119話『台本の外側』
リビングに入ると、コユキが当然の顔でソファの背にもたれていた。
……もうここが自分の定位置みたいになっている。
キッチンの方では、ディアが湯気の立つカップを用意していて、スーラがぷるんぷるん跳ねている。
コユキが三本の尻尾を揺らして聞いてくる。
「午前のワイドショー見た?」
「見てない」
早見さんがキッチンへ向かい、ディアが並べた皿を受け取ってテーブルに置く。
僕は、少し遅れて椅子に座った。早見さんも同じタイミングで腰を下ろす。
「“速水えりな、体調面を考慮して当面活動休止”って出てた。心配の声すごい」
食卓が落ち着いたところで、箸が動き始める。
……いや、動きかけて止まった。
早見さんが、箸を持ったまま指先を止めた。目が少し泳ぐ。
「……ファンに嘘をついてるみたいで……」
声が小さい。
自分が何か悪いことをした、という顔だ。
「嘘を発表してるのは事務所だよ。詩織さんが背負う話じゃない」
早見さんは唇を結んで、でも頷けない。
コユキが、尻尾を揺らした。
「でも、発表が出たってことは、事務所も“いない”前提で動き出したってこと」
「……そうだな」
僕は箸を置いて、言葉を選ぶ。
“切り分け”を間違えると、早見さんは自分で自分を追い詰めそうな気配がある。
その時、ディアが静かに口を挟んだ。
「それに、“体調面を考慮”は……本当よ」
早見さんが顔を上げた。
「本当……ですか」
ミニチュアのディアは湯気の立つカップの近くで、淡々と言った。
「一昨日からずっと緊張してた。睡眠も浅かった。ごはんだって、味がしてるか分からないくらいだったでしょ。スキルの効果で……体調に出ない方が、むしろ変よ」
「……」
早見さんは視線を落としたまま、少しだけ肩を落とす。
罪悪感の形が、ほんの少し変わった。
“嘘をついた”から、“無理をしてた”へ。
ディアが、静かに言った。
「良心があるのは、悪いことじゃない。……その痛みまで詩織が全部持つ必要はない」
早見さんは小さく、はい、と答えた。
食後、僕はスマホをテーブルに置いた。
「事務所の発表を、こちらの説明の“根拠”に使おう」
コユキが即座に聞き返す。
「何に?」
「帰還者管理庁に“安全な場所で静養中”って連絡しておく。事務所が安否確認で動く時の抑止にもなる。“生存確認は取れてます”が一枚あるだけで、関係者の動きが変わる」
ディアが、僕を見た。視線が鋭い。
「秀人、台本を書いてる。……悪いって意味じゃないわよ」
……図星だ。
僕は状況を整理しこれからのシナリオを立てたがる。
誰かを救う時に、それが正しいとは限らない。
早見さんが、慌てたように手を振った。
「でも……それ、私も良いと思います」
言い方が、違う。
“従います”じゃない。
“自分で選んだ”言い方だ。
僕は短く頷く。
「うん。なら、やろう」
早見さんが少し顔をしかめた。
「ただ……担当の番号、スマホを取られてて分からないんです。東京担当は朝霧さん、って名前ですけど……」
「じゃあ僕担当の柊さんに繋いで、朝霧さんに回してもらおう」
コユキが即座にツッコむ。
「却下」
「え」
「“僕担当”は禁止」
「……関西担当の柊さん、です」
「最初からそう言う」
そのやり取りに、張りつめていた空気が少しだけほどけた。
僕も、ほんの少しだけ笑ってしまう。
コール。
二回目で繋がる。
『……柊です』
声が、仕事モードの低いテンションだ。
この人はこういう時、まず“嫌な予感”を拾う。
「お世話になっております。時任です」
『お世話になっております。――次は、どうされましたか』
「少しご報告がありまして。……嫌なご予感、されてますか」
『……しております』
コユキが横で“ほら”と顔をしている。
「今回の件は成り行きで……速水えりなさんの活動休止の件、ご存じでしょうか」
『はい。把握しております』
「実は……こちらで保護することになりました」
一拍、間が空く。
『……保護、ですか。現在位置の特定は不要ですが、“第三者の同席”だけ確認させてください。時任さん単独ですか?』
ディアやコユキを思い浮かべる。
「同席者はいます。――照会が入った場合は、“生存確認は取れております。”と、その旨のみお伝え願えないでしょうか。私の件は伏せてください」
『……あのぉ……』
溜息は、怒りじゃない。困ってるだけのやつだ。
「ご本人もいますので、代わりますね」
『えっ』
柊さんの反応を他所に、僕はスマホを早見さんへ差し出した。
「お願いします」
早見さんは一瞬だけ息を吸って、目の焦点が変わった。
スイッチが入る。
“人前に立つ対外説明の顔”だ。
「お世話になっております。速水えりなです。突然のご連絡となり申し訳ありません」
語尾が丁寧で、息継ぎが正確で、必要な情報だけを落とさず話す。
声が震えていない。
先ほどまでとは、別人みたいだ。
『確認です。現在ご本人は安全で、体調面は静養が必要な状態――その理解でよろしいでしょうか』
「はい。安全な場所におります。体調面につきましては、休養が必要な状況です」
『承知しました。東京担当の朝霧へ、こちらから共有いたします。事務所・関係者から照会があった場合の返答は――』
「“生存確認は取れております。現在静養中です”。それ以上は回答不可、でお願いいたします」
『……承知しました』
早見さんは深く頭を下げるように、声だけで礼を作った。
「ご配慮ありがとうございます。ご迷惑をお掛けしてしまい、申し訳ありません」
『いえ。まずは静養を最優先にしてください。こちらでも調整します――時任さんにかわってもらえますか』
「はい、わかりました」
スマホの液晶画面を拭いて、僕の方へ差し出された。
まだ、通話は切れていない。
「時任です」
『……本当に、保護されているのですね。速水さんと繋がりも、あったということで』
「はい。経緯の詳細は控えますが、SNSを始めたことがきっかけで……」
『分かりました。時任さん……あまり問題を増やさないでくださいね』
釘は刺しつつ、声は冷静だ。
『事情を詳しく伺えるタイミングで、また共有ください。取り急ぎ、速水えりなさんの件は九条に私から説明しておきます。その後、九条から東京担当に話が共有されると思います』
「助かります。よろしくお願いいたします」
通話が終わる。
早見さんは、肩から力が抜けていた。
僕は――あの切り替えの鮮やかさを言葉にしかけて、やめた。
褒め言葉が、いつも救いになるとは限らない。
今はたぶん、“できてしまう自分”が一番つらい気がする。
僕は代わりに、短く言った。
「助かった。ありがとう」
それだけで、早見さんは少しだけ笑った。
少ししてインターフォンが鳴った。
『引っ越しです。お届けに来ました』
「僕が出ます」
玄関を開けると、業者さんが二人。
「自分で中に運ぶので、玄関にお願いします」
「了解です。こちらにまとめますね」
衣装ケースが四つ。段ボールが九つ。布団と、細長い袋がいくつか。
テキパキと荷物が積まれて、あっという間に玄関が埋まった。
受領サインをして、ドアを閉める。
向こうから足音がした。
「時任さん、運ぶの……手伝いましょうか」
早見さんが、少し遅れて玄関に顔を出す。
素のままの、気遣いの声だった。
「大丈夫。……でも、ありがとう」
僕がそう返すより早く、ミニチュアのディアが後ろから静かに飛んできた。
「手で運ぶ必要なんて、ないわ」
影が広がって、荷物が“吸い込まれる”みたいに沈む。
衣装ケースが、段ボールが、布団が。
“沈む”。
早見さんは言葉を失って、口を開けたまま止まった。
それでも、昨日みたいに硬直はしない。目が動く。理解しようとしている。
「……え、い、いま……」
コユキが得意げに言う。
「影。便利」
スーラがぷるん、と床の影の端で跳ねた。
ディアが早見さんに視線を向けた。
「94階へ持っていこう」
早見さんが僕を見る。
怯えより、驚きと、少しの期待。
僕は頷いた。
「……そうだな。このまま今日は94階で過ごそう」
物置部屋のサブゲートをくぐる。
空気が変わる。温度と、匂いと、空気の厚み。
94階の“城”に戻ると、ディアがまず荷物の置き場所を示した。
影から吐き出された段ボールが、整然と並んでいく。
「……すごい……」
早見さんは思わずそう漏らして、すぐに口をつぐんだ。
驚きが消えたわけじゃない。ただ、昨日みたいに固まらなくなっている。
ディアは早見さんの顔を一度だけ見て、いつ間にか用意された紅茶のカップを置いた。
「これで、少しは落ち着ける」
早見さんが小さく頷く。
「……はい」
少しの沈黙。
荷物の“生活感”だけが増えていって、城の空気が現実に寄る。
そのタイミングで、ディアがふっと言った。
「秀人にも、今の詩織を見てもらいましょう」
「え……?」
「僕も、今の位置は把握しておきたい」
早見さんは唇を噛んだあと、小さく頷いた。
「……お願いします」




