117話『94階、入居者1名』
僕はキッチンの片隅でコーヒーを一口飲んで、頭の中を整理する。
早見さんは今、東京へ戻って荷物を片付ける。
夜にまた大阪へ戻る。
それから、ディアは“94階で過ごさせる”と決めた。
コユキは“放っておくと面倒が増える”と言った。
……正直、展開が速い。速すぎる。
でも、速いときほど、感情で止まると余計に転ぶ。
「よし」
小さく言って立ち上がる。
迷いを消すためじゃない。迷いを抱えたまま動くために。
「考えすぎると判断が鈍る。……動いて整えるか」
物置部屋の前に立つと、あの赤黒いゲートが、そこに“ある”だけで空気を変えていた。
「……相変わらず、物置に置いていい見た目じゃないよな」
僕が小さくぼやくと、コユキが笑った気配だけ寄こす。
「いいじゃん。家の中に“別世界の入口”って、ロマンだよ?」
ロマンで済むなら苦労しない。
でも今は、そのロマンに救われる側だ。
僕は一度だけ呼吸を整えて、赤黒い縁を踏み越えた。
――くぐった瞬間、空気が変わった。
94階。
静かで、広くて、冷静になれる場所。
視界の奥から足音が近づく。
ディアが、いつもの余裕で笑って迎えた。
「おかえりなさい……顔がもう、“考えすぎて詰まってる”顔ね」
「……そんな顔してた?」
「してる。今の秀人、言葉で整理しようとして逆に溺れてる」
図星で、返す言葉が一拍遅れた。
ディアは僕の胸元――心臓のあたりを指先でとん、と軽く押す。
「じゃあ今日は、体を本気で動かしなさい。ほかのこと考えられなくなるくらいの敵――出してあげる」
「ちょっと待て。強いのって、どのレベル――」
「考えるの禁止。……余計なこと考えると死ぬわよ」
「死ぬって……」
「なら、必死になりなさい」
指先を鳴らすみたいな仕草。
空間が、ひと呼吸ぶん歪んで――“それ”が出てきた。
次の瞬間、空気が一枚、硬くなる。
現れたのは――硬い外殻を持つ獣型。
脚が四本じゃない。六本だ。
大きい。なのに速い。重いのに止まらない。
一撃が“痛い”で済まない圧で、床ごと踏み抜いてくる。
「……ちょ、待っ――」
待ってくれるわけがない。
ディアは笑ったまま、少し離れた位置で腕を組んでいる。
「ほら。考える暇、ある?」
「ないっ……!」
スーラが服の内側で形を変え、腕に沿って籠手みたいに密着した。
熱を遮って、衝撃を薄める。――それでも、受けきれない分は骨に響く。
(強い。強すぎる……!)
砂嵐みたいに連続する圧。
躱しても、読み違えた瞬間に削られる。
息を整える暇がない。整えようとした瞬間に、次が来る。
――だから、余計な思考が落ちた。
会社のことも。早見さんのことも。
全部、いったん“後”に追いやられる。
いま必要なのは、目の前の一歩と、次の一撃を殺す角度だけ。
斬って、避けて、受けて、踏み込む。
何度か、背中がひやりと冷えた。
“今の、遅れてたら――“ってやつが、二回、三回。
それでも、手は止まらない。
どれくらい経ったか分からない。
最後に、外殻の継ぎ目へ刃を通した瞬間――獣が沈み、空気が元の静けさに戻った。
そのとき、遅れて身体が気づく。
肺が少しだけ広がっている。
足裏が床を掴む感覚が、ほんの僅かに“濃い”。
血の巡りが一段上がったみたいな、熱の回り方。
(……あ)
胸の奥で、何かが切り替わった。
レベルが上がった時の、あの感じだ。
「……嘘だろ。先日、62になったばかりなのに」
言葉にした瞬間、笑いとため息が同時に出た。
どれだけ削られて、どれだけ踏ん張らされたんだ。
ディアが、得意げに目を細める。
「ね。考え事、できなかったでしょ」
「できなかったっていうか……させる気がなかっただろ……」
「うん。今日はそれでいいと思う」
ディアは少しだけ目を細める。笑ってない。
「94階で詩織を鍛える。でもね――」
一拍置いて、言う。
「帰還者の誰よりも、あなたに前へ行ってほしい」
その言葉は、重いのに――温かかった。
背中に鎧を乗せられるんじゃなくて、背中を押される感覚に近い。
僕の中で、何かがきゅっと締まる。
嬉しい。単純に。
そして、逃げたくない。――ディアの期待からじゃなく、ディアの想いから。
「……ありがと」
息を整えて、ちゃんと返す。
「先に進むよ。――気持ちに応えたい」
家に戻ったころには、もう21時を回っていた。
帰ってすぐシャワーだけ浴びて、簡単に腹へ入れた。
なのに頭だけ、変に仕事みたいに冴えている。
……冴えなくていいのに。
ようやくソファに沈みかけたところで、インターフォンが鳴った。
モニターに映ったのは――早見さん。
ドアを開けると、彼女は控えめに頭を下げる。
「……お邪魔します」
「おかえり。夕食は?」
「済ませてきました。……移動中に、簡単に」
淡々としてる。
でも、昨日みたいな“薄さ”じゃない。
ちゃんと、人が戻ってきてる感じがする。
リビングに通した瞬間、ミニチュアのディアがふわっと浮いて、すっと前に出た。
(なんだこの、急に儀式みたいな空気)
「さっそくだけど確認するわ。今日から――94階で暮らして、私が鍛える。いいのね」
早見さんは一瞬だけ息を飲んで、それから頷いた。
「今の自分を、本気で変えたいです。……よろしくお願いします」
「うん。いい返事」
ミニディアが満足そうに頷いてから、付け足す。
「それと――約束も守ってね」
僕は反射で口を挟む。
「……約束?」
ディアがちらっと僕を見る。完全に“からかう目”だ。
「女同士の約束を男が覗くのは野暮よ」
……野暮と言われたら、引くしかない。
「はいはい。野暮は退きます」
そのやり取りに、早見さんの口元がほんの少しだけ緩んだ。
笑いかけて――やめた、みたいな動き。
物置部屋。
赤黒いサブゲートを前にした早見さんが、目を丸くする。
「……これ、が……?」
「うん。ここから行ける」
ゲートを抜けた瞬間、風が変わる。
広い空。遠くに見える城。
早見さんの呼吸が、ほんの少し止まった。
「……すごい……」
その驚きは、怖さより先に出たみたいだった。
それだけで少し安心する。
ディアが肩を軽くすくめて、さらっと言う。
「今日はお城のお風呂に入りなさい。家のほうだと秀人がドキドキするみたいだから」
「おい」
突っ込みが、思ったより速く出た。
処理のつもりだったのに、反射が混じってる。悔しい。
早見さんが僕を見る。目が合う。
昨日より少しだけ、瞳の奥に温度がある。
安心……に寄りかけて、すぐ引っ込めるみたいな。
本人は気づいてない顔をしてる。
でも、引っ込める仕草のほうが逆に目立つ。
「……っ」
咳払いで誤魔化した。
ディアが楽しそうに笑って、手を叩く。
「はい、ここまで。秀人、明日、午前の仕事が終わったら迎えに来て」
「……分かった。頼む」
家へ戻ると、急に静かになった。
さっきまでの“94階の空気”が嘘みたいだ。
僕はソファに沈み込んで、コユキを見る。
「……なぁ。もう、SNSで“助けて”みたいな意味深なDM、来てないよな?」
ユキ丸が帽子を外し、淡いホログラムを立ち上げる。
「政治的支援要請:有」
「個人的SOS:無」
「……よかった」
息が、やっと下に落ちた。
僕は明日の仕事スケジュールを確認して、端末を閉じる。
今日はもう、判断を増やさない。
布団に入って、目を閉じる直前に思う。
――直感を信じて動いた。
なら、最後までやり切る。振り返りは、あとでいい。
そう決めて、眠りに落ちた。




