107話『フル出社、そして言うべきこと』
水曜の朝だ。
久しぶりのフル出社。
昼過ぎには東京から上司が来る。
夜は飯――いや、たぶん“相談の時間”だ。
起き上がって、洗面台に向かいながら思い出す。
昨夜、Shunaのアカウントに動画を一つ投げた。
自分のスマホにはShunaのアカウントを入れていない。
運営に足がつくリスクは、ゼロじゃない。
「ユキ丸。SNSの状況、出して」
返事の代わりに、ユキ丸の帽子がすっと外れる。
空間に、淡いUIが浮かび上がった。
Shuna。
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「……静かだな」
落胆じゃない。確認だ。
いまはAIで“それっぽい動画”がいくらでも作れる時代。
バズる方が不自然である。
それにShunaのアカウントは、コメントも最初から閉じている。
DMも相互フォローしていないと送れない。
反応が薄いのは、仕様みたいなものだ。
SNSは、素人の投稿初手で跳ねないのが普通。
大事なのは“想定内”を早く確かめて、次の手を前倒しすること――仕事も同じだ。
僕がそう整理している横で、家の中がやけに忙しい。
影の端が、ちょこちょこ揺れる。コユキがせわしない。
体の感覚が一瞬だけ変わる――94階を挟んでる証拠だ。
ミニサイズのディアも、リビングと台所を行き来して、何か小声で相談している。
スーラは“手伝い係”みたいにディアのまわりをうろついて、包装の切れ端や細かいゴミをぺたり、と拾っては――ぷるん、と溶かして消していた。
(……何をそんなに詰め込んでるんだ)
聞きたい気持ちはあったけど、時計を見る。今日は出社だ。
玄関で靴を履いた瞬間、ユキ丸が、ちょこんと前に出てきた。
帽子を外す。
ふわり、と空間に文字が浮かぶ。
『いってらっしゃい』
機械っぽいのに、妙に丁寧で――だから余計に照れる。
「……いってきます」
ユキ丸のほっぺのライトが、一度だけ瞬いた。
通勤電車。
揺れに合わせて、車内の人の呼吸が波みたいに上下する。
僕は内側に声を落とした。
『朝から何してたんだ。やたら往復してたけど』
返事は早かった。
『今日はフル出社で、夜もあるでしょ。つまり、ボクとスーラは一日“影の中コース”』
『……なるほど?』
『快適パック作ってた。軽食、飲み物、タブレット、予備バッテリー。あとクッション。耳栓も入れた』
『耳栓いらないだろ』
『気分』
淡々と言い切るのが、コユキらしい。
(影の中、いまどうなってるんだ……)
生活空間みたいになってる想像が勝手に膨らむ。
でも車内だ。変な顔をしたら負けだと思って、目の焦点をあえて“広告の文字”に合わせた。
オフィスに着くと、空気が違う。
“仕事の匂い”がする。紙とコーヒーと、人の焦りが混じった匂い。
「おはようございます」
サブマネージャーの竹島さんに声をかけると、向こうも短く頷いた。
「おはようございます」
「……なんだか、こうやってオフィスで顔合わせるの久しぶりですね。休みと、画面の中ばっかりだったから」
竹島さんが小さく笑う。
「確かに。久しぶりですね」
僕は視線をフロアに流しながら、低めの声で聞く。
「新卒の三人、今なにしてます?手が空くタイミング、あるなら挨拶だけ先にしておきたくて」
「いまはリーダーのところで、今日明日の段取り聞いてます。ちょうど落ち着いてきた頃です」
「了解。じゃあ、邪魔にならないところで軽く行ってくる」
そう言って、僕はフロアの奥へ歩いた。
在宅が続くと、会議の“枠”の中だけで人と会っていた気がする。
こうして同じ空気を吸って、足音を聞いて、相手の表情の速度で会話ができる――それだけで、仕事の感覚が戻ってくる。
プロジェクトのチームの島の手前で一度立ち止まる。
先輩社員たちが数人、モニターに向かっていて、チャットの通知音が短く鳴った。
誰も大きな声は出さない。けれど、止まってもいない。静かな忙しさだ。
その輪の中に、新卒の3人がいた。
背筋が硬い。視線が忙しい。メモを取る手がやけに真面目。――いい緊張だ。
僕は、リーダーに目で合図してから、3人の横に入った。
邪魔にならない距離で、声量も抑える。
「おはよう。時任です。集団研修を終え、一昨日から本格合流、だよね」
3人が一斉にこちらを見る。
反射みたいに姿勢が揃うのが、微笑ましい。
「まず最初にひとつだけ。――焦らなくていい」
言った瞬間、三人の顔が少しだけ緩んだ。
僕は続ける。プロジェクトマネージャーとして、最初に渡すべき“地図”は決まっている。
「最初の一週間で求めるのは、“成果”より“きちんとした理解”です。分からないまま走ると、躓く。だから、分からないことを分からないと言える方が偉い」
先輩社員たちが、手を止めずに聞いている気配がした。
空気を邪魔しない範囲で、でも芯は外さない。
「困ったら、順番ね。まずはリーダー。次に竹島さん。最後に私。逆に、私に最初に来ると、たぶん遠回りになる。私は現場の手元より、全体の交通整理が仕事だから」
少しだけ、笑いが混じる。
3人が頷くのを見て、僕は最後に“効く言葉”を置いた。
「あと、これ。覚えておいて。成果を出す人は、“速い人”じゃなくて、最初は遅くても失敗してもいいから“自分で考えて回せる人”だよ。まずやってみて、結果を見て、次に直す。これを早く回せる人が伸びる。迷ったら“どこで詰まってるか”を言語化して、相談して、また回す。それができる人が、結局いちばん伸びる」
3人の頷きが、さっきより深くなる。
理解したというより、“持ち帰れる形”になった顔だ。
(……今のうちに、仕事の“回し方”だけは渡しておく。正解を暗記するより、PDCAの癖が先。現場ではそれが差になる。)
一拍置いて、視線をリーダーへ流す。
「じゃ、段取りの続きを、よろしく。僕も今日は様子見てるから」
三人にもう一度だけ頷いて、僕は踵を返した。
前に出るのは簡単だ。でも、前に出すのも技術だ。
背中側で、先輩社員の誰かが小さく言った。
「……言い方、うまいっすね」
聞こえたふりはしない。
僕は何事もなかったように、次の打ち合わせのため自席へ歩いた。
久しぶりのフロアの音が、ようやく身体に馴染んでくる。
タイピングの音、短い相談、プリンタの動く気配。――これが“いつもの現場”だ。
午前は、細かい確認と、指示の交通整理だけで過ぎていった。
昼を跨いだあたりで、空気が少し変わる。
入口側がざわつき、視線がそっちへ寄る。
来た。
東京からの上司がフロアに入ってくる。
僕と目が合って、軽く顎で合図された。
「久しぶり。後で、少し」
「承知しました」
短いやり取りなのに、心拍だけが一段上がる。
今日は言う日だ――と頭で決めていても、身体は正直だ。
上司は先に竹島さんたちへ顔を出し、案件の状況を二、三言で掴んでいく。
無駄がない。こういう人ほど、夜の“飯でも行く?”が本題だったりする。
僕は自席で資料のレビュー。顧客への連絡文の整形。
社内の確認待ちを前に進める一言。
“今日中に終わらせる”じゃなく、“明日も回る形”にしておく——そういう寄せ方を、無意識に選ぶ。
そのとき、耳の奥に落ちる声。
『……午後も働いてる。珍しい』
コユキだ。わざとらしく感心したみたいなトーン。
『失礼だな。ちゃんと働いてる。今日は半休使ってないから“ちゃんと”働く日なんだよ』
『ふーん。人間の“ちゃんと”って大変だね』
横から、ディアが少し柔らかい声で混ぜてくる。
『でも、声を聞いてから、いい顔をしてる。さっきより肩の力が抜けたわ』
(緊張はしてる。…でも、こうやって突っつかれると、変に力が抜けるんだよな)
スーラが、服の内側でそっと動いた。
シャツ――いや、インナーみたいに薄く広がって、背中と胸をふわっと支える。
……応援のつもりなのか、ただの甘えなのか。
『助かる。地味に』
『地味にじゃなくて、ちゃんと言って』
『はいはい。ありがとう、スーラ。助かってる』
内側で、ぷるん、と満足げな震え。
少しだけこそばゆい。
その小さなやり取りだけで、胸の奥の硬さが一段ゆるむ。
会議前の張り詰めた呼吸が、少しだけ“日常”に戻った。
夕方、上司が合間に僕の席へ来て、短く確認だけ落としていった。
「今日の夜、店は取ってある。定時で終われそうか?」
「はい、大丈夫です。念のため、最後に竹島さんに伝えてから出ます」
「了解。じゃ、定時で」
それだけ。
それだけなのに、背中が“分かってるよな”と言われたみたいに熱くなる。
『顔、固い』
『固くなるに決まってるだろ』
コユキが、面白がるみたいに念話を差し込んできた。
『退職代行、使わないの偉い。ちゃんと正面から言うんだもんね、秀人』
『茶化すな』
『だって今どき珍しいよ?“本人が出てきた”ってやつ』
ディアの声が、そこで静かに割って入る。
『……やめなさい。今の秀人は、笑いで逃げないで立ってるの。そこを軽くしない』
からかいじゃなくて、ちゃんと寄り添う温度だった。
それがまた、助かる。
『ふふ。……でも、逃げてない』
『……ああ』
——そうして、気づけばフロアのざわめきが少しずつ帰宅の音に変わっていく。
時計は、定時を示していた。




