116話『段取りが早すぎる朝』
8時を少し回ったところで目が覚めた。
疲れは残ってるのに、頭だけは先に動き出す。
髪を軽く整え、寝室のドアを開ける。
階段を降りていくと――下から、生活の気配がもう上がってきていた。
一階に着いた瞬間、現実が待っていた。
コユキ。ミニチュアのディア。スーラ。ユキ丸。
そして――速水えりな、こと早見詩織。
……泊まるのは許可した。分かってる。
でも、思った以上に“馴染んでる”。
昨日の夜のあの不安定さが、少しだけ薄まって見えるのが、逆に不思議だった。
「お寝坊さんね」
コユキがいつも通りの軽さで言う。
その軽さが、逆に効く。僕の中ではまだ昨日が終わってないのに。
早見さんと目が合った。
昨日より沈みが薄い。ほんの少し、目が前を見てる。
それから、視線が一瞬だけ――安心のほうに寄った……気がする。
すぐ逸らされた。本人も気づいてないみたいに。
でも、逸らしたあとに残る“余韻”だけが、そこにあった。
僕は息をひとつ整えて、キッチンへ回る。
「……朝、食べます?」
「私は、もう……さっき簡単に」
早見さんは淡々と答える。
“食べた”って事実で自分を繋いでる感じがする。
僕はトーストを焼いて、卵を落として、コーヒーを淹れる。
いつもの手順が、今朝はやけに遅く感じた。
席につきながら、僕は確認に入る。
昨日と同じだ。感情より先に、状況を並べる。
「今日の予定、確認していいですか?」
僕が聞くと早見さんは小さく頷いて、台本を読み上げるみたいに言った。
「退職代行に……今日、連絡します。
明日の朝イチで、事務所に伝えてもらいます。
そのあと、一度東京に戻って……昼過ぎから荷詰めと引っ越し。夜に、またこちらへ戻ります」
「……分かりました」
僕が返すと同時に、コユキが胸を張る。
「全部、手配した」
ドヤ顔。
ユキ丸も帽子を外して、ホログラムにタイムラインと予約状況みたいな画面を出す。
(……この家、司令室が板についてきたな)
「……ありがとう」
言いながらも、僕の頭は別の所で引っかかっていた。
匿うって言った。だから、泊まるのはいい。
でも――“いつまで”にするのか。
その間、詩織さん自身は“これからどうする”つもりなのか。
ちゃんと話して、線を引いておかないといけない。
そこへ、ミニディアがさらっと言う。
「朝、詩織に94階のこと、説明しておいたわ」
(……今、なんて)
「え、説明したの?」
素で声が出た。
秘密って、明かした瞬間にリスクになる。
昨日はそれで神経を削ってたのに。
ディアは、涼しい顔で小さく笑うだけ。
そして追い打ちみたいに、ディアが言った。
「秀人が起きる前に少し話したの。――しばらく、94階で過ごしてもらうわ」
「……え?」
口が勝手に開きかけて、止まる。
一時しのぎで匿う――そのはずだった。僕の予定では。
でも、ディアの目が揺れてない。決めた目だ。
僕が信頼してる種類の“決断”の目。
(……一時しのぎの“匿い”が、拠点生活に発展してる)
心が追いつかない。正直。
でも、ここで揉めるのは違う。まずは事実を受け取って、次の手を考える。
僕はそういうふうに生きてきた。
そのとき、詩織さんが小さく手を上げた。
「……コユキさんに、“この時間で”って言われてるので。少し、失礼します」
そう言って、リビングの端に移動してスマホを耳に当てる。
退職代行だ。
(コユキ、どこまで段取り組んでるんだよ……)
全部は聞こえない。
でも、断片だけで十分だった。
「……はい、社員です」
「月曜の朝で……」
「……本人は、出られない……」
胸が少し冷える。
ああ、戻れない一歩を、踏んだ音がする。
電話を終えた早見さんが戻ってきて、ぽつり。
「……一度、東京に戻ります」
僕は考えるより先に口が動いていた。
「駅まで送ります」
早見さんが一瞬だけ驚いて、それから小さく頷く。
外に出て、歩いて駅へ向かう。
帽子を深めに被って、マスク。
念のため、認識阻害系のスキルを薄くかける。
会話は少なめ。少なめのほうが、今はいい。
駅が近づいたところで、早見さんが何か言いかけた。
「……」
言いかけて、飲み込む。
でも、その飲み込み方が昨日より“人”だった。
僕は深追いしない。
深追いは優しさじゃなく圧になる時がある。
「夜、無理しないで。移動、きつかったら言ってください」
早見さんは頷いた。
その頷きが、昨日より少しだけしっかりしている。
──改札の手前で止まって、見送る。
構内に彼女が溶けていくのを見届けてから、僕はゆっくり踵を返した。
リビングに入ると、司令室みたいな空気がそのまま残っていた。
僕はディアとコユキを見て、核心だけ投げる。
「……なんで94階に?」
ディアが即答する。
「秀人、匿うって決めたんでしょ?」
「決めたけど。家に置くのは一時的なつもりだった。次が決まるまで、って」
コユキの軽さが少し消える。現実の顔になる。
「放っておくと、あの“精霊”は面倒が増える。……うちに置いといた方が早い」
「面倒が増える?」
コユキは一瞬だけ、耳を伏せるみたいな顔をした。
「うん。あの精霊――ルミエルの“性質”がね」
「性質?」
「清浄領域って常時スキルがある。近くにいるだけで、毒とか疲れとか、身体を蝕む系を“薄める”やつ。あと、癒泉導脈もある。回復が、じわっと続く」
僕は思い出す。昨日、早見さんの周りの空気が、妙に澄んでいたことを。
コユキは続けた。
「だから、詩織の近くにいると体調が整う。居心地がいい。無意識に『近づきたい』って思わせる。――結果、守りたい人が増える……守る人が増えたら、管理も増える。台本も増える。鎖も増える」
言葉が、冷たいほど現実的だった。
「それに、現実の外の作業はボクらじゃ手が届かない。人間の味方が一人増えるのは悪くない。――本人が“選ぶ”なら、だけど」
ディアが続ける。柔らかい声なのに、芯がある。
「“匿う”って言い方が違うのよ。あの子、ずっと隠してほしいんじゃない」
僕は黙る。
「話して分かった。あの子ね――言い方は違っても、芯は一つだった」
一拍。
「――心も体も、もっと強くなりたいって」
「……強く?」
「でもそれは、“誰かを倒したい”じゃない。守られなくても、自分の足で立てるようになりたい。そういう意味」
なるほど、と思う。
守られる檻を壊すには、檻の外で立つ力がいる。
ディアの声色が、いつもの軽さから一段落ちた。
「それにあの子、今、“一人”。孤独はね、慣れた頃にいちばん深く刺さるのよ」
その言い方が、少しだけ自分のことみたいに聞こえた。
僕は何か言いかけて、やめる。
(……ほんと、展開についていけない)
でも、事実は事実だ。
受け入れて、次を考える。それしかない。
僕は息を吐いて、頷いた。
「分かった。二人の判断を信じる。――その段取りで動こう」




