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晩年こそ本番。42歳会社員、喋る猫と現代ダンジョン攻略──ここからが本番だ  作者: 七乃白 志優
第七章:守られる檻、ほどける決断

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100話『本物は、ああいうことはしない』

客席の空気が、ぴたりと止まる。

笑いも、咳払いも、どこかへ消えたみたいに。


京都・岡崎。

外は相変わらず、連休の人波なのに――ホールの中だけが、急に“現実”へ引き戻された。


ディアの影越しに、僕は最前列の男を見ていた。

安いプラの黒猫仮面。軽いベルト式の“首輪もどき”。

叫び声は大きいのに、作りは薄い。


警備が動く。

客席がざわつく。

スマホがいくつも上がる。


『……愉快犯ね』


コユキの声が念話で届く。


男が取り押さえられて、腕を捻られて――

壇上の熱が、一気に冷え、拍手の代わりに、ざわめきだけが残る。


僕の口が、勝手に言った。


「……本物は、ああいうことはしないんだけどな」


次の瞬間。


『秀人』


ディアの声が低く落ちて、共有がぶつりと切れた。


視界が戻る。

ホールじゃない。京都の風。外の空気。明るい日差し。


――近い。


目の前を、二人が通り過ぎた。


速水えりな。

そして、ナナ。


速水が、ほんの一拍だけ足を緩める。

こちらへ視線が流れ――そこで、目が合った。


次の瞬間、彼女は笑った。

営業用みたいに綺麗な、そして“何も渡さない”種類の笑顔。


(……今の、聞こえた?)


喉の奥が、冷える。

共有された視界に意識を全部持っていかれて、自分の“本体”がどこに立ってるか、把握してなかった。


二人は何事もなかったように、通り過ぎていく。

足取りは速い。


自分で自分に呆れる。

会議中に資料ばかり追って、肝心の相手の表情を見落とす――あれに近い。

ひとつに集中した瞬間、別の“当たり前”が抜ける。最悪だ。


『……移動しよう』


僕は、その場に立ち尽くすのをやめた。

建物の縁を回って、人の波から静かに離れる。


そのまま隣の公園の方へ歩いた。

木陰があって、観光客の声が少しだけ柔らかい場所。


ベンチを見つけて腰を下ろす。

肩から力を抜く……ふりだけする。


(……落ち着け)


息を吐いて、吸う。

喉の冷えは、まだ残っている。


そのタイミングで、影の中からコユキの声が落ちた。


『今のは危ない』


『分かってる……。独り言、禁止だな』


『気をつけて』


刺さる。正しい。


ディアが短く言う。


『もう一度、繋ぐわ。今度は足元も意識して』


『頼む』


再び、ディアの影の視界。


今度は、二階席の手すり沿い――客席全体が見える位置。

舞台も、客席も、出口の導線も、ひとつの画に入る。


舞台の上。

白石悠真が、空気を戻していた。


「えー、皆さん。もう大丈夫です。対応は終わりました。座ったままでお願いします」


鷹城慎吾が一歩前に出る。

視線が客席をなぞるというより、出口と導線を確認している。


「落ち着いてください。立たない。走らない。撮影も今はやめましょう。……転倒が一番危ない」


現実の言葉だ。

刺激じゃなく、安全の言葉。客席の心拍を下げる言い方。


(この二人、役割が分かれてる)


そして――少し遅れて。


速水とナナが戻ってきた。

戻らないと憶測が膨らむ。

だから“戻るしかない”空気があった。


白石が、場を整えるように笑う。


「お帰りなさい。大丈夫です、もう落ち着いてます」


速水が小さく頷く。

笑顔は崩れていない。でも、呼吸の間だけは少し固い気がする。


ナナは、表情が薄い。

薄いのに、目だけが周りを見ている。


トークは再開した。

テーマは安全、生活、現実。

白石は炎上の燃料にならない線だけをなぞり、観客が求める刺激は“別の場所”へ逃がしている。


……それでも、客席が求めるものは分かりやすい。


結局、触れざるを得なくなる。


白石が言葉を選びながら、例の話題を出した。


「……で、最近は“黒猫仮面”の話も、いろいろ飛んでますが。今日の会場にも、さっきのような方がいらっしゃいましたね」


客席が息を呑む。


そこで、白石は速水へ振った。

逃げ道を作る形で。


「速水さん、怖かったですよね。……でも、あれって“本物”とは別だと思いますか?」


速水は一拍だけ置いて、言った。


「あの日、現場にいた身としては……本物は、ああいうことはしない方だと思います」


僕の胃が、ひやりと落ちた。


(……言った。僕と、同じことを)


偶然一致か。

それとも――やっぱり聞かれたのか。


速水の目は落ち着いている。

“誰かの言葉をそのまま引用した”感じじゃない。

あくまで自分の判断として丸めて出している。


だから余計に、分からない。


イベントは、最後まで“成立”した。

拍手も出た。笑いも戻った。


何事もなかったように――終わる。


帰りの電車。


僕はスマホを開かない。

今日は、余計な情報で自分を削りたくなかった。


代わりに、念話で話す。


『……バレたかな』


ディアが、即答しない。


『断定はしない。けれど、言葉を“拾われた可能性”はあるわ』


コユキが、現実的に刺す。


『独り言、聞こえてたかも。速水の台詞、タイミングが良すぎる』


『偶然の可能性もあるだろ』


『ある。でも、都合よく信じると事故る』


『……そうだよな』


言い返しながら、窓の外を見た。

京都から大阪にかけての景色が流れていく。綺麗なのに、頭の中だけざらついている。


帰宅。


玄関で靴を脱いだ瞬間、服の内側がぷるん、と動いた。

スーラだ。


「お疲れさま、ってこと?」


ぷるん。


スーラは床へぺたり、と降りて、玄関の隅の埃をぺたぺた回収し始めた。

小さなゴミを取り込むたび、ぷるっと形が変わる。


「……家政婦」


コユキが、影から出てきて言う。


スーラが、ちょっとだけ膨らんだ。

褒められた顔。


ディアはブレスレットから出て、台所へ向かった。


「シャワー。先に浴びてきなさい」


「了解」


シャワーで汗と気持ちのざらつきを落とす。

戻ると、食卓にはディアの料理。


食後。


ニュースをつけると、画面はずっと“注意喚起”の話をしていた。

落ち着け、と言っているのに、落ち着かない日だ。


「不確かな情報に注意」

「帰還者を名乗る詐欺や、便乗した悪質商法に警戒」

「混乱を招く行為は控えて、異常を見たら通報を」


言葉は穏やかだ。

でも、穏やかに言わないといけない時点で、世の中はもう張りつめている。


“怪しい”だけで警察を呼ぶ。

スマホを向ける。

あとをつける。


そういう行動が増えている、とニュースは遠回しに伝えていた。


ディアが淡々と言う。


「世界は、怖がると簡単に歪むのね」


次の話題は、海外の反応だった。


米中が、首輪の“仕組み”に関心を示している。

――どうやって能力を封じるのか。

――安全に拘束して、必要なら解除できるのか。

その運用まで含めて、情報が欲しいという匂わせだ。


遠回しな言葉のまま、日本へ圧力をかけてるコメントが流れる。

コメンテーターは言葉を選びながら、同じことを繰り返していた。


(……そりゃ、欲しがるよな)


僕はチャンネルを変えずに、そのまま見ていた。


そのあと、検索。


通販サイトに“黒猫仮面”が溢れていた。

偽物の首輪も、対策アクセサリーも、全部一緒くた。


そして、気づく。


首輪は偽物だ。効かない。

仮面は――ただのプラスチック。


「仮面には本物も偽物もないな、これ」


「誰でも黒猫仮面になれる。ヒーローごっこ。子どもと同じ」


コユキが言って、空気が少し冷える。


「……身元を完全に隠したまま、“本物”だってSNSで示す方法、ないのかな」


ディアが即答する。


「ネットは足が付くわ。IP、端末、回線。海外のプラットフォームなら、その国が本気で探せば追える」


「……え、ディア。そこまで知ってるの?」


僕が思わず言うと、ディアは平然としていた。


「必要なら覚えるわ。あなたの世界で生きるなら、そのくらいの理解はいるでしょう」


「……頼もしいけど、さらっと怖いな」


コユキが少しだけ考えてから言う。


「レグリスなら、何かできるかも」


「でも、レグリスはまだ外に出られないだろ」


「出られなくても、お願いしてることもあるし、できるかもしれない。……本人に聞く」


ディアが言う。


「明日、戻る日ね」


「……明日だな」


不安は消えない。

でも、今夜も――家に明かりがある。


僕は息を吐いて、明日の段取りだけを頭の端に置いた。


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