112話『SideStory 速水 えりな ― 台本の中の呼吸』
5月6日、京都。
模倣犯の騒動で、会場の空気が一段冷えた。
笑顔は作れた。言葉も選べた。――でも、喉の奥に砂が残ったみたいに、息だけが軽くならなかった。
その夜、事務所は「守るため」と言って、私のスマホを預かった。
炎上対策。安全対策。スポンサー対策。
全部、正しい。
正しいのに――胸のあたりだけ、狭くなる。
***
5月7日。
起きた瞬間、枕元に“無音”があることに気づく。
通知が来ない。来るわけがない。端末がないから。
代わりに、マネージャーが紙を置く。
「今日の動き。ここね。台本、更新入ってる」
行動予定が、台本化されていく。
言い回し、角度、笑うタイミング。
“帰還者アイドル”という肩書きに、最適化された私の一日。
ルミエルが、肩のあたりで光の粒みたいに揺れた。
清浄領域のおかげで体は軽い。肌も荒れない。熱も出ない。
だから余計に――「調子が悪い」を言い訳にできない。
体は元気。
なのに、感覚だけが沈んでいく。
***
5月8日。
スポンサーが言った。
「声明動画、撮りましょう。安心材料になります」
安心材料。
誰の? 私の? それとも、企業の?
スタッフもマネージャーも、目が優しい。
善意で固められた檻は、外側からは見えない。
見えないから、逃げる理由が作れない。
「速水さん、守られてますから」
守られてる。
そう言われるたび、守られる対象が“人”じゃなく“商品”に寄っていくのを感じる。
***
5月9日。
台本の行数が増えた。
行数が増えるほど、私の自由は減った。
楽屋で鏡を見る。
鏡の中の私は、もう“正しい笑顔”を先に作れる。
怖いのは、上手になっていることだ。
ルミエルが、淡く光った。
何かを言いたいみたいに。
でも、言葉は落ちてこない。
光の筋だけが、薄く視界の端を走る。
***
5月10日。
決定打は、怒鳴り声でも圧でもなかった。
淡々とした、優しい声だった。
「あなたは守られてる。だから従って」
その言葉を聞いた瞬間、理解した。
“守られる”は、いつでも“従え”に変わる。
善意は、刃を隠すのが上手い。
息が止まる、ってこういう感じか。
実際には止まっていない。吸えている。
でも、胸の奥に空気が届かない。
***
5月11日。
控室。台本の紙の上に、無意味な丸をいくつも描いていた。
昼、決められたSNS確認の時間。
スタッフが端末を持ってくる。
使用できるのは、決められた時間だけ。
スタッフの横で画面を見る。通知は整理されている。
その中で、ひとつだけ、異物みたいに引っかかった。
Shuna――フォロー。
知らない名前。
でも、画面に出た動画が、こちらの思考を止めた。
ゲートの中。
黒猫の仮面。黒い服。迷いのない動き。
――あの人だ。
さらに、引用再投稿。
名前は「一ノ瀬」。特務班。
文章は短いのに、致命的に効く。
“特務班として、過去に接触・ご協力いただいた人物と判断しています。映像の戦闘様式も一致しており、当時名乗っていた『シュナ(Shuna)』という呼称も今回のアカウント名と合致します。現時点では本人の可能性が高いと見ています。”
喉の奥の砂が、少しだけ崩れた。
確証が一つ増えるだけで、世界の輪郭が戻る。
私は、反射みたいにフォローバックした。
これが正しいのか、危ないのか。
分からない。でも――「今、逃したら二度と掴めない」と、ルミエルの光が言っている気がした。
***
5月12日。
眠れない。
眠れないのに、肌は綺麗だ。清浄領域の皮肉。
食べ物の味がしない。
舌が壊れたわけじゃない。感覚が、遠い。
「明日の台本」を読むと、心が空っぽになる。
ページをめくるほど、私は私じゃなくなる。
呼吸はできるはずなのに、呼吸だけが浅い。
胸が上下してるだけで、どこにも届かない。
守られているのに、窒息する。
その夜、私は“古い端末”を取り出した。
壊れかけの予備。誰にも言ってない、過去の逃げ道。
SimがなくてもWi-Fiで繋がる。
ルミエルの光が、肩で一度だけ強く瞬く。
兆光予見――そんな名前の気配がした。
数分先の選択が、細い光の筋として見える。
そこにだけ、呼吸が通る。
***
5月13日 午前3時半。
画面は暗いのに、指先だけがやけに明るい。
Shuna。
フォローした相手。世界が見ている相手。
普通なら、絶対に送らない。
送った瞬間から、痕が残る。分かってる
でも――このままだと、私が先に壊れる。
私は短く打った。
考えすぎると消してしまうから、息を吐くみたいに。
「助けて欲しい。息ができない」
送信。
ルミエルが、光の粒になって髪に溶けた。
「それでいい」と言われた気がした。
スマホを隠し、布団に戻る。
守られているはずの部屋で、私は小さく丸くなる。
返事が来るかは分からない。
でも、もう一度だけ息を吸えた。
たったそれだけで――夜が少しだけ、薄くなる。




