100話『本物は、ああいうことはしない』
客席の空気が、ぴたりと止まる。
笑いも、咳払いも、どこかへ消えたみたいに。
京都・岡崎。
外は相変わらず、連休の人波なのに――ホールの中だけが、急に“現実”へ引き戻された。
ディアの影越しに、僕は最前列の男を見ていた。
安いプラの黒猫仮面。軽いベルト式の“首輪もどき”。
叫び声は大きいのに、作りは薄い。
警備が動く。
客席がざわつく。
スマホがいくつも上がる。
『……愉快犯ね』
コユキの声が念話で届く。
男が取り押さえられて、腕を捻られて――
壇上の熱が、一気に冷え、拍手の代わりに、ざわめきだけが残る。
僕の口が、勝手に言った。
「……本物は、ああいうことはしないんだけどな」
次の瞬間。
『秀人』
ディアの声が低く落ちて、共有がぶつりと切れた。
視界が戻る。
ホールじゃない。京都の風。外の空気。明るい日差し。
――近い。
目の前を、二人が通り過ぎた。
速水えりな。
そして、ナナ。
速水が、ほんの一拍だけ足を緩める。
こちらへ視線が流れ――そこで、目が合った。
次の瞬間、彼女は笑った。
営業用みたいに綺麗な、そして“何も渡さない”種類の笑顔。
(……今の、聞こえた?)
喉の奥が、冷える。
共有された視界に意識を全部持っていかれて、自分の“本体”がどこに立ってるか、把握してなかった。
二人は何事もなかったように、通り過ぎていく。
足取りは速い。
自分で自分に呆れる。
会議中に資料ばかり追って、肝心の相手の表情を見落とす――あれに近い。
ひとつに集中した瞬間、別の“当たり前”が抜ける。最悪だ。
『……移動しよう』
僕は、その場に立ち尽くすのをやめた。
建物の縁を回って、人の波から静かに離れる。
そのまま隣の公園の方へ歩いた。
木陰があって、観光客の声が少しだけ柔らかい場所。
ベンチを見つけて腰を下ろす。
肩から力を抜く……ふりだけする。
(……落ち着け)
息を吐いて、吸う。
喉の冷えは、まだ残っている。
そのタイミングで、影の中からコユキの声が落ちた。
『今のは危ない』
『分かってる……。独り言、禁止だな』
『気をつけて』
刺さる。正しい。
ディアが短く言う。
『もう一度、繋ぐわ。今度は足元も意識して』
『頼む』
再び、ディアの影の視界。
今度は、二階席の手すり沿い――客席全体が見える位置。
舞台も、客席も、出口の導線も、ひとつの画に入る。
舞台の上。
白石悠真が、空気を戻していた。
「えー、皆さん。もう大丈夫です。対応は終わりました。座ったままでお願いします」
鷹城慎吾が一歩前に出る。
視線が客席をなぞるというより、出口と導線を確認している。
「落ち着いてください。立たない。走らない。撮影も今はやめましょう。……転倒が一番危ない」
現実の言葉だ。
刺激じゃなく、安全の言葉。客席の心拍を下げる言い方。
(この二人、役割が分かれてる)
そして――少し遅れて。
速水とナナが戻ってきた。
戻らないと憶測が膨らむ。
だから“戻るしかない”空気があった。
白石が、場を整えるように笑う。
「お帰りなさい。大丈夫です、もう落ち着いてます」
速水が小さく頷く。
笑顔は崩れていない。でも、呼吸の間だけは少し固い気がする。
ナナは、表情が薄い。
薄いのに、目だけが周りを見ている。
トークは再開した。
テーマは安全、生活、現実。
白石は炎上の燃料にならない線だけをなぞり、観客が求める刺激は“別の場所”へ逃がしている。
……それでも、客席が求めるものは分かりやすい。
結局、触れざるを得なくなる。
白石が言葉を選びながら、例の話題を出した。
「……で、最近は“黒猫仮面”の話も、いろいろ飛んでますが。今日の会場にも、さっきのような方がいらっしゃいましたね」
客席が息を呑む。
そこで、白石は速水へ振った。
逃げ道を作る形で。
「速水さん、怖かったですよね。……でも、あれって“本物”とは別だと思いますか?」
速水は一拍だけ置いて、言った。
「あの日、現場にいた身としては……本物は、ああいうことはしない方だと思います」
僕の胃が、ひやりと落ちた。
(……言った。僕と、同じことを)
偶然一致か。
それとも――やっぱり聞かれたのか。
速水の目は落ち着いている。
“誰かの言葉をそのまま引用した”感じじゃない。
あくまで自分の判断として丸めて出している。
だから余計に、分からない。
イベントは、最後まで“成立”した。
拍手も出た。笑いも戻った。
何事もなかったように――終わる。
帰りの電車。
僕はスマホを開かない。
今日は、余計な情報で自分を削りたくなかった。
代わりに、念話で話す。
『……バレたかな』
ディアが、即答しない。
『断定はしない。けれど、言葉を“拾われた可能性”はあるわ』
コユキが、現実的に刺す。
『独り言、聞こえてたかも。速水の台詞、タイミングが良すぎる』
『偶然の可能性もあるだろ』
『ある。でも、都合よく信じると事故る』
『……そうだよな』
言い返しながら、窓の外を見た。
京都から大阪にかけての景色が流れていく。綺麗なのに、頭の中だけざらついている。
帰宅。
玄関で靴を脱いだ瞬間、服の内側がぷるん、と動いた。
スーラだ。
「お疲れさま、ってこと?」
ぷるん。
スーラは床へぺたり、と降りて、玄関の隅の埃をぺたぺた回収し始めた。
小さなゴミを取り込むたび、ぷるっと形が変わる。
「……家政婦」
コユキが、影から出てきて言う。
スーラが、ちょっとだけ膨らんだ。
褒められた顔。
ディアはブレスレットから出て、台所へ向かった。
「シャワー。先に浴びてきなさい」
「了解」
シャワーで汗と気持ちのざらつきを落とす。
戻ると、食卓にはディアの料理。
食後。
ニュースをつけると、画面はずっと“注意喚起”の話をしていた。
落ち着け、と言っているのに、落ち着かない日だ。
「不確かな情報に注意」
「帰還者を名乗る詐欺や、便乗した悪質商法に警戒」
「混乱を招く行為は控えて、異常を見たら通報を」
言葉は穏やかだ。
でも、穏やかに言わないといけない時点で、世の中はもう張りつめている。
“怪しい”だけで警察を呼ぶ。
スマホを向ける。
あとをつける。
そういう行動が増えている、とニュースは遠回しに伝えていた。
ディアが淡々と言う。
「世界は、怖がると簡単に歪むのね」
次の話題は、海外の反応だった。
米中が、首輪の“仕組み”に関心を示している。
――どうやって能力を封じるのか。
――安全に拘束して、必要なら解除できるのか。
その運用まで含めて、情報が欲しいという匂わせだ。
遠回しな言葉のまま、日本へ圧力をかけてるコメントが流れる。
コメンテーターは言葉を選びながら、同じことを繰り返していた。
(……そりゃ、欲しがるよな)
僕はチャンネルを変えずに、そのまま見ていた。
そのあと、検索。
通販サイトに“黒猫仮面”が溢れていた。
偽物の首輪も、対策アクセサリーも、全部一緒くた。
そして、気づく。
首輪は偽物だ。効かない。
仮面は――ただのプラスチック。
「仮面には本物も偽物もないな、これ」
「誰でも黒猫仮面になれる。ヒーローごっこ。子どもと同じ」
コユキが言って、空気が少し冷える。
「……身元を完全に隠したまま、“本物”だってSNSで示す方法、ないのかな」
ディアが即答する。
「ネットは足が付くわ。IP、端末、回線。海外のプラットフォームなら、その国が本気で探せば追える」
「……え、ディア。そこまで知ってるの?」
僕が思わず言うと、ディアは平然としていた。
「必要なら覚えるわ。あなたの世界で生きるなら、そのくらいの理解はいるでしょう」
「……頼もしいけど、さらっと怖いな」
コユキが少しだけ考えてから言う。
「レグリスなら、何かできるかも」
「でも、レグリスはまだ外に出られないだろ」
「出られなくても、お願いしてることもあるし、できるかもしれない。……本人に聞く」
ディアが言う。
「明日、戻る日ね」
「……明日だな」
不安は消えない。
でも、今夜も――家に明かりがある。
僕は息を吐いて、明日の段取りだけを頭の端に置いた。




