108話『言った夜の帰宅』
会社を出ると、夜の空気が思ったより軽かった。
新大阪のビル群は、まだ働く顔をしている。けど定時を過ぎた人の歩幅は、少しだけほどけている。
上司は先に歩きながら、振り返りもせずに言った。
「……で。あっちのベンダー。こっちは、こっちで押さえられる?」
「押さえてます。いまのところ順調です」
「相変わらずだな」
褒められてるんだろうけど、胸の奥がちくりとする。
交差点を渡って、少しだけ裏に入る。
看板が控えめで、入口が落ち着いてる店。
僕も何度か接待で使ったことがある。
料理が外さないし、個室が静かで、話が漏れにくい。
「あ、ここ……」
「知ってたか。ここなら、余計な耳がない」
上司がそう言って、店の前で一瞬だけ足を止める。
“余計な耳”――その言い方に、今日の主題が透ける。
暖簾をくぐると、案内は早かった。
通されたのは個室。静かで、聞こえてくる声も小さい。
……準備されすぎていて、逆に笑えてしまう。
乾杯して、最初の一口。
喉の熱が落ち着いたところで、上司がふっと目を細くした。
「時任くんが来て、もう……6年か」
「早いですね」
「前は上場企業で役員、だったよな」
「役員って言っても執行役員です。取締役と違って、法令上はサラリーマンですよ」
「そうだな」
上司は笑うでもなく、ただ頷く。
聞き流さない。
「東証の鐘、鳴らしたんだっけ」
「はい。あれは……運が良かったです。機会をもらえた、というだけで」
「俺でも経験したことないな」
「ただ、上場した後は――社長と何度もぶつかって。一区切りで辞めました」
「うちでも、もっと上で雇うこともできたのに、断ったよな」
「現場が良かったんです。戦略や管理は、それはそれで面白いけど……責任と圧が重いです。それに、現場には現場の楽しさがあるので」
上司が、酒を一口飲んで言う。
「……楽しそうには見えないけどな」
僕は苦笑する。
「監督やってるか、俳優やってるかの違いで。仕事には変わりないですから」
僕は、グラスの水滴を指でなぞった。
「……それに。隠さず言うと、昔みたいなワクワクはもう無いですね」
上司の目が、ほんの少しだけ細くなる。続きを促す合図だ。
「二十代とか三十代前半は、仲間と和気あいあいで、我武者羅に“登ってる”感じがありました。いまは……経験で、無難に回してる感が否めないです。失敗しないように、炎上しないように、予定通りに着地させる。そういう仕事になっています」
言い切ってから、自分で少しだけ可笑しくなる。
「悪いことじゃないんですけどね。ちゃんと回る。ちゃんと成果も出る。ただ、胸が熱くなる瞬間は……減りました」
グラスを置くと、上司が短く息を吐いた。
「……その言い方、妙にリアルだな」
「昔は、無茶に近い挑戦が“普通”だったんですよ。失敗しても取り返す前提で、仲間と夜中まで走って、“登ってる感”がずっとありました」
一拍。
「でも今は、だいたいの景色を一度見た。勝ち筋も、崩れ方も、だいたい想像がつきます。収入も生活も、ありがたいことに安定してて……だからこそ、わざわざ自分を賭けるみたいな勝負をしなくなりました」
苦笑が漏れる。
「熱くなる瞬間って、だいたい“どうなるか分からないことに賭けてる時”に出るじゃないですか。今の僕は、賭けずに上手くやってる。……それが、ちょっとだけ物足りないんだと思います」
言いながら、自分でも分かる。
二十代みたいに、手持ち全部を賭けて突っ込むことが減った。
失うものの大きさも、守るものの数も増えたし――何より、一度“上まで行った”経験があると、無茶の危うさも現実的に見えてしまう。
収入も、生活も、仕事の裁量も。
今の場所は悪くない。むしろ恵まれてる。
だからこそ、挑戦の種類が変わる。
“ゼロからの勝負”じゃなくて、“うまくいくと分かっている勝負”になる。
熱じゃなく、精度で戦う時間が増える。
上司は、そこを笑わない。
茶化さない。
ただ、グラスを置いて、目だけで促した。
「で――相談って何だ」
来た。
胃が沈む。けど、声は落とさない。
「退職を考えています」
上司は驚かない。
驚かないまま、少しだけ息を吐いた。
「……そうだろうと思ってた」
「時短の件。返答が遅くなってたのは――会社側の都合だ。すまない」
(やっぱりな。迷ってたんだろう。帰還者をどう扱うか。前例がない。上だって答えを持ってない)
「察しはつくが、退職の理由、聞いていいか」
「はい」
(退職代行、増えてる。気持ちは分かる。追い詰められて、言う余力がない時もある。でも――僕は違う。お世話になった相手には、ちゃんと自分の口で言いたい。筋だけは通したい)
ここは、感情を置かない。事実だけ、順番に置く。
「帰還者になっても、午後半休を使って仕事は続けてきました。ただ、最近のSNSやニュースを見ていると……帰還者への風当たりは、良いとは言えません」
上司は否定しない。
否定しないから、話が進む。
「もし私が帰還者だとバレたら――会社を巻き込む可能性が高い。取引先にも、現場にも」
「それは否定しない。……返答が遅くなった理由も、そこにある」
上司は、少しだけ視線を落とした。
「ゲートができて、まだ二ヶ月。世の中は……大きく変わった」
「私もそう思います」
「そのうち整備される。受け入れも進む。だが、混乱はつきものだ。突然すぎた。誰も準備できてない」
「……はい」
上司が、正直に言う。
「個人的には引き止めたい。ただ――ずっと半休を取ってることで、上層部以外でも家庭の事情とは言いつつも薄々気づいてるメンバーはいるかもしれない。バレた時のリスクを考えると、俺も軽はずみに残れとは言えない」
「……お立場、分かっています。そう言っていただけるだけで、十分です」
少し間が空いて、上司が聞いた。
「次、どうする」
「いったん、どこかに勤めるというよりは……帰還者として生計を立てます。」
一拍。グラスの氷が小さく鳴る。
「……で、退職の時期なんですが。本当は6月末、いまのプロジェクトを終えるところまでやり遂げる予定でした」
僕はそこで、言葉を選び直す。
「ただ――最近の空気を見ると、先延ばしにするほど会社に迷惑が出る気もしていて。早める判断も、現実的に考えています」
上司は頷く。現実の頷きだ。
「会社なんてな。時任は分かっていることだろうけど、優秀な人間が一人抜けたところで回る。明日抜けても、残ったメンバーと、俺が動けば……結局なんとかなる」
「……そうですね。竹島さんが大半を引き継げますし、足りないところは組織として人を当てれば、絵は描けます」
「なら――5月末で調整しよう」
早い。
早いのに、不思議と“決まっていた”感じがする。
(……もう、予想してたんだな)
上司の口ぶりから、会社側とも既に腹を割っている気配があった。
帰還者を“爆弾”と見る人間がいる――そういう現実も、たぶん当たっている。
少しだけ、胸の奥が冷える。
でも、ここで感傷に浸るのは違う。
決まるまで言わない。
混乱を招かないための、いつものやり方だ。
――「上の人は言うことがコロコロ変わる」って愚痴を、昔よく聞いた。
感情で揺れる人もいる。でも大半は、“状況が一つ変わっただけで最適解が変わる”だけだ。
僕が“6月末まで”と思っていたのが“5月末”に前倒しになるのも、その類い。正直、よくある。
だから、確定前に広げない。
先に言えば余計な憶測が走り、変わった時に現場の不満になる。――そういうのは、避けたい。
(……それで、後から“早く言ってくれ”って怒られるんだけど)
苦笑が漏れそうになって、酒で飲み込んだ。
店を出たのは、22時を少し過ぎた頃だった。
解散して、電車に乗って、家に着いたら――23時を回っていた。
鍵を開けると、玄関の灯りがやわらかい。
ユキ丸が、ちょこん、と出てくる。
帽子を外して、ホログラムが浮かぶ。
『おかえりなさい』
機械なのに、妙に胸にくるから困る。
「……ただいま」
返して、靴を脱いだ。
影の中から、コユキが出てくる。
「言えたね」
「言えた」
まずはシャワーだ。
熱い湯が肩を叩くたび、会話の一文一文が泡みたいにほどけていく。
髪を拭いて、肌を乾かして、部屋着に着替えるだけで――ようやく“今日が終わった”感覚が戻ってきた。
リビングの灯りを落として、寝室へ。
枕の位置を直して、スマホを伏せて、ベッドに沈む。
胸の奥に残る重さは、まだ消えていない。
でも――決めた。言った。進めた。
(水曜の夜に言うって、決めて。実際に言った)
その事実だけで、呼吸が少しだけ楽になる。
……と思ったところで、気配。
扉が静かに開いて、影が差し込む。
次の瞬間、背中側のマットレスがわずかに沈んだ。
ディアが、何も言わずに僕の後ろへ滑り込む。
腕が回って、背中と胸がぴたりと重なる。
抱きしめるというより、心拍を揃えるみたいに。
「……よくやったわ。今日は、ちゃんと休みなさい」
耳元の声が、優しい。
「……ああ」
返事は、それだけで十分だった。
温度に包まれて、意識がゆっくり沈む。




