109話『5月末へ、仕掛ける午後』
5月11日、木曜日。
目が覚めた瞬間、まず“重み”がないことに気づいた。
昨夜――確かに、背中側から抱きしめられて、そのまま意識が落ちたはずなのに。
ベッドの隣は、冷えている。
(……先に起きたのか。いや、違う。あの温度は――長くは続かない。ディアが“本体でいられる時間”には、まだ限りがある)
寝返りを打っても、シーツの端に残っているのは、かすかな体温の名残だけだ。
起き上がってリビングへ向かうと、そこに“いつもの景色”があった。
ミニチュアのディアがソファの肘掛けに腰を下ろし、コユキは耳だけ見える。
スーラはテーブルの脚にぺたりと張りつき、ユキ丸は律儀に直立していた。
「おはよ」
コユキの声は軽い。
ディアは何も言わないけど、こちらを見る目が“ちゃんと寝れた?”になっている。
返してから、まずは洗面台へ向かった。
顔を洗う。歯を磨く。そしてキッチンでお水をいっぱい。
寝起きの身体を“日常”に戻す儀式みたいなものだ。
テーブルには、簡単な朝食が用意されていた。
スープと、温めたパン。スーラがぷるん、と得意げに揺れている。
「……ありがとう。助かる」
ディアが小さく頷く。
「食べてから。今日は、一日家にいるんでしょ」
その言い方が、昨夜の抱きしめの続きみたいで――胸の奥が少し落ち着いた。
食べ終えて、コーヒーを一口。
時計を見て、息を整える。
(……よし。ここから)
僕は仕事部屋へ入った。
在宅用のPCを立ち上げ、社内VPN、チャット、メール――現実に戻るための手順を、今度はちゃんと“整った手”で踏んでいく。
そして、昨夜、上司には言った。
言ってしまった以上、次は“現場”に言わなきゃいけない。
(……竹島さんだな)
チャットの返信が一段落したタイミングで、僕は竹島さんに短くメッセージを投げた。
雑談は挟まない。挟むと、先延ばしになる。
「竹島さん、今少しだけ通話いけますか?共有したいことがあります。」
「いけます」
通話を繋ぐ。呼び出し音のあと、落ち着いた声が返った。
「はい。どうされました?」
「昨日、上司に退職の件を伝えました。すみませんが、5月末退職で引き継ぎ含め、調整に入ります」
一拍――というより、向こうの呼吸が“止まった”のが分かった。
「……5月末、ですか」
驚きはそこだった。退職そのものじゃない。日付の早さ。
「分かりました。……承知です。すぐ段取りに入れます。こちらも、受け皿を作ります」
竹島さんは切り替えが早い。でも、最初の“5月末ですか”が、少し刺さる。
社内規程だと一か月前が基本だ。法令上は二週間前――ただ、会社と本人が合意すれば、その限りじゃない。
僕は余計な感情を挟まないまま、段取りに切り替えた。
「今日このあと、僕の担当棚卸しを一度まとめます。引き継ぎは、竹島さんを軸にしつつ、リーダーに分ける予定です。誰に何を渡すか、今日中に叩き台を出します」
「承知です。時任さんが抜けた後の判断は、こちらで持ちます。だから今のうちに、判断材料と分岐だけ整理しましょう」
「はい。あと、来週と再来週で顧客訪問を営業同席で回る予定です。アポ取りは明日以降、順番に入れていきます」
「そこは助かります。お客さんの安心感も違うので」
竹島さんの返答は、現場の速度だった。
“驚く”より先に、“回す”へ行く。そういう人だ。
通話を切ると、僕はメモを開いて、タスクを引き継ぎの形に組み替え始めた。
退職後、起こるだろう火種。意思決定の基準。顧客説明の順番。――抜けても回る構造を、できるだけ早く作る。
退職は逃げじゃないと思う。
でも、“抜けるなら抜けるなりの責任の取り方”がある。
午前が終わりかけた頃、上司からチャットが落ちた。
「会社と話がついた。5月末で進めよう。退職届、今日中にPDFで送って」
(決まったな)
一ヶ月前の規定はあれど、双方が同意すれば、その限りじゃない――誰かが稟議書かいて回すのだろう。
所定の退職届フォームを引っ張り出した。
必要最低限の文言だけ残し、日付と署名、退職日。余計な理由は書かない。
印刷、サイン、スキャン――じゃなく、今はPDFで済む。
データにして送ると、指が少しだけ軽くなった。
そのまま、頭の片隅で有給残を計算する。
このペースだと、たぶん余る。全部消化したいのが本音だ。けど――
(……今は、在籍期間を伸ばしたくない)
山田玲央の洗脳事件以降、帰還者を見る目が変わった。
風向きが悪い、というより“いつ燃料が投げ込まれるか分からない”空気だ。
長居するほど、会社に余計な火種を残す。
そう思うと、割り切るしかなかった。
午後半休。
仕事を切って、椅子の背にもたれた瞬間、身体の中のスイッチが一つだけ落ちた。
リビングへ行くと、ディアが小さな皿を並べていた。
「……いつも、ありがとう」
ディアは、ふっと目を細めて笑った。
僕はスープを口に運びながら、テレビをつける。
いつもなら流し見で終わる昼のニュースが、今日は妙に刺さった。
海外でスタンピード。
場所の名前と映像が淡々と並び、アナウンサーの声だけが一定の温度で続く。
(……今日が、その日だった)
五階層が最終の小型ゲート。
未クリアのまま放置すれば、いつか溢れる――それを“いつか”じゃなく、“今日”として突きつけてくる。
日本では起きていないらしい。
それは、国の管理が行き届いていたからだ。少なくとも“今は”。
でも、世界はもう同じ地平に立っている。
食べ終えて、食器を脇に寄せる。
一息ついて、呼吸がようやく整った頃――僕は、次の現実に手を伸ばした。
「……よし」
声に出すと、コユキがぴくりと動いた。
僕はコユキ、そしてユキ丸にも視線を向ける。
「コユキ。ユキ丸。――仕掛ける」
ユキ丸が一歩前へ出る。
帽子を直す仕草が、妙に“これから仕事です”みたいで、少しだけ笑いそうになった。
「ピックアップしてたアカウント、アメリカから。それから攻略が進んでる国の順でフォローして」
コユキがすぐ噛み砕く。
「日本を先にやると、順番で推測されるから?」
「そう。本気で分析されたらアカウントを作った時のフォローの順番は確認される。どこの国、何に興味などが分かりづらくしたい」
ユキ丸の目のライトが瞬く。了解の合図。
「あと、念のため再確認。Shunaはコメントは閉じたまま。DMも――相互フォローになっても“使わない前提”で運用して。
“触れられる窓”は最小限。安全運用の思想は崩さないで」
「了解。静かなアカウント、ね」
静かに始めて、静かに広げる。
それが今の最適解だ。
それから、僕はスマホを手に取った――けど、メッセージ画面ではない。
メッセージだと文面でログが残る。
代わりに、通話を選ぶ。
柊さんへ。
呼び出し音が3回で切れて、落ち着いた声が返った。
「……時任さん?電話は珍しいですね」
「いつものようにメッセージだと履歴が残るので。短く共有だけします」
「分かりました。どうしました?」
「SNSの件です。……先に言うと、アカウントを作りました。“Shuna”の名前で」
「お作りになったんですか?大丈夫なんでしょうか」
声色が変わる。驚きというより、先に危険を拾う反射。柊さんらしい。
「コメントは止めてます。DMも基本的には、やり取りの窓口にしない方針です。また、開示請求があってもIPアドレスからでは誰かわからないようにはしています」
「……なるほど。作られた理由をお聞かせいただいてもよろしいでしょうか」
「黒猫仮面の偽物が増えています――私の名前で、私が言ってないことが“事実みたいに”流れるのが、嫌なんです。詐欺にも使われています」
柊さんが小さく息を吐く気配。
「……なるほど」
「政府内でも情報共有は必要最小限でお願いします。アカウントと私を繋げる情報は、残さない方がいいと思います」
一拍。
柊さんの返事は、仕事のそれだった。
「分かりました。こちらでも取り扱いは気をつけます。今後の動きは?」
「いずれ、管理庁と特務班の公式もフォローするつもりです。フォロバするかは、お任せします。こちらからは、時任とシュナを繋げないでということ以外は要求しません」
「分かりました。……時任さん、無茶はしないでくださいね」
「無茶はしません。――“足がつかない範囲”で動きます」
通話を切ると、リビングの空気が少しだけ戻った気がした。
ミニチュアのディアが、何も言わずに頷く。




