103話『保護という名の制御』
月曜日。連休明け。
窓の外は静かで、住宅街はいつも通りの顔をしている。
昨日までの“祝日”が、ふっと薄まって――代わりに、平日の輪郭だけがくっきりする。
(……連休、終わったんだな)
胸の奥に、薄い鎧みたいなものが勝手に貼りつく。
着た覚えはないのに、脱げないやつだ。
――それに、スマホの向こうはまだ燃えている。
コユキはユキ丸を引き連れ朝から94階に行っている。
ディアはミニサイズでソファの背に腰掛けて、髪を指で整えた。
「そろそろ仕事、始める?」
「うん。……始めないと」
言いながら、部屋を移動する。
キーボードに指を置くと、指先だけ先に“会社”へ戻る感じがした。
僕はPCを立ち上げる。
――今日は、新卒の受け入れ初日だ。
直接の対応は、サブマネージャーの竹島さんと各リーダーが回してくれる。
でも、顔を出さないわけにはいかない。
予定のWEB会議に入ると、画面の向こうは少し緊張した空気だった。
研修上がり特有の、姿勢が良すぎる感じ。
「おはようございます。今日からよろしくお願いします。時任です」
短く名乗って、表情だけ柔らかくする。
“柔らかく”って言っても、口角を少しだけ上げるだけだ。
それでも相手の肩がほんの少し落ちる。こういうのが、一番効く。
「まずは、竹島さんとリーダーの話を、よく聞いてください。分からないことは、その場で聞く。それが一番早い。――遠慮は後でいい。最初の一ヶ月だけは、恥を捨ててください」
画面の端で竹島さんが小さく頷くのが見えた。助かる。
「水曜日は、僕もオフィスに行きます。そこでまた、直接顔合わせしましょう」
“水曜は出社する”と口に出すと、腹の中で何かが固まる。
仕事の予定が一つ、現実に刺さる感覚。
挨拶を終えて、PCの前に戻る。
連休で鈍った感覚を、キー入力と返信のテンポで上書きしていく。
仕事の筋肉が、目を覚ます。
一段落したところで、僕は上司に短くメッセージを送った。
「少し、相談したいことがありまして。今週どこかでお時間いただけないでしょうか」
退職、とは書かない。
でも、温度だけは乗せた。
“軽い雑談”で済ませる話じゃない、という温度。
送った直後、既読が付くのが早い。
少しして返ってきた。
「了解。水曜、そっちに行くわ。ついでに夜、飯でも行く? 久々に話そう」
僕は画面を見たまま、息を一つ吐いた。
吐いた息の量だけ、腹が決まっていく。
水曜。来る。
夜、飯。
ちょうど出社予定日だ。
むしろ、腹を決めるには都合がいい。
「承知しました。水曜は私もオフィスに出社予定です。夜も行きましょう。久々にお話したいです」
送信。
(……水曜、フルで出て。夜も行くか)
腹が決まる、というより。
腹を決めないと、前に進めない類の予定が、カレンダーに固定された感覚だった。
そして、時計を見る。
午前の残り時間が、ちゃんとある。
なら、やることをやるだけだ。
そこからは、メール、チャット、タスク。
溜まっていたものを、順に片付けていく。
気づけば、午前が終わっていた。
(……14時30分。政府のWEB会議)
その文字が、頭の片隅で重りみたいに居座る。
重りのくせに、やけに角が立っている。
でも今は、いったん昼だ。
リビングに行くと、すでに匂いがしていた。
温かい出汁。炊けた米。
卓の上には、簡単な昼が並んでいる。
ディアが、ミニサイズのままテーブルの上にちょこんと乗っていた。
「できてるわよ。今日は“脳を疲れさせない昼”」
「ありがとう。助かる」
スーラがぺたり。
僕が手を伸ばすと、ぷるん、と小さく揺れた。
2階からコユキの声が落ちる。
「ボクもお昼食べる」
僕は椅子に座って、箸を取った。
画面の光から目を外すだけで、目の奥の熱が少し引いていく。
ディアが、さらっと言う。
「午後のこと考えるのは、食べてから。今は食を楽しんで」
「……了解」
昼の温度で、いったん身体を“通常仕様”に戻してから――
次の重さに向き合う。
14時30分。政府のWEB会議。
指定URLから接続すると、画面が分割される。
自宅PCのカメラの外。見えない位置に、ディアとコユキ、スーラとユキ丸。
余計な気配は、全部、隠した。
先に映ったのは、見慣れた顔。
八代さん、九条さん、柊さん。
そしてもう一人、初対面の男性がいた。
スーツの整い方が違う。画面越しでも、こちらの背筋を起こさせる圧がある。
目が笑っていない――じゃない。笑う必要がない目だ。
九条さんが紹介する。
「時任、初めてだな。篠宮さん。官房側の参事官。危機管理と広報まわりの調整役だ」
篠宮さん。
画面越しでも、“こちらを測ってる”圧があった。
測っているのは能力じゃない。――折れるか、折れないか。たぶんそこだ。
僕は軽く会釈して、あえて雑談に寄せた。
「今日は対面じゃないんですね。珍しいなと」
九条が肩をすくめる。
「俺らも本当は対面がよかった。けど今は動きづらい。洗脳の件以降、基本はWEB。施設に来てもらうのもリスクだ」
場を硬くしないように空気を作りながら答えてくれる。九条さんらしい。
それから、雑談の温度を残したまま、話を切り替えた。
「……で。本題。首輪の件だが。単価、120万円。これで正式に手配したい」
一瞬、身構えた。
値下げだの、追加条件だの――“役所の交渉”が来ると思っていたからだ。
でも九条の声は、淡々としていて、迷いがない。
(……思ったより早いな)
「問題ありません。条件通りで」
言い切ると、柊さんが次を重ねる。
「サイズ違いを各10個。計40個。先に確保したいです」
僕は一拍置いて、数字を頭の中で数えた。
120万 × 40。
……4800万円。
「……四千八百万円、ですね」
思ったより声が平坦に出た。
平坦に出るのが、余計に重い。
心臓の鼓動だけが、やけにうるさい。
八代さんが、先に言葉を継ぐ。
「もう国内だけの話ではありません。現物を確保しているという事実そのものが、海外に対する説明材料――交渉カードになります」
続けて、柊さんが補足する。少しだけ眉間に力が入っていた。
「加えて、今は偽物が出回っています。効く効かない以前に、情報が混ざって混乱が広がっています。線引きを示す意味でも、政府管理の“本物”が必要になります」
偽物。
スキル封じ首輪だの、対策ネックレスだの。
あれが“本物の代用品”として売れてしまう現実が、いちばん嫌だ。
九条さんが確認してくる。
「“本物の首輪は政府管理”として公表していいか」
「お願いします。……正直、私も偽物が回るのは良く思ってません」
「わかった。政府として公表する」
そこで話題は自然に、動画の件へ滑った。
僕から切り出す。
「発端となった黒猫仮面の動画。流出元は、掴めていますか」
九条さんが首を振る。
「難航してる。運営に開示をかけて、IPまでは取れた。……が、海外経由。匿名性の高い経路で回され、追い切れない」
“IPは取れるが追えない”。
その一文が、胃に残った。
ディアの声が、耳の奥で静かに落ちる。
『予想していた通りね』
僕は頷きたいのを堪えて、画面に戻る。
画面の端で、篠宮参事官が微動だにしない。
カメラ越しでも分かる。頷きもしない。表情も崩さない。
――最初に九条さんが紹介した時、僕は“厄介な話が混ざるかも”くらいには思った。
でも、ここまで黙っていると逆に、話が終わってしまったような錯覚がある。
このまま首輪の数量と公表の段取りで、会議が畳まれる――そんな空気。
だから。
次に聞こえた声が、少し遅れて刺さった。
「時任さん」
淡々とした声。温度がないわけじゃない。
ただ、感情を材料にしていない声。
篠宮さんが、口を開いた。
「ここから先は、“身辺保護”の話です。あなたにとっては初耳かもしれませんが――提案として聞いてください」
僕は瞬きだけして、頷いた。
構え直すほどじゃない。……と思いたかった。
「移動、通信、接触。いくつか制限を設けたい。あなたの安全のためです」
予想の棚にはあった。
でも、今日このタイミングで投げてくるとは思っていなかった。
僕は、怒った“ふり”をする。
感情はある。けれど今ここで必要なのは、感情の発散じゃない。
相手の提案を“監視”として定義し直すこと――それが交渉の最初の一手だ。
怒鳴れば負ける。
冷静さを保ったまま、言葉だけで相手の立ち位置をずらす。
「それ、身辺保護という名の監視ですよね」
篠宮の眉が、ほんのわずかに動く。
僕は続ける。
「僕は自衛できます。――、具体的に“何から”保護する想定ですか。想定が曖昧だと、制限だけが先に立ちます」
篠宮さんは言い返さない。
言い返さないまま、圧だけを置く。
「今の君の立場が分かっているのか」
脅し。圧。
それ自体は、交渉材料になる。
一拍置いて、聞き返す。
「……どういう“立場”でしょうか」
篠宮さんが、淡々と答える。
まるで、最初から用意していた文章みたいに。
「帰還者として国家の管理対象です。あなたの行動一つで、国内の治安と外交が揺れる。だから、保護が必要だと言っている」
――管理対象。
言い方は丁寧でも、意味は“監視したい”だ。
「保護、という名目で。移動、通信、接触を縛る。それは“安全のため”ですか。それとも“制御のため”ですか」
一瞬だけ、九条さんの目が動く。
柊さんは表情を変えない。八代さんは、静かに見ている。
篠宮さんは、答えを曖昧にしない。
「区別する必要はない。どちらも同じです。国としての責任だ」
……なるほど。
そう言い切るなら、こちらも“国が困る形”を提示できる。
ここで初めて、僕はカードを机の上に置いた。
「分かりました。では、こちらも“選択肢”を提示します。首輪の販売――止めることもできます」
言葉が落ちた瞬間、会議の温度が一段変わった。
画面の向こうの誰かが、息を飲む。音は拾えないのに、分かる。
九条さんが眉間を押さえる気配。
“おい”と言いたいのを我慢してる顔。
僕はさらに、損失を見せるだけの言葉を置いた。
「あと……大阪にも米国総領事館があるのも知ってます。亡命も、“選択肢”にはなりますよね」
……もちろん本気じゃない。
でも、“失うもの”を見せれば、人は現実に戻る。
九条さんが割って入る。
「……もういい。時任、お前もそこまでだ」
八代さんが篠宮さんへ、釘を刺すように言う。
「必要なのは時任君の力です。拗らせるなら、責任が発生しますよ」
画面の空気が、政府の中の力学になった。




