118話『退職と退職』
6時、目覚ましで起きた。
……起きた、というより“起こされた”が正しい。
身体がまだ布団にしがみついてる。出社だって分かってるのに、まぶたが重い。
寝室は二階。
階段を降りると、そのまま一階のリビングに落ちる構造になっている。
降り切った瞬間、バターの匂いとコーヒーの香りが鼻をくすぐった。
視界の先に、いつものメンバー。
コユキ。ユキ丸。ミニディア。スーラ。
全員がもう、当たり前みたいに“家の住人”の顔をしている。
(……僕の家、いつからギルドの詰所になったんだ)
「おはよ。朝ごはん、できてる」
コユキが、いつもの調子で言う。
当然みたいに。猫がしゃべる――当然じゃないのに。
僕は椅子に座って、用意されたトーストに手を伸ばす。
眠気はまだ残ってる。けど、香りだけで少しだけ現実に引き戻された。
――そのとき。
階段を降りる足音がした。
一段ずつ、慎重に。音が小さいのに、耳に残る。
姿を見せたのは、早見詩織――いや、今はまだ“速水えりな”。
寝起きのはずなのに、礼儀だけが先に立ち上がっている。
けれど肩は硬く、目線はわずかに逃げた。背筋が“作られてる”。
ミニチュアのディアが、さらっと言った。
「みんなが家にいるときは、ごはんの時間、ちゃんと揃ったほうがいいと思って。……だから94階から呼んだのよ」
早見さんが小さく頭を下げる。
「……おはようございます」
声はきれいに出てる。
でも、その“きれいさ”の裏で、息が浅いのがわかる。昨日と同じ種類の浅さだ。
僕はトーストを一度皿に置いて、言葉を選んで短く聞いた。
「……退職代行、心配ですか」
早見さんは一瞬だけ迷って――でも、逃げずに頷いた。
「……はい」
素直に言えた。
それだけで、昨日より一歩前だと思う。
僕はトーストの最後の欠片を飲み込み、コユキを見る。
「……昨日頼んでた件、できてる?」
「ん。“本人が消える”とき、事務所がどう動くか——でしょ」
コユキが得意げに胸を張った気配だけがある。
「ユキ丸が終わらせたよ」
ユキ丸が帽子を外す。
淡いホログラムが立ち上がり、短い箇条書きが空中に並ぶ。
【① 初動:安全確認が最優先】
・退職代行の通知を受けたら、事務所は本人へ連絡を試みる
・代行が「本人への直接連絡は控えて」を付けていれば、法務(労務)経由へ切り替えが多い
・それでも“安否確認”名目で自宅訪問の可能性は残る
【② 対外対応班が即立ち上がる】
・法務(労務)/広報/マネージャー/スポンサー窓口/制作で緊急MTG
・予定キャンセル・差し替え、スポンサー対応、SNS・報道の初動方針
・初動は「体調不良」「諸般の事情」で沈静化を狙う
・退職成立は一般論として「申し出から2週間」扱いが基本
・ただし双方の合意により前倒しになるケースもある
「……なるほど」
思わず、声が出た。
早見さんがそのホログラムを見て、ほんの少しだけ呼吸を深くする。
“分からない不安”が、“分かる不安”に変わった瞬間の顔だった。
僕が読み終えると、視線がふっと早見さんに戻った。
早見さんも、僕を見ていた。ほんの一瞬。
コユキがすかさず言う。
「見つめ合ってても進まない」
「見つめ合ってない」
反射で返して、咳払いで誤魔化す。
早見さんは視線をすっと下げ、小さく頷いただけだった。
僕はホログラムを見ながら、早見さんに言う。
「代行側が“直接連絡控えて”を出してるなら、初動は抑えられるはずです。……ただ」
言い切る前に、少しだけ間を置く。
早見さんは小さく頷いた。
「……分かりました」
そこで、僕は今日の現実に戻る。
「今日から月末までは、基本“午前は出社”になる。留守中のことはディア、頼む。家の警備はユキ丸お願い」
ディアが当然みたいに頷く。
「そのつもりよ。任せなさい」
ユキ丸は何も言わない。けど、ホログラムの文字が一瞬だけ変わる。
【了解です】
可愛い雪だるまみたいな見た目で、返事は無機質。
でも、ユキ丸はこう見えても92階由来の、あの強さがある。
(この子、92階の“モンスター”なんだよな。見た目は小さな雪だるまロボットでも、中身は別物)
「じゃ、行ってきます」
僕は皿を片付け、ジャケットを羽織って家を出た。
会社の空気は、変わらない。
キーボードの音。打ち合わせの声。
ここだけは、“非日常”が嘘みたいだ。
出社してから10時過ぎまでは引き継ぎ中心。
やることを細かく潰していく。
メール。資料。口頭の補足。抜け漏れが出ないように、確認の確認。
10時半前。営業の副部長が声をかけてきた。
「時任さん、そろそろ出る時間です」
「了解です」
梅田のお客様先へ向かう。
打ち合わせは一時間ほど。
僕は淡々と、でも丁寧に言う。
「5月末で退職します。ただ、僕が抜けても大丈夫な体制は整えています。以後の窓口は営業に。プロジェクト実務は竹島が対応します」
一拍。
お客様が目を見開き、思わず息を漏らした。
「……えっ。辞められるんですか、時任さん」
驚きが先に出て、次いで、困ったように笑う。
「いやぁ……時任さんのことだから、きちんと引き継ぎはされると思いますけど。それでも、寂しくなりますね」
「恐縮です。……竹島、頼りになりますよ」
不安を与えないよう笑って返す。
Web会議は便利だ。
移動は削れる。時間も稼げる。
でも、こうやって足を運ぶことで残る信用がある。
――それを最後まで置いていく。それだけは、僕の義理だ。
1時間ほどで終わり、外に出た。
営業に聞く。
「ここからほぼ毎日、アポですよね」
「はい。……ほぼ毎日です」
僕は頷いて、時計を見る。
今日も午後半休。だから直帰する。
「僕、このまま直帰します。すみません。また、行ける日にお昼ご一緒しましょう」
「了解です。お疲れ様です」
昼食も外で取らず、そのまま家に帰ることにした。
家に着く。
ドアを開けると、早見さんが顔を出した。
「おかえりなさい」
「あれ。94階じゃなくて、こっちに?」
「午前中は94階にいました。午後、引っ越し業者さんから荷物が届くので……こちらで待機してました」
「……そっか」
返事は平静に出たのに、胸の奥が少しだけくすぐったい。
コユキやディアに“おかえり”を言われるのとは違う。
玄関先で久しぶりに“人に”迎えられるだけで、照れが混じって声の置き場が分からなくなる。
僕は視線を靴箱の方へ逃がして、頷いた。
よし。午後の段取りに入ろう。




