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晩年こそ本番。42歳会社員、喋る猫と現代ダンジョン攻略──ここからが本番だ  作者: 七乃白 志優
第七章:守られる檻、ほどける決断

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117話『94階、入居者1名』

僕はキッチンの片隅でコーヒーを一口飲んで、頭の中を整理する。


早見さんは今、東京へ戻って荷物を片付ける。

夜にまた大阪へ戻る。

それから、ディアは“94階で過ごさせる”と決めた。

コユキは“放っておくと面倒が増える”と言った。


……正直、展開が速い。速すぎる。

でも、速いときほど、感情で止まると余計に転ぶ。


「よし」


小さく言って立ち上がる。

迷いを消すためじゃない。迷いを抱えたまま動くために。


「考えすぎると判断が鈍る。……動いて整えるか」


物置部屋の前に立つと、あの赤黒いゲートが、そこに“ある”だけで空気を変えていた。


「……相変わらず、物置に置いていい見た目じゃないよな」


僕が小さくぼやくと、コユキが笑った気配だけ寄こす。


「いいじゃん。家の中に“別世界の入口”って、ロマンだよ?」


ロマンで済むなら苦労しない。

でも今は、そのロマンに救われる側だ。


僕は一度だけ呼吸を整えて、赤黒い縁を踏み越えた。

――くぐった瞬間、空気が変わった。


94階。

静かで、広くて、冷静になれる場所。


視界の奥から足音が近づく。

ディアが、いつもの余裕で笑って迎えた。


「おかえりなさい……顔がもう、“考えすぎて詰まってる”顔ね」


「……そんな顔してた?」


「してる。今の秀人、言葉で整理しようとして逆に溺れてる」


図星で、返す言葉が一拍遅れた。


ディアは僕の胸元――心臓のあたりを指先でとん、と軽く押す。


「じゃあ今日は、体を本気で動かしなさい。ほかのこと考えられなくなるくらいの敵――出してあげる」


「ちょっと待て。強いのって、どのレベル――」


「考えるの禁止。……余計なこと考えると死ぬわよ」


「死ぬって……」


「なら、必死になりなさい」


指先を鳴らすみたいな仕草。

空間が、ひと呼吸ぶん歪んで――“それ”が出てきた。


次の瞬間、空気が一枚、硬くなる。


現れたのは――硬い外殻を持つ獣型。

脚が四本じゃない。六本だ。

大きい。なのに速い。重いのに止まらない。

一撃が“痛い”で済まない圧で、床ごと踏み抜いてくる。


「……ちょ、待っ――」


待ってくれるわけがない。

ディアは笑ったまま、少し離れた位置で腕を組んでいる。


「ほら。考える暇、ある?」


「ないっ……!」


スーラが服の内側で形を変え、腕に沿って籠手みたいに密着した。

熱を遮って、衝撃を薄める。――それでも、受けきれない分は骨に響く。


(強い。強すぎる……!)


砂嵐みたいに連続する圧。

躱しても、読み違えた瞬間に削られる。

息を整える暇がない。整えようとした瞬間に、次が来る。


――だから、余計な思考が落ちた。


会社のことも。早見さんのことも。

全部、いったん“後”に追いやられる。

いま必要なのは、目の前の一歩と、次の一撃を殺す角度だけ。


斬って、避けて、受けて、踏み込む。

何度か、背中がひやりと冷えた。

“今の、遅れてたら――“ってやつが、二回、三回。


それでも、手は止まらない。


どれくらい経ったか分からない。

最後に、外殻の継ぎ目へ刃を通した瞬間――獣が沈み、空気が元の静けさに戻った。


そのとき、遅れて身体が気づく。


肺が少しだけ広がっている。

足裏が床を掴む感覚が、ほんの僅かに“濃い”。

血の巡りが一段上がったみたいな、熱の回り方。


(……あ)


胸の奥で、何かが切り替わった。

レベルが上がった時の、あの感じだ。


「……嘘だろ。先日、62になったばかりなのに」


言葉にした瞬間、笑いとため息が同時に出た。

どれだけ削られて、どれだけ踏ん張らされたんだ。


ディアが、得意げに目を細める。


「ね。考え事、できなかったでしょ」


「できなかったっていうか……させる気がなかっただろ……」


「うん。今日はそれでいいと思う」


ディアは少しだけ目を細める。笑ってない。


「94階で詩織を鍛える。でもね――」


一拍置いて、言う。


「帰還者の誰よりも、あなたに前へ行ってほしい」


その言葉は、重いのに――温かかった。

背中に鎧を乗せられるんじゃなくて、背中を押される感覚に近い。


僕の中で、何かがきゅっと締まる。

嬉しい。単純に。

そして、逃げたくない。――ディアの期待からじゃなく、ディアの想いから。


「……ありがと」


息を整えて、ちゃんと返す。


「先に進むよ。――気持ちに応えたい」


家に戻ったころには、もう21時を回っていた。


帰ってすぐシャワーだけ浴びて、簡単に腹へ入れた。

なのに頭だけ、変に仕事みたいに冴えている。


……冴えなくていいのに。


ようやくソファに沈みかけたところで、インターフォンが鳴った。


モニターに映ったのは――早見さん。


ドアを開けると、彼女は控えめに頭を下げる。


「……お邪魔します」


「おかえり。夕食は?」


「済ませてきました。……移動中に、簡単に」


淡々としてる。

でも、昨日みたいな“薄さ”じゃない。

ちゃんと、人が戻ってきてる感じがする。


リビングに通した瞬間、ミニチュアのディアがふわっと浮いて、すっと前に出た。


(なんだこの、急に儀式みたいな空気)


「さっそくだけど確認するわ。今日から――94階で暮らして、私が鍛える。いいのね」


早見さんは一瞬だけ息を飲んで、それから頷いた。


「今の自分を、本気で変えたいです。……よろしくお願いします」


「うん。いい返事」


ミニディアが満足そうに頷いてから、付け足す。


「それと――約束も守ってね」


僕は反射で口を挟む。


「……約束?」


ディアがちらっと僕を見る。完全に“からかう目”だ。


「女同士の約束を男が覗くのは野暮よ」


……野暮と言われたら、引くしかない。


「はいはい。野暮は退きます」


そのやり取りに、早見さんの口元がほんの少しだけ緩んだ。

笑いかけて――やめた、みたいな動き。


物置部屋。

赤黒いサブゲートを前にした早見さんが、目を丸くする。


「……これ、が……?」


「うん。ここから行ける」


ゲートを抜けた瞬間、風が変わる。

広い空。遠くに見える城。

早見さんの呼吸が、ほんの少し止まった。


「……すごい……」


その驚きは、怖さより先に出たみたいだった。

それだけで少し安心する。


ディアが肩を軽くすくめて、さらっと言う。


「今日はお城のお風呂に入りなさい。家のほうだと秀人がドキドキするみたいだから」


「おい」


突っ込みが、思ったより速く出た。

処理のつもりだったのに、反射が混じってる。悔しい。


早見さんが僕を見る。目が合う。


昨日より少しだけ、瞳の奥に温度がある。

安心……に寄りかけて、すぐ引っ込めるみたいな。


本人は気づいてない顔をしてる。

でも、引っ込める仕草のほうが逆に目立つ。


「……っ」


咳払いで誤魔化した。


ディアが楽しそうに笑って、手を叩く。


「はい、ここまで。秀人、明日、午前の仕事が終わったら迎えに来て」


「……分かった。頼む」


家へ戻ると、急に静かになった。

さっきまでの“94階の空気”が嘘みたいだ。


僕はソファに沈み込んで、コユキを見る。


「……なぁ。もう、SNSで“助けて”みたいな意味深なDM、来てないよな?」


ユキ丸が帽子を外し、淡いホログラムを立ち上げる。


「政治的支援要請:有」

「個人的SOS:無」


「……よかった」


息が、やっと下に落ちた。


僕は明日の仕事スケジュールを確認して、端末を閉じる。

今日はもう、判断を増やさない。


布団に入って、目を閉じる直前に思う。


――直感を信じて動いた。

なら、最後までやり切る。振り返りは、あとでいい。


そう決めて、眠りに落ちた。


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― 新着の感想 ―
ベテランの資格習得から新人教育まで、94層が研修施設になってますねw ディアの内助の功が一番チートだと思います。リーダーが知らぬ間に役割分担や格付けが済んでいるとプロジェクトが非常にスムーズなんですよ…
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