突き当たり。二階の物置部屋のドアの隙間から、ほのかに赤が滲んでいる。


「コユキ。あの部屋……明かり、つけた記憶はない」


「私は行ってないわ。物置でしょ?」


胸の中で、心拍が一段だけ高く跳ねた。

僕は立ち上がり、階段を上る。足音が、壁に吸い込まれていく。


——まさか。


ドアノブに触れ、ゆっくり押す。

赤黒い光が、呼吸するみたいに部屋の壁を染め、中心に穴のような歪みを作っていた。


「ゲート……? いや、色が違う」


新大阪で見た“黒”ではない。

赤黒い光の層が複層に重なって、心拍と反対のリズムでゆらぐ。


「間違いないわね。サブゲートよ」


コユキが、当然のように断言する。


「大型ダンジョン——新大阪みたいな“黒いゲート”が本体。これはその“裏口”。どこかの階層に直通しているタイプ」


「入口が家に……理由は?」


「“導かれた者”であるあなたに反応した可能性が高いわ。座標というより、人に紐づく“経路”ね」


決定的な言い方だった。

こういうとき、彼女の確信は当たる。僕は深く息を吸い込む。


「今すぐ、はやめておく。準備をして、明日入る」


「賛成。段取り八割ね」


「……それを言うか」


仕事でもよく聞く。八割は準備で決まり、残りの二割が実行。

それを猫に言われるとは思わなかった。


コユキの一言は、まるで経験豊富なマネージャーのようで、少しだけ笑ってしまった。


日付が変わる前、僕はスマートスピーカーに声を投げる。


「申請チャットに送って。——明日火曜は、急用で休みます」


現実に一本、手を通してから非現実に触れる。

それが、社会人としての安全装備だ。



翌朝。

玄関に荷物を並べ、内容を最終確認する。


金属バット。非常食と水。替えのシャツ。簡易包帯。携帯ライト。スマホ。

前回、十時間近く口にできなかった空腹の記憶は、もう教訓に変わっている。


「バットって、野球でも始めるの?」


「鉄パイプの実績がある。運用実績は信用できる」


「ふふ、言い方が完全に会社員」


コユキが小さく笑って、尾をひと振りした。


階段を上がる。二階の物置部屋に漂う赤黒い光は、まだそこにあった。

光の波が壁紙の模様を撫で、部屋の空気だけ温度が違う。


「行く」


頷きを交わし、僕たちは渦へ踏み込む。


空間がねじれ、耳鳴りが一瞬だけ高くなる。

足裏に固い地面の反発が戻ると、暗い空が頭上にあった。


薄闇。雲の切れ目から、赤い月が覗く。

空気は乾いていて冷たい。息が白くならない程度の冷え方。


正面に、城がある。

黒い石で積まれた外壁は光を拒むように鈍く沈み、窓という窓が闇を抱えている。

廃墟のようでいて、どこか“生きている”気配があった。

風が止まり、耳鳴りのような静寂だけが続く。


「ボス感、満載だな」


言葉に出すと、少しだけ緊張が整理される。

背後を振り返ると、赤黒い光はまだ開いていた。退路は、いまのところ、ある。


「段取り通り。まずは周辺の確認——」


「グルル……」


低い唸りが闇から剥がれ落ちた。

茂みの陰で光の吸収が変わる。複数。目だけが先にこちらを掴む。


灰色の毛。二足のシルエット。牙。

僕より頭ひとつ分、大きい。


三匹。


心臓が一拍、強く。肺が一瞬だけ浅くなる。

恐怖は情報不足の裏返しだ。なら、観察して、補えばいい。


「落ち着いて、秀人。スキルは起動できる」


「……ああ」


この二日で、技能共有結(コードリンク)の維持はすっかり体に染みついた。

意識しなくても、呼吸するみたいに保てる。

それでも、指先はわずかに震えていた。目の前の“現実”には、まだ慣れない。


「——来る」


三匹が滑るように距離を潰す。

反射が理屈を追い越す。


影移動(シャドウ・シフト)!」


影へ滑り込む。視界の明暗が反転し、敵背後の地面に跳ね返る。

肩の上でグリップを調整し、金属バットを振り抜いた。


骨ではない手応え。密度が揺れる。吠え声。

背後に足音。回避が間に合わず、肩に浅い痛みが走った。


「右、来る!」


コユキの声がクリックのように脳に刺さる。

足首を軸に、バットの先で噛みつきを弾く。鉄の感触が手のひらに戻る。


呼吸。

恐怖は、まだいる。けれど、並走させられる。


「——時間視界(クロノ・サイト)


世界が半歩、遅くなる。

視界の端で“未来の残像”が薄く線を引く。

踏み込み、重心、腰の回転。三匹分の予兆が重なり、ほどける。


「見えた」


影の縁を踏み、背中の黒を狙ってもう一度“潜る”。

足元へ抜け、バットを一閃。


命中の瞬間、灰色の輪郭が粒子にほどけた。

崩壊というより、構造が分解された感じだ。

魔力そのものが空気に還っていく。


「消えた……?」


「普通のモンスターって感じじゃないわね。生き物っていうより現象に近いかも。」


一体目が消えると、恐怖の位置が後ろへ下がった。

残り二匹。

頭のどこかで、会議の段取りを立てるみたいに並び替える。


二匹目は外側へ振らせて、硬直へ差し込む。

三匹目は影の切り返しで“足元”を奪う。


「来い」


二匹が重なるタイミングで、再び視界を一段落とす。

牙の軌道と爪の角度が、スロー再生で“読める”。

すれ違いざま、全身のバネを一本にまとめて振る。


手首に、確かな終わりの感触。

音が、遅れて耳に落ちてきた。


静寂。

遠い風の音だけが、城の壁に擦れている。


「……終わったか」


喉の奥で空気を温め、吐く。

バットの先端に残る虚ろな重みが、少しずつ抜けていく。


「よくやったわ、秀人」


コユキが肩に前足を触れる。

それだけで、世界が現実側へ数ミリ戻る。


模写捕食(ミミック・イーター)は?」


「一応、試してみたけど無理だったわ。粒になって消えて、取り込むものが何も残らなかったの。」


「なるほど」


敵のスキルは得られない。

でも、経験は蓄積される。

ステータスを確認するとレベルは8に上がっていた。


倒せば経験は入る。これは確かな手応えだった。


「……動き、だいぶ噛み合ってきたわね」


「ああ。さっきの連携も悪くなかった」


ふと顔を上げる。

赤い月の下、城の輪郭が黒い紙のように切り抜かれている。


入口は、まだ遠い。けれど、道は見える。

退路は背後に。相棒は隣に。

必要な条件は、そろっている。


「行こうか」


「ええ」


僕はバットを握りしめ、城へ向けて歩き出した。


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