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晩年こそ本番。42歳会社員、喋る猫と現代ダンジョン攻略──ここからが本番だ  作者: 七乃白 志優
第七章:守られる檻、ほどける決断

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107話『フル出社、そして言うべきこと』

水曜の朝だ。


久しぶりのフル出社。

昼過ぎには東京から上司が来る。

夜は飯――いや、たぶん“相談の時間”だ。


起き上がって、洗面台に向かいながら思い出す。

昨夜、Shunaのアカウントに動画を一つ投げた。


自分のスマホにはShunaのアカウントを入れていない。

運営に足がつくリスクは、ゼロじゃない。


「ユキ丸。SNSの状況、出して」


返事の代わりに、ユキ丸の帽子がすっと外れる。

空間に、淡いUIが浮かび上がった。


Shuna。

フォロワー:0

インプレッション:6

投稿:1

通知:なし


「……静かだな」


落胆じゃない。確認だ。

いまはAIで“それっぽい動画”がいくらでも作れる時代。

バズる方が不自然である。


それにShunaのアカウントは、コメントも最初から閉じている。

DMも相互フォローしていないと送れない。

反応が薄いのは、仕様みたいなものだ。


SNSは、素人の投稿初手で跳ねないのが普通。

大事なのは“想定内”を早く確かめて、次の手を前倒しすること――仕事も同じだ。


僕がそう整理している横で、家の中がやけに忙しい。


影の端が、ちょこちょこ揺れる。コユキがせわしない。

体の感覚が一瞬だけ変わる――94階を挟んでる証拠だ。


ミニサイズのディアも、リビングと台所を行き来して、何か小声で相談している。

スーラは“手伝い係”みたいにディアのまわりをうろついて、包装の切れ端や細かいゴミをぺたり、と拾っては――ぷるん、と溶かして消していた。


(……何をそんなに詰め込んでるんだ)


聞きたい気持ちはあったけど、時計を見る。今日は出社だ。


玄関で靴を履いた瞬間、ユキ丸が、ちょこんと前に出てきた。

帽子を外す。


ふわり、と空間に文字が浮かぶ。


『いってらっしゃい』


機械っぽいのに、妙に丁寧で――だから余計に照れる。


「……いってきます」


ユキ丸のほっぺのライトが、一度だけ瞬いた。


通勤電車。

揺れに合わせて、車内の人の呼吸が波みたいに上下する。


僕は内側に声を落とした。


『朝から何してたんだ。やたら往復してたけど』


返事は早かった。


『今日はフル出社で、夜もあるでしょ。つまり、ボクとスーラは一日“影の中コース”』


『……なるほど?』


『快適パック作ってた。軽食、飲み物、タブレット、予備バッテリー。あとクッション。耳栓も入れた』


『耳栓いらないだろ』


『気分』


淡々と言い切るのが、コユキらしい。


(影の中、いまどうなってるんだ……)


生活空間みたいになってる想像が勝手に膨らむ。

でも車内だ。変な顔をしたら負けだと思って、目の焦点をあえて“広告の文字”に合わせた。


オフィスに着くと、空気が違う。

“仕事の匂い”がする。紙とコーヒーと、人の焦りが混じった匂い。


「おはようございます」


サブマネージャーの竹島さんに声をかけると、向こうも短く頷いた。


「おはようございます」


「……なんだか、こうやってオフィスで顔合わせるの久しぶりですね。休みと、画面の中ばっかりだったから」


竹島さんが小さく笑う。


「確かに。久しぶりですね」


僕は視線をフロアに流しながら、低めの声で聞く。


「新卒の三人、今なにしてます?手が空くタイミング、あるなら挨拶だけ先にしておきたくて」


「いまはリーダーのところで、今日明日の段取り聞いてます。ちょうど落ち着いてきた頃です」


「了解。じゃあ、邪魔にならないところで軽く行ってくる」


そう言って、僕はフロアの奥へ歩いた。

在宅が続くと、会議の“枠”の中だけで人と会っていた気がする。

こうして同じ空気を吸って、足音を聞いて、相手の表情の速度で会話ができる――それだけで、仕事の感覚が戻ってくる。


プロジェクトのチームの島の手前で一度立ち止まる。

先輩社員たちが数人、モニターに向かっていて、チャットの通知音が短く鳴った。

誰も大きな声は出さない。けれど、止まってもいない。静かな忙しさだ。


その輪の中に、新卒の3人がいた。

背筋が硬い。視線が忙しい。メモを取る手がやけに真面目。――いい緊張だ。


僕は、リーダーに目で合図してから、3人の横に入った。

邪魔にならない距離で、声量も抑える。


「おはよう。時任です。集団研修を終え、一昨日から本格合流、だよね」


3人が一斉にこちらを見る。

反射みたいに姿勢が揃うのが、微笑ましい。


「まず最初にひとつだけ。――焦らなくていい」


言った瞬間、三人の顔が少しだけ緩んだ。

僕は続ける。プロジェクトマネージャーとして、最初に渡すべき“地図”は決まっている。


「最初の一週間で求めるのは、“成果”より“きちんとした理解”です。分からないまま走ると、躓く。だから、分からないことを分からないと言える方が偉い」


先輩社員たちが、手を止めずに聞いている気配がした。

空気を邪魔しない範囲で、でも芯は外さない。


「困ったら、順番ね。まずはリーダー。次に竹島さん。最後に私。逆に、私に最初に来ると、たぶん遠回りになる。私は現場の手元より、全体の交通整理が仕事だから」


少しだけ、笑いが混じる。

3人が頷くのを見て、僕は最後に“効く言葉”を置いた。


「あと、これ。覚えておいて。成果を出す人は、“速い人”じゃなくて、最初は遅くても失敗してもいいから“自分で考えて回せる人”だよ。まずやってみて、結果を見て、次に直す。これを早く回せる人が伸びる。迷ったら“どこで詰まってるか”を言語化して、相談して、また回す。それができる人が、結局いちばん伸びる」


3人の頷きが、さっきより深くなる。

理解したというより、“持ち帰れる形”になった顔だ。


(……今のうちに、仕事の“回し方”だけは渡しておく。正解を暗記するより、PDCAの癖が先。現場ではそれが差になる。)


一拍置いて、視線をリーダーへ流す。


「じゃ、段取りの続きを、よろしく。僕も今日は様子見てるから」


三人にもう一度だけ頷いて、僕は踵を返した。

前に出るのは簡単だ。でも、前に出すのも技術だ。


背中側で、先輩社員の誰かが小さく言った。


「……言い方、うまいっすね」


聞こえたふりはしない。

僕は何事もなかったように、次の打ち合わせのため自席へ歩いた。


久しぶりのフロアの音が、ようやく身体に馴染んでくる。

タイピングの音、短い相談、プリンタの動く気配。――これが“いつもの現場”だ。


午前は、細かい確認と、指示の交通整理だけで過ぎていった。

昼を跨いだあたりで、空気が少し変わる。

入口側がざわつき、視線がそっちへ寄る。


来た。


東京からの上司がフロアに入ってくる。

僕と目が合って、軽く顎で合図された。


「久しぶり。後で、少し」


「承知しました」


短いやり取りなのに、心拍だけが一段上がる。

今日は言う日だ――と頭で決めていても、身体は正直だ。


上司は先に竹島さんたちへ顔を出し、案件の状況を二、三言で掴んでいく。

無駄がない。こういう人ほど、夜の“飯でも行く?”が本題だったりする。


僕は自席で資料のレビュー。顧客への連絡文の整形。

社内の確認待ちを前に進める一言。

“今日中に終わらせる”じゃなく、“明日も回る形”にしておく——そういう寄せ方を、無意識に選ぶ。


そのとき、耳の奥に落ちる声。


『……午後も働いてる。珍しい』


コユキだ。わざとらしく感心したみたいなトーン。


『失礼だな。ちゃんと働いてる。今日は半休使ってないから“ちゃんと”働く日なんだよ』


『ふーん。人間の“ちゃんと”って大変だね』


横から、ディアが少し柔らかい声で混ぜてくる。


『でも、声を聞いてから、いい顔をしてる。さっきより肩の力が抜けたわ』


(緊張はしてる。…でも、こうやって突っつかれると、変に力が抜けるんだよな)


スーラが、服の内側でそっと動いた。

シャツ――いや、インナーみたいに薄く広がって、背中と胸をふわっと支える。

……応援のつもりなのか、ただの甘えなのか。


『助かる。地味に』


『地味にじゃなくて、ちゃんと言って』


『はいはい。ありがとう、スーラ。助かってる』


内側で、ぷるん、と満足げな震え。

少しだけこそばゆい。


その小さなやり取りだけで、胸の奥の硬さが一段ゆるむ。

会議前の張り詰めた呼吸が、少しだけ“日常”に戻った。


夕方、上司が合間に僕の席へ来て、短く確認だけ落としていった。


「今日の夜、店は取ってある。定時で終われそうか?」


「はい、大丈夫です。念のため、最後に竹島さんに伝えてから出ます」


「了解。じゃ、定時で」


それだけ。

それだけなのに、背中が“分かってるよな”と言われたみたいに熱くなる。


『顔、固い』


『固くなるに決まってるだろ』


コユキが、面白がるみたいに念話を差し込んできた。


『退職代行、使わないの偉い。ちゃんと正面から言うんだもんね、秀人』


『茶化すな』


『だって今どき珍しいよ?“本人が出てきた”ってやつ』


ディアの声が、そこで静かに割って入る。


『……やめなさい。今の秀人は、笑いで逃げないで立ってるの。そこを軽くしない』


からかいじゃなくて、ちゃんと寄り添う温度だった。

それがまた、助かる。


『ふふ。……でも、逃げてない』


『……ああ』


——そうして、気づけばフロアのざわめきが少しずつ帰宅の音に変わっていく。

時計は、定時を示していた。


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