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晩年こそ本番。42歳会社員、喋る猫と現代ダンジョン攻略──ここからが本番だ  作者: 七乃白 志優
第七章:守られる檻、ほどける決断

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108話『言った夜の帰宅』

会社を出ると、夜の空気が思ったより軽かった。

新大阪のビル群は、まだ働く顔をしている。けど定時を過ぎた人の歩幅は、少しだけほどけている。


上司は先に歩きながら、振り返りもせずに言った。


「……で。あっちのベンダー。こっちは、こっちで押さえられる?」


「押さえてます。いまのところ順調です」


「相変わらずだな」


褒められてるんだろうけど、胸の奥がちくりとする。


交差点を渡って、少しだけ裏に入る。

看板が控えめで、入口が落ち着いてる店。

僕も何度か接待で使ったことがある。

料理が外さないし、個室が静かで、話が漏れにくい。


「あ、ここ……」


「知ってたか。ここなら、余計な耳がない」


上司がそう言って、店の前で一瞬だけ足を止める。

“余計な耳”――その言い方に、今日の主題が透ける。


暖簾をくぐると、案内は早かった。

通されたのは個室。静かで、聞こえてくる声も小さい。

……準備されすぎていて、逆に笑えてしまう。


乾杯して、最初の一口。

喉の熱が落ち着いたところで、上司がふっと目を細くした。


「時任くんが来て、もう……6年か」


「早いですね」


「前は上場企業で役員、だったよな」


「役員って言っても執行役員です。取締役と違って、法令上はサラリーマンですよ」


「そうだな」


上司は笑うでもなく、ただ頷く。

聞き流さない。


「東証の鐘、鳴らしたんだっけ」


「はい。あれは……運が良かったです。機会をもらえた、というだけで」


「俺でも経験したことないな」


「ただ、上場した後は――社長と何度もぶつかって。一区切りで辞めました」


「うちでも、もっと上で雇うこともできたのに、断ったよな」


「現場が良かったんです。戦略や管理は、それはそれで面白いけど……責任と圧が重いです。それに、現場には現場の楽しさがあるので」


上司が、酒を一口飲んで言う。


「……楽しそうには見えないけどな」


僕は苦笑する。


「監督やってるか、俳優やってるかの違いで。仕事には変わりないですから」


僕は、グラスの水滴を指でなぞった。


「……それに。隠さず言うと、昔みたいなワクワクはもう無いですね」


上司の目が、ほんの少しだけ細くなる。続きを促す合図だ。


「二十代とか三十代前半は、仲間と和気あいあいで、我武者羅に“登ってる”感じがありました。いまは……経験で、無難に回してる感が否めないです。失敗しないように、炎上しないように、予定通りに着地させる。そういう仕事になっています」


言い切ってから、自分で少しだけ可笑しくなる。


「悪いことじゃないんですけどね。ちゃんと回る。ちゃんと成果も出る。ただ、胸が熱くなる瞬間は……減りました」


グラスを置くと、上司が短く息を吐いた。


「……その言い方、妙にリアルだな」


「昔は、無茶に近い挑戦が“普通”だったんですよ。失敗しても取り返す前提で、仲間と夜中まで走って、“登ってる感”がずっとありました」


一拍。


「でも今は、だいたいの景色を一度見た。勝ち筋も、崩れ方も、だいたい想像がつきます。収入も生活も、ありがたいことに安定してて……だからこそ、わざわざ自分を賭けるみたいな勝負をしなくなりました」


苦笑が漏れる。


「熱くなる瞬間って、だいたい“どうなるか分からないことに賭けてる時”に出るじゃないですか。今の僕は、賭けずに上手くやってる。……それが、ちょっとだけ物足りないんだと思います」


言いながら、自分でも分かる。


二十代みたいに、手持ち全部を賭けて突っ込むことが減った。

失うものの大きさも、守るものの数も増えたし――何より、一度“上まで行った”経験があると、無茶の危うさも現実的に見えてしまう。


収入も、生活も、仕事の裁量も。

今の場所は悪くない。むしろ恵まれてる。


だからこそ、挑戦の種類が変わる。

“ゼロからの勝負”じゃなくて、“うまくいくと分かっている勝負”になる。

熱じゃなく、精度で戦う時間が増える。


上司は、そこを笑わない。

茶化さない。

ただ、グラスを置いて、目だけで促した。


「で――相談って何だ」


来た。

胃が沈む。けど、声は落とさない。


「退職を考えています」


上司は驚かない。

驚かないまま、少しだけ息を吐いた。


「……そうだろうと思ってた」


「時短の件。返答が遅くなってたのは――会社側の都合だ。すまない」


(やっぱりな。迷ってたんだろう。帰還者をどう扱うか。前例がない。上だって答えを持ってない)


「察しはつくが、退職の理由、聞いていいか」


「はい」


(退職代行、増えてる。気持ちは分かる。追い詰められて、言う余力がない時もある。でも――僕は違う。お世話になった相手には、ちゃんと自分の口で言いたい。筋だけは通したい)


ここは、感情を置かない。事実だけ、順番に置く。


「帰還者になっても、午後半休を使って仕事は続けてきました。ただ、最近のSNSやニュースを見ていると……帰還者への風当たりは、良いとは言えません」


上司は否定しない。

否定しないから、話が進む。


「もし私が帰還者だとバレたら――会社を巻き込む可能性が高い。取引先にも、現場にも」


「それは否定しない。……返答が遅くなった理由も、そこにある」


上司は、少しだけ視線を落とした。


「ゲートができて、まだ二ヶ月。世の中は……大きく変わった」


「私もそう思います」


「そのうち整備される。受け入れも進む。だが、混乱はつきものだ。突然すぎた。誰も準備できてない」


「……はい」


上司が、正直に言う。


「個人的には引き止めたい。ただ――ずっと半休を取ってることで、上層部以外でも家庭の事情とは言いつつも薄々気づいてるメンバーはいるかもしれない。バレた時のリスクを考えると、俺も軽はずみに残れとは言えない」


「……お立場、分かっています。そう言っていただけるだけで、十分です」


少し間が空いて、上司が聞いた。


「次、どうする」


「いったん、どこかに勤めるというよりは……帰還者として生計を立てます。」


一拍。グラスの氷が小さく鳴る。


「……で、退職の時期なんですが。本当は6月末、いまのプロジェクトを終えるところまでやり遂げる予定でした」


僕はそこで、言葉を選び直す。


「ただ――最近の空気を見ると、先延ばしにするほど会社に迷惑が出る気もしていて。早める判断も、現実的に考えています」


上司は頷く。現実の頷きだ。


「会社なんてな。時任は分かっていることだろうけど、優秀な人間が一人抜けたところで回る。明日抜けても、残ったメンバーと、俺が動けば……結局なんとかなる」


「……そうですね。竹島さんが大半を引き継げますし、足りないところは組織として人を当てれば、絵は描けます」


「なら――5月末で調整しよう」


早い。

早いのに、不思議と“決まっていた”感じがする。


(……もう、予想してたんだな)


上司の口ぶりから、会社側とも既に腹を割っている気配があった。

帰還者を“爆弾”と見る人間がいる――そういう現実も、たぶん当たっている。


少しだけ、胸の奥が冷える。

でも、ここで感傷に浸るのは違う。


決まるまで言わない。

混乱を招かないための、いつものやり方だ。


――「上の人は言うことがコロコロ変わる」って愚痴を、昔よく聞いた。

感情で揺れる人もいる。でも大半は、“状況が一つ変わっただけで最適解が変わる”だけだ。

僕が“6月末まで”と思っていたのが“5月末”に前倒しになるのも、その類い。正直、よくある。


だから、確定前に広げない。

先に言えば余計な憶測が走り、変わった時に現場の不満になる。――そういうのは、避けたい。


(……それで、後から“早く言ってくれ”って怒られるんだけど)


苦笑が漏れそうになって、酒で飲み込んだ。


店を出たのは、22時を少し過ぎた頃だった。

解散して、電車に乗って、家に着いたら――23時を回っていた。


鍵を開けると、玄関の灯りがやわらかい。


ユキ丸が、ちょこん、と出てくる。

帽子を外して、ホログラムが浮かぶ。


『おかえりなさい』


機械なのに、妙に胸にくるから困る。


「……ただいま」


返して、靴を脱いだ。


影の中から、コユキが出てくる。


「言えたね」


「言えた」


まずはシャワーだ。

熱い湯が肩を叩くたび、会話の一文一文が泡みたいにほどけていく。

髪を拭いて、肌を乾かして、部屋着に着替えるだけで――ようやく“今日が終わった”感覚が戻ってきた。


リビングの灯りを落として、寝室へ。

枕の位置を直して、スマホを伏せて、ベッドに沈む。


胸の奥に残る重さは、まだ消えていない。

でも――決めた。言った。進めた。


(水曜の夜に言うって、決めて。実際に言った)


その事実だけで、呼吸が少しだけ楽になる。


……と思ったところで、気配。


扉が静かに開いて、影が差し込む。

次の瞬間、背中側のマットレスがわずかに沈んだ。


ディアが、何も言わずに僕の後ろへ滑り込む。

腕が回って、背中と胸がぴたりと重なる。

抱きしめるというより、心拍を揃えるみたいに。


「……よくやったわ。今日は、ちゃんと休みなさい」


耳元の声が、優しい。


「……ああ」


返事は、それだけで十分だった。

温度に包まれて、意識がゆっくり沈む。


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