114話『避難先は、灯りのある家』
ラウンジに入ると、空気が柔らかく変わった。
ホテル特有の、よく整えられた香り。落ち着くのに、背筋が伸びる——そんな温度。
土曜の夕方なのに人は多い。
革張りの椅子に、やたら高いコーヒー。
スーツの男女が真剣な顔で向き合っているのを見て、つい余計なことを考える。
(……休日にこの値段のコーヒーで、あの顔。お見合いって決めつけるのは偏見か)
僕は端の席――壁を背にできて、通路からも少し外れた場所を選んだ。
ここなら視線が交差しにくいし、立ち上がる時も目立ちにくい。
帽子、マスク、サングラス。
完全に“不審者寄り”なのに、この場所だと不思議と薄まる。
「ここで大丈夫ですか」
彼女が小さく頷く。
さっき外で名乗り合ったときより、表情は落ち着いて見える。見えるだけだ。
近くで見ると、目が笑っていない。息の深さも、まだ浅い。
僕は先に座らず、彼女が座るのを待つ。
椅子が引かれて、布が擦れる音が小さく鳴った。
僕も腰を下ろしてから、声を落とす。
「メッセージの続きですけど……来れた時点で、もう十分です。今日は、全部話さなくていい。言える範囲だけで」
彼女はまた頷いた。
頷く動きは丁寧なのに、呼吸が追いついていない。
吸えているのに、吸えていない感じ。——そういう人を、仕事で何度も見てきた。
だから僕は、まず“状況確認”に徹する。
優しさのフリをして踏み込みすぎない。逃げ道を残したまま、言葉を置く。
「飲み物、何がいいですか。……それと、急がなくていい。落ち着けるペースで」
注文を取りに来たスタッフに短くコーヒーを頼み、彼女にも視線で確認する。
彼女は小さく頷いて、同じものを頼んだ。
指先がほんの少しだけ強張っている。
テーブルの縁を掴みかけて、やめる。掴むと崩れるって分かってる人の動きだ。
(まず、状況確認)
僕は、視線を一度だけ落とし――内側でスイッチを入れた。
解析眼。
――情報が落ちる。
状態:抑うつ傾向
言葉が目に刺さって、胃の奥が冷えた。
ただ、ここで医者みたいな顔をするつもりはない。断定もしない。
でも、引き返せる“余地”があるかもしれない――その程度の確信だけを握る。
続けて、スキル確認。
光纏結界
薄い光膜をまとい、衝撃・刃・視線干渉を一段だけ逸らす。
(護りが、薄くて強い。……必要なところだけ守るスキルか)
そして、次が目に入った瞬間――心臓が一拍、遅れた。
不老幻姿(常時)
(……同じ?)
口には出さない。出せるわけがない。
でも、ディアから借りているスキルと“同名”が、そこにある。
取得するスキルは、その人の性格や習慣、抱えてきた想いに寄る――そう僕は思っている。
だからこそ、引っかかった。
(……どうして、このスキルなんだ)
若さを保つ。老いを拒む。
それは“見られる側”の執念なのか、それとも――時間に置いていかれたくない焦りなのか。
答えを口に出す前に、僕は視線を変えた。
契約モンスター。
名前は、銀翅精霊獣ルミエル
白銀の小さな翼獣。……というより、髪や肩に溶ける“光の粒”みたいな存在。
そして、並ぶスキル群。
護光域
一定範囲の攻撃・悪意・干渉を、契約者と自身に対して“薄める”。
輝跡拘束
細い光の糸で相手の動きを止める。
光刃雨
細い光刃の雨、範囲制圧が可能。
癒泉導脈
回復効果を一定時間、周囲に持続的に与える支援スキル
(コユキも持っているスキルだ)
鏡界反射
向けられた攻撃やスキルを反射させる。反射できるのは認識できた攻撃のみ。連続使用は難しい。
清浄領域(常時発動)
契約者と自身の周囲に微細な清浄領域を展開し、毒・病・腐敗・感染・汚染など“体を蝕む系”の影響を自動的に弱体化/無効化する。無効化できる範囲は近距離で、5m以上離れると離れるほど効果が薄まる
兆光予見
契約者の周囲に走る因果の“光の筋”を読み、数分〜数日先の未来を断片的に視る予見スキル。
彼女を守るために、世界が“格”を寄せてきている気さえする。
――ディアが前に言っていた。
“他の帰還者の契約モンスターとは、別格のがいる”って。
厄介に思うスキルもある。嫌な予感が、もう一段鳴った。
『……やばそうなら、合図して』
コユキの念話が耳の奥に落ちた。
『……ああ』
僕は一度、呼吸を整えてから、問いを置いた。
「どうして……連絡先に私を選んだんですか。正直、他にも手はあったと思います」
速水さんは、テーブルの端を見て答える。
目線が逃げるのに、言葉は逃げない。
「……今、私には頼れる人がいません」
「……」
「参宮橋のことが、ずっと残ってて。黒猫仮面の……戦い方が、鮮明で」
心臓がまた、一拍だけ跳ねた。
――“黒猫仮面”と聞くだけで、身体が勝手に反応する。
彼女は視線を落としたまま、続ける。
「それで……憶測なんですけど。京都で、言葉も……耳に残ってて」
「言った言葉?」
「……“本物はあんなことしない”って。あの時、近くで聞こえて」
(……バレたかもしれない)
参宮橋の黒猫仮面と京都の僕を、彼女はまだ繋げきれていない。
でも――繋げようとしている。
体温が少し上がる。
それでも顔には出さない。
今日は“答え合わせ”をする日じゃない。守る側の顔をする日だ。
速水さんは続ける。
「私は帰還者です。でも……顔も名前も、世間に出てます。帰還者をよく思わない人が増えてるのも、分かってます」
「……うん」
その“分かってる”が、彼女をさらに沈める。
だから僕は、言い換える。
「怖いですよね。嫌われる理由が、本人の努力じゃどうにもならない」
その瞬間、速水さんの肩が小さく揺れた。
爆発じゃない。崩れ方だ。糸が切れるみたいに、静かに。
「守ってくれる人が、増えました」
涙は出ない。声だけが震える。
「でも……自由が減りました……スマホも、取り上げられました」
「スマホを?……じゃあ、今こうして私とやり取りしてるのは。どうやって?」
速水さんは、ほんの少しだけ視線を泳がせた。
言っていいのか迷う癖なのか――その迷いが、余計にリアルだった。
「……昔のやつです。全部管理されるようになってから……怖くて。捨てられなくて」
彼女は手元を見たまま、淡々と説明した。
「普段は電源切ってました。今回、家のWi-Fiに繋げて……eSIMも契約して……」
言葉だけ聞けば、沈んでいる。息も浅い。
でも――ここまで来た。
スマホを管理されて、予定を台本にされて、それでも“動く”方を選んでいる。
東京から大阪まで。深夜にDMを送って、アプリを入れて、待ち合わせに現れて。
壊れかけているのに、行動力だけはまだ折れていない。
その事実が、胸の奥に重く落ちた。
「仕事だと“正しい笑顔”が先に出ます」
そして。
「……守られてるのに、窒息します」
その言葉が落ちた瞬間、僕の中で勘が働く。
「“あなたは守られてる。だから従って”って……言われました」
速水さんは、苦笑でもない顔で言う。
「理解しました。……“守られる”は、いつでも“従え”に変わるんだって」
(保護という名の管理、先日もどこかで聞いたな……)
僕は頷くしかなかった。
否定は、できない。否定しても救えない。
「速水さん。これからどうしたいですか」
彼女の目が揺れる。
「……分からないです」
空気が、少しだけ重く沈む。
その沈黙を、無理に埋めたら壊れる気がした。
だから一拍、置いてから言う。
「……分かりました。じゃあ、ここから先は“選べる形”にします。二択です」
僕は指を一本ずつ立てる。
「一つ。話せて落ち着き、今日はここで終えるなら、終えていい」
「二つ。もう少し話すなら、スタッフの目もあるので別の場所に移動する」
速水さんは、数秒だけ迷って、二を選んだ。
「……場所を移動して、もう少し話したいです」
それだけなら、普通だ。
でも次の言葉が、想像を越えた。
「……可能なら。少しの間、匿ってほしいです」
僕は息を呑んだ。
匿う。――その単語の重さが、この場の空気を変える。
「匿うって……僕も男ですよ。匿うついでに、綺麗なアイドルと一緒にいたら、間違いを起こすかもしれない」
自分でも、軽口が雑だと思った。
でも、重さを少しだけ割りたかった。
速水さんは、ほんの一瞬だけ口角を上げた。
笑顔じゃない。でも、“崩れ切ってはいない”証拠。
「その時はその時です」
さらっと言って、肩のあたりの光が微かに揺れた。
ルミエル――なのか、彼女の感覚なのか。
「私の契約モンスターのルミエルには、“兆光予見”ってスキルがあるんです。なぜか……今は、そっちが正解って言われてる気がして」
僕は迷った。
正体がバレるリスク。家が知られるリスク。
冷静に考えれば、匿わないほうがいい。
――でも。
僕の直感が、”手を差し伸べろ”と言っていた。
それが経験則なのか、昨日手に入れた“前兆直感”の作用なのかは分からない。――でも、今は無視できない。
根拠は薄い。だけど、こういう“手を伸ばした判断”が、あとで大きな差になる。
自分の人生も、彼女の人生も――未来の選択肢が増える方向へ。
「……分かった。じゃあ移動しよう」
速水さんが小さく頷く。
「本当に、大丈夫ですか」
「大丈夫じゃなかったら、最初から言ってない」
外に出て、なるべく人目を避ける導線で移動する。
認識阻害系のスキルは、常に薄く。――“薄く”がコツだ。濃いと逆に不自然になる。
この格好で“有人”に乗るのは、リスクが増える。運転手の記憶も、車内の会話も。
だから僕は、無人タクシーを選んだ。
アプリで呼んで、番号だけ確認して、黙って乗る。それが一番“普通”に見える。
タクシーの中は無言。
「話は家についてから」
それだけ告げて、僕も視線を窓に固定した。




