099話『SideStory 速水 えりな ― 笑顔の置き場所』
鏡の中の私は、よくできている。
口角の角度。目尻の柔らかさ。息の吐き方。
こうすると“安心して見える”――そう覚えたのは、芸能の現場だった。
洗面台の上のライトが白い。
ホテルの空気は静かで、少しだけ澄みすぎている。
契約モンスター、ルミエルのせいだ。
言葉を交わすわけじゃない。
でも、肩のあたりに“冷たい光”がいると分かる。
肌を撫でる空気だけが、やけに綺麗になる。
「……今日も、よろしくね」
返事はない。
ただ、白銀の粒が、ふっと揺れた気がした。
私はいつも通り、笑える顔を作った。
作ってしまった。
そうしないと、今日という一日が始まらないから。
***
福岡の、都市部寄りの出身。
上京する理由は、珍しくない。
地元では地方CM、モデル、小さな舞台。
上京してからは――タレントの卵。
卵は割れやすい。
割れても、誰も驚かない。
“売れかけては消える”世界を見てきた。
だから笑顔は、調整するものになった。
気分じゃない。防具だ。
それが“職業病”だと気づいたのは、ずいぶん後だった。
***
3月5日。
仕事が途切れた。
焦りが増えた。
次の予定が空くと、自分の輪郭が薄くなる気がする。
見た目は若く見られる。年齢を伏せているせいもある。
でも現実の数字は、28だ。
“次”がある人間じゃないと、置いていかれる年齢。
それで――気づけば、足が向いていた。
小型ゲート。
「行くつもりなんて、なかった」
そう思ったのに。
一歩、踏んでしまった。
あの中の空気は、現実より軽くて、現実より重い。
矛盾しているのに、そう感じた。
そして私は、いちばん最悪な形で追い詰められた。
背中が壁。前は刃。
逃げ道が“ない”って、こんなに静かなんだ、と初めて知った。
そのとき。
白銀の粒光が、肩に止まった。
羽みたいに細い光。
冷たくて、痛くないのに、肌が粟立つ。
銀翅精霊獣ルミエル。
私が求めたわけじゃない。
“欲しい”なんて言う余裕もない。
でも、必要だから結ばれた――そんな感覚だった。
次の瞬間、空気が変わった。
澄んだ。
整った。
周囲の殺気が、薄膜を一枚隔てたみたいに遠のいた。
それが、救いで。
同時に、檻だった。
***
帰還した瞬間、私は喋る前に“像”になった。
政府が動き、事務所が動き、スポンサーが動く。
誰かが私の名札を作り、誰かが私の役割を決めた。
「帰還者アイドル」
「安心の象徴」
「希望の光」
言葉は綺麗。
でも、綺麗な言葉ほど、逃げ道がない。
ルミエルの清浄領域は常時。
近くにいるだけで体調が整う人がいる。気持ちが落ち着く人がいる。
だから、人が寄る。
寄る、というより――置かれる。
「速水さん、こちらへ」
「速水さん、この位置で」
「速水さん、今は発言を控えて」
守られている。
そう言えば、聞こえはいい。
でも、守られるほど自由は減る。
私はそれを、現場で学んできた。
***
4月29日。
15人の帰還者が集められた日。
会場の空気が、途中で変になった。
笑いが薄くなり、目が合わなくなり、言葉が浮く。
洗脳。
後からそう呼ばれたものが、そこにあった。
私は――効かなかった。
ルミエルの護光域が、淡く張っていたから。
心が守られた、というより、侵入経路が塞がれた感じだった。
そして、黒猫の仮面。
あの人は――怖かった。
強いから怖いんじゃない。
強さを“道具”として使う手が、迷わなかったから怖い。
首輪を付けて、去っていった。
助かった、と思った。
でも、その感情すら声に出せない。
「助かった」と言えば、
「支配だ」と切り取られる。
私はもう、“言葉が武器になる世界”を知っている。
***
5月3日。
動画が拡散した。
洗脳と首輪。
恐怖と熱狂。
そして、帰還者そのものへの疑い。
私のSNSも、燃えた。
事務所は沈黙。
スポンサーは「安全」だけ言う。
私は――笑顔を作った。
作るしかない。
作らないと、世界が“勝手に意味”を作るから。
でも本音は、どこにも置き場がない。
それが一番、きつかった。
***
そして、京都。
岡崎の文化ゾーン。
京都の顔をしている劇場会館。
二千人規模のホール。
今日は満員。
導線が二重三重。
警備の視線が、普段より鋭い。
それでも客席は、笑い声を出す準備をしている。
「楽屋、こちらです」
スタッフの声は丁寧で、どこか固い。
“守る”側の緊張は、伝染する。
ナナが隣を歩いている。
女子高生。癒し枠。
なのに彼女は、声が震えない。
慣れなのか。肝なのか。
どちらでも、私は少し救われる。
「大丈夫?」
私が小さく聞くと、ナナは小さく頷いた。
「大丈夫。……えりなさんもいるしもっちんもいるから」
その言葉が刺さった。
優しさみたいに聞こえるのに、責任が混ざっている。
私は笑った。
ちゃんと“安心して見える”笑い方で。
***
開演。
司会の白石さんは、場を回すのが上手い。
言葉を選ぶのが、仕事の人だ。
速く喋らない。
押しつけない。
でも、客席のテンポは落とさない。
鷹城慎吾さんは、現場の人だ。
視線が、出口と導線を見る。
それが“癖”として体に残っている。
私は、その二人を見て少しだけ息が楽になる。
“像”じゃなく、現実を見ている人がいる。
客席は普通に盛り上がる。
笑いが起きて、拍手が出る。
(このまま、何事もなく終わるのかな)
そんな甘い考えが、よぎった瞬間だった。
***
一階席の前列あたり。
誰かが立ち上がった。
動きが妙に大きい。
スタッフでも警備でもない。
黒猫の仮面。
でも、あの人ではない。
男が声を張る。
「帰還者は全員、首輪をしろ!」
ざわめきが、刺さる。
スマホが上がる気配が、目に見えるみたいに増える。
(やめて)
頭の中で言った。
声にはしない。
声にしたら、そこだけ切り抜かれる。
男は首輪らしきものを掲げた。
金属じゃない。留め具が樹脂みたいな光。ベルト式。
胡散臭い“商品”の匂いがした。
警備が動く。
近づく。
客席がざわつく。
空気が、炎上の現場になる。
白石さんが、マイク越しに落ち着いた声を出す。
怒らない。でも逆らわせない声。
「皆さま、座ったままでお願いします。通路は空けてください」
鷹城さんが、反射的に立つ。
客席へ圧を向けない。安全を確保する動き。
現場の人の体は、こういうとき勝手に動く。
「裏へ」
スタッフが小声で言う。
私とナナは、袖へ誘導された。
私は歩きながら、ナナの手を握る。
手が冷たい。
でも震えていない。
それが逆に怖くて、私は息を吐いた。
「外、行こう」
「うん」
裏口から、外の空気へ。
建物の外は、初夏の匂いがした。
遠くで人の笑い声もある。
京都の観光の顔が、普通に続いている。
――その普通が、いちばん怖い。
ナナが、短く息を吐いた。
「……こわい」
やっと。
その一言が出たのが、救いだった。
私は頷いた。
「怖いよ。……でも、大丈夫」
そう言った瞬間。
少し離れたところで、男の声がした。
「……本物は、ああいうことはしないんだけどな」
私は足を止めた。
声の質が、違う。
野次馬の声じゃない。
何かを“見ている”人の声だ。
目が合う。
声は届く距離で、視線がまっすぐ刺さる。
顔は覚えられる。
そう本能が告げた。
私は、深追いしなかった。
波風を立てない。
私の得意技。
ここで動いたら、また“像”が先に歩く。
だから私は、笑った。
作った笑顔。
でも、今はその奥が少しだけ痛い。
「……戻ろう」
ナナに言うと、ナナは頷いた。
会場に戻らなきゃいけない。
戻らないと、また別の“物語”が作られる。
でも胸の奥に、引っかかりだけが残る。
(会いたい、じゃない)
ただ――確かめたい。
あの人は、誰だったのか。
そして、さっきの騒動が“偶然”なのか。
私は歩き出した。
京都の空は綺麗で、
その綺麗さが、今日はいちばん信用できなかった。




