098話『岡崎まで、歩く理由』
土曜の朝。
窓の外は、家族連れの気配がするだけで、うちの住宅街はいつも通り静かだった。
こどもの日が過ぎても、連休はまだ残っている。
――なのに、僕の中だけが固い。
(今日、京都。確認に行く……)
洗面台で顔を洗い、タオルで拭く。
鏡の中の自分は休日の顔をしているはずなのに、何かが起きそうだと胃の奥だけは落ち着かない。
リビングに戻ると、コユキがソファの背に座っていた。
スーラはテーブルの端で、ぷるん、と小さく揺れている。
「準備できた?」
「だいたい。……。何も起きなきゃいいんだけどな」
コユキが一度だけ瞬きをする。
「でも、推しに会えるかもよ。『みみモン日記』のナナ」
「……会えない。会いに行くんじゃない」
「ほんとに?」
「ほんとに。リアルで会いたいとか、そういうのじゃなくて……」
言い訳みたいになって、口をつぐむ。
コユキが、わざとらしく首を傾げた。
「じゃあ何。うさぎの“もっちん”?」
「……そう。あの掛け合い、たまに癒やされるだけ。……って、そうじゃない」
「ふーん。癒やし目的で京都」
「違う。確認目的で京都」
ディアが顔を出した。
「癒やしは大事よ。あなた、放っておくと眉間が定住するもの」
「定住させたくないな……」
「じゃあ、今日は少しだけ移住させなさい。……でも、行くのでしょう?」
「行く。……近くまで」
ディアは頷いて、水を注いだカップを置く。
その足元で、スーラがぺたり、と僕の足首にくっついた。
小さく膨らんで、じっと見上げてくる。
「……スーラも来るか」
ぷるん。
返事みたいに揺れて、離れない。
「分かった。いつもの位置で」
スーラは満足そうに縮んで、服の内側へ潜る準備をする。
こそばゆいが、安心もある。
玄関に向かうと、コユキが並んで歩いた。
扉の前で、ひょいと影に溶ける。
『じゃ、行こ。推し活』
「推し活じゃない。……確認に」
ブレスレットからディアの笑い声が落ちる。
その軽さが、ありがたい。
電車に乗って、席に着く。
窓の外が流れ始めたところで、僕はスマホを開いた。
ニュースサイト。SNS。切り抜き動画。検証ごっこ。
昨日より“色”が濃い。言葉が尖ってる。燃料が足され続けてる。
(見ても、やれることは増えないんだけどな)
分かってるのに、指が勝手にスクロールする。
“確認”のつもりが、ただの摂取になりかけたところで――
『秀人、まだ見てるのね』
ブレスレットの奥から、ディアの念話。
声は落ち着いている。叱るというより、針の角度を変える感じだ。
『必要な分だけ。……余計なものまで飲み込まないで』
『分かってる。……でも、政府の動きは多少でも掴んでおきたい』
『なら、あなたが拾うべき“情報の種類”をひとつ』
ディアが一拍おいて続ける。
『今日のゲストの速水って女性。前回で会場で見たでしょう?あの子――契約している子の気配が、普通じゃなかったわ』
『……普通じゃない、って』
『言い方を変えるなら、“格が違う”。同じ場にいても、他のモンスターと密度が違うの。上層の守護精霊っぽい感じをうけたわ』
僕は無意識に、視線を窓に逃がした。
『コユキやスーラみたいに、やばいってこと?』
影の中から、コユキが割り込んだ。
『比較しないで。ボクは“普通”だよ』
『普通じゃないだろ』
『普通だよ。ちょっと可愛いだけ』
(そこに寄せるのか……)
僕が突っ込み損ねたところで、胸元がぷるん、と動いた。
スーラが服の内側で、わずかに震える。
ディアが静かに言った。
『スーラは論外。あなたのところのみんなは、比較の土俵がそもそも違うのよ』
『誉めてるのか、釘なのか分からない』
『両方。……で、速水の契約相手は“それに近い匂い”がした』
コユキが、少しだけ真面目な声になる。
『あの場で皆が秀人に圧倒されていた。でも、速水の後ろの子は冷静だった』
『……そういうの、分かるんだな』
『ボクだって索敵担当だもん』
僕はスマホを伏せた。
見ているだけで、頭の中が騒がしくなる。
指先でブレスレットを一度だけ触る。
ディアが、わずかに息を整えた気配がした。
胸元のスーラが、ぺた、と落ち着く。
影の中のコユキも、気配を整える。
京都まで、まだ少し。
揺れは一定で、こちらの心拍だけが不揃いだった。
京都に着いたのは、11時頃だった。
駅は観光の顔をしている。
連休の荷物。家族の声。学生っぽい集団。
地下鉄に乗って、烏丸御池。
ここで乗り換えて東山へ――もできる。
でも、今日は歩くと決めていた。
「……岡崎まで、歩くか」
影の中からコユキの声。
『乗り換えたら早いのに』
『せっかく京都まで来たんだ。少しくらい、観光っぽいこともしたい』
歩き出す。
スマホを掲げる腕が多い。
「そこ、撮るんだ」と思う角度で撮っている。
立ち止まる場所も、妙に息が合っている。慣れた町の歩き方じゃない。
(……京都だな)
僕も、つられて少しだけ速度を落とした。
視界の端に、川面が光る。橋の上から覗き込む人。
欄干にもたれて喋るカップル。家族連れの手が、ちゃんと繋がっている。
服の内側で、スーラがぷるん、と揺れた。
人の流れに合わせて、こっちも“揺れてる”みたいな感覚。
「大丈夫」
小さく言って、まわりの人と歩調を合わせる。
観光客の波に飲まれない程度に、でも、ちゃんと景色が目に入るくらいに。
岡崎の文化ゾーン。
広い公園と、文化施設がまとまった一角に、目的の“劇場会館”があった。
名前を出す必要がないくらい、京都の顔をしている建物だ。
段状のアプローチ。ガラス越しに明るいロビー。人の流れが、最初から設計されている。
そして――今日は、やけに警備が厚い。
「トークイベント、本当にやるんだな」
『やるから、人がいる』
コユキの言葉が淡々としている分、現実味がある。
入口の掲示に「本日、ホール公演は完売」と出ていた。
建物自体には入れる。ロビーまでは一般の人も出入りできる。
でもホールへ向かう通路は、きっちりスタッフが立っていて、導線が封鎖されている。
僕はロビーの端、パンフレット置き場の影になる場所に立った。
どうする。
ここから先、入れないなら意味がない。
一度、息を整えたところで――ブレスレットが、軽く反応した。
ディアの声が落ちる。
『視界連結、持ってるわよね』
「……仲間と視界を共有するスキル?」
『そう。私がホールに影を滑り込ませるわ』
僕が言葉を失ったタイミングで、コユキが即ツッコミを入れる。
『便利すぎ。ズルがいくらでもできる』
『ええ。だからこそ、使いどころを選ぶのよ』
ディアがさらっと肯定する。
僕は苦笑して、場所を人があまりいない場所に移動する。
「……じゃあ、頼む」
『目を閉じて。視界だけ借りる』
一瞬、目の前の光が薄くなる。
代わりに――別の場所の“明るさ”が重なった。
ホール内。
客席の二階。手すりの影。
そこから、ホール全体が見下ろせた。
舞台の明かり。客席の層。人の密度。
二千近い椅子が埋まっていく様子が、ひとつのうねりみたいに動く。
音も、遅れて重なる。
クリアなマイクの声。客席のざわめき。プログラムをめくる紙の擦れ。控えめな咳払い。
“イベントが始まる前の空気”が、ちゃんと届いてくる。
(……見える。聞こえる)
『音は私がスキルで重ねてる。ズレたら言いなさい』
『了解。ありがとう』
『あなた、顔が真剣よ。トークイベントに来た人の顔じゃない』
『堪能してる場合じゃないからな』
ディアの声が、笑っていない。
僕も笑えない。
開演。
舞台に出てきたのは、清潔感のあるスーツの男だった。
声が通る。最初の一言で、空気を“整える”タイプだ。
白石悠真。
フリーの司会者で、ラジオもやっている――そういう人の喋り方。
「本日はお越しいただきありがとうございます。こういう時期だからこそ、“安全に楽しめる形”で進めます」
言葉が上手い。
荒れている話題に触れながら、煽らない。踏み込まない。
でも、逃げてもいない。
登壇者が紹介される。
速水えりな。
姿勢が綺麗で、笑顔が“調整された形”をしている。
清らかな空気に包まれている感じがする。
ナナ。
高校生らしい。みみモン日記で有名な動画配信者。
足元には相棒のうさぎ型モンスター、もっちんがいる。
小さな拍手に合わせて軽く頭を下げる。
鷹城慎吾。
がっしりした体。事前に調べた情報によると元消防士とのことだ。
客席を見ているようで、視線が出口と導線を拾っている。
(……どういうトークイベントになるか、少し楽しみになってきた)
白石が、上手く回す。
速水に振る時は、言葉を選んで逃げ道を作る。
ナナに振る時は、短く答えやすい形にする。
鷹城に振る時は、現実寄りの話題へ寄せる。
客席は最初、普通に盛り上がっていた。
笑いも起きる。拍手も出る。
“普通”が、成立している。
――このまま、何事もなく楽しいまま終わるのかもしれない。
開始から、40分ほど。
借りた視界の端。
一階席の前列あたりで、誰かが立ち上がった。
ディアの影が、二階の手すりから客席へ滑り落ち、前列の通路脇まで一気に寄った。
スーツでもない。スタッフでもない。
妙に目立つ動き。
そして、仮面。
黒猫――っぽい。
でも、縁日で売ってそうなプラ仮面。
『……安っぽい仮面』
コユキが、ぼそっと言った。
僕は息を止めた。
男は客席の通路へ一歩出る。
手には、首輪らしきもの。
金属じゃない。量販店の皮ベルトみたいで、留め具が安い光り方をしていた。
「帰還者は全員、首輪を――」
声が響く。
空気が、いっきに冷える。
男が、もう一歩、前に出た。




