影とアレ
「影とアレ」
これは、まだオレが中学生だった頃の話だ。
当時のオレは不登校で、朝も昼も夜も家で過ごしていた。
ゲームをして、ネットを見て、気がつけば一日が終わっている。
勉強の意味も意義も分からなかったし、何より、やる理由がどこにも見つからなかった。
「やらなくていいや」と、本気でそう思っていた。
あの日も、そんなふうにして過ごしていた。
昼下がり、うっすらまどろんでいたオレは、自分のベッドで横になっていた。
その部屋は兄貴と二人で使っていて、兄貴は高校生だったから、いつもなら午後には学校から帰ってくる。
だから、部屋のドアが開く音がしたときも、特に驚かなかった。
布団の中から、声でこう言ったのを覚えている。
「おかえり……早かったな……」
そのときだ。
寝ぼけた視界の端に立っていた“影”が、すうっと動いて、ベッドの下からオレの足をつかんだ。
冷たい手だった。
指の一本一本の重みが、皮膚越しに分かった。
そして、力任せに――でもどこか遠慮がちに、オレの体を下へ引きずってきた。
気がついたときには、ベッドのマットの端から半分、体がずり落ちていた。
寝相が悪くてベッドから落ちることなんて何度もあったけど、こんなふうに“足元から”引っ張られたみたいに落ちるなんて、初めてだった。
一番気味が悪かったのは、
“確かに足をつかまれた感触”が、まだ残っていたことだ。
慌てて足をさすってみても、何かがついているわけじゃない。
でも、ぬるりとした、乾いているのに湿ったような感触が、肌の奥にこびりついて離れなかった。
夕方、兄貴がほんとうに帰ってきた。
怖くなって「さっき、オレの足つかんだ?」って聞いてみたけど、笑われただけだった。
「え、お前起きてたじゃん。オレ、今帰ってきたとこだよ?」
じゃあ、あのときドアを開けて入ってきた“影”は――
あれは、誰だったんだろう。
それ以来、オレはベッドで寝るのが怖くなった。
最初は、単なる夢か何かだったんじゃないかって自分に言い聞かせてた。
でも、どうしてもあの影や“あの手の感触”だけは、現実のものだったとしか思えなかった。
兄貴に話しても気のせいだろって言われるし、離婚してたから、ワンオペの父親に言っても気にも留められない。
結局、オレは自分でなんとかするしかなかった。
それからしばらくは、ベッドの下に荷物をぎっしり詰め込んだ。
ダンボールや漫画、要らなくなった服――物理的に“何か”が入りこめないように。
それでも、夜中に目が覚めて、ふと床に目をやると、何かが覗いているような気がしてならなかった。
その“何か”は、見えたことは一度もない。
でも「音」は、聴こえた。
最初に気づいたのは、深夜の2時ごろだった。
寝ようとして、電気を消した直後、
ベッドの下から――コツ、コツ、と、軽く天板を叩く音がした。
はじめは、気のせいかと思った。
でも、数日後にもまた鳴った。
しかもその時は、音の直後に、壁際の棚に置いていたゲームソフトが一枚、床に落ちた。
偶然とは思えなかった。
だって、叩く音のあと、“必ず”何かが落ちたり、動いたりするからだ。
兄貴にそれを話したら、「床が傾いてるんじゃね? 」と冷静に返された。
でも、オレはそれを“見たんだ”。
兄貴がまだ帰ってくる前。
ドアを閉めて電気をつけて、イヤホンで音楽を聴いてた。
ふと、イヤホンの外側で小さな物音がして、取り外すと、
ベッドの下から、「スス……ス……」と何かを引きずるような音が、部屋の中を一周して、またベッドの下に“戻っていく”のが分かった。
自分以外、誰もいないはずの部屋の中で、音だけが動いていた。
見えない“何か”が、壁際の空気を擦りながら、ベッドの周囲を回って――最後に、また潜り込むように消えていく。
音は、出て、動いて、戻ってくる。
それが何度も繰り返されるうちに、オレはもう、電気を消せなくなった。
寝る前にはライトを点けて、ヘッドホンをつけて、好きな曲で誤魔化すようになった。
だけど、ある夜。
明かりの下で眠っていたオレの枕元に、
ぬるり、と濡れた“手のひら”が置かれた。
見上げると、誰もいなかった。
ただ、壁に掛けていた兄貴の制服が――何故か、濡れていた。
……“アレ”は、オレの足元から入ってきたけど、
今はもう、枕元まで来ているらしい。
「また見たのか?」
あいつ――つまり弟が、「ベッドの下から手が出てきた」と言い出したのは、夏休みに入る前の数週間前くらいだったと思う。
その頃、俺は高2で、まあまあ忙しかった。
部活はないが工業高校ってことで課題は山積み、バイト、友達づきあい。なにしろチャリで片道10kmはあったし、タイヤは日常茶飯事でパンクするわ。家に帰っても、自分のことでいっぱいいっぱいだった。
正直、不登校になった弟には、ちょっとイラついてた。
父が忙しいのもあるけど、何より家にいる時間が長い分、色々な事を変なことを考えすぎてるように見えた。
最初は、怖い夢でも見たんだろって思ってた。
それを現実とごっちゃにして、ビビってるだけだろうって。
でも、弟の様子がどんどんおかしくなっていった。
夜、ライトをつけっぱなしで寝るようになった。
同じ部屋で寝てて、仕切り用のカーテンはあったけど、覗くとやたらとヘッドホンで音を遮断してるし、ベッドの下を気にしてるのが丸わかりだった。
それでも俺は「まぁ放っときゃ治るだろ」くらいに思ってた。
そんなある日。
ちょうど俺がバイトから戻った夜、部屋に入った瞬間、違和感があった。
なんていうか……空気が“変わってる”。
誰かがずっと部屋にいたような、妙に湿ったにおいがしていた。
しかも、自分の毛布の位置と携帯(当時はガラケー)の充電器があきらかにズレてた。
普段から早く起きないと間に合わないから、自分が使ってる物の位置なんて、なんとなくどこにあるかわかるだろ?
弟がやったんではと思うかもしれないが、当時も現在も、弟はそんなくだらない事をする様な性格じゃない。
物やゲームとか借りたりする時は、お互い必ず一声かけてたりしてたから。
弟は、ベッドの上から俺を見て、「おかえり」と言った。
あいかわらず顔色が悪く、寝不足の目をしていた。
その夜、変な夢を見た。
というか――最初は夢だと思っていた。
暗い部屋の中、なぜか体が動かなかった。
金縛り、ってやつかもしれない。
目だけが動いて、部屋の隅に置いてあるダンボールをずっと見ていた。
すると、そのダンボールのすき間から、
何かが“這い出してきた”。
白くて細長い指だった。
指が一本、二本……と、ゆっくりと床を掴むようにしながら、姿の見えない何かが近づいてきた。
怖いのに、目が離せなかった。
そいつは、俺の足元まで来ると、
ぬるり、とした手で俺の足首を掴んだ。
その瞬間、心臓が跳ねるように動いて――気づいたら、朝になっていた。
「……夢だったんだ」
そう思おうとした。
だけど、足首には、薄く赤い跡が残っていた。
まるで、指でぎゅっと掴まれたみたいな、五本の線が。
朝食のとき、弟が俺を見て、言った。
「……見たのか?」
俺は、なにも答えられなかった。
それ以来、俺も電気をつけて寝るようになった。
だけど、知ってしまったんだ。
あれはたぶん、夢なんかじゃない。
「一晩だけでいいからさ、誰か呼ばない?」
唐突にそんなことを言ったのは弟だった。
夏休みに入って数日が経った頃。
蝉の声がうるさい午後だった。
俺は正直、迷った。
オレらの部屋には“何か”がいる。
俺もそれは分かってる。けど、それを他人に体験させるのは……やっぱりどこか、罪悪感があった。
だけど弟は、どうしても「他の人を呼んでほしい」って、藁をも掴むって顔をしていた。
特に弟は父親も信じてくれない、学校にも行けないし、オレにも信じてもらえなかった――
その積み重ねが、全部そこに出ていたんだろうな。
「いいよ、じゃあ呼ぶか」
そうして俺が呼んだのは、中学の頃からの友達――トリっちゃんだった。
トリっちゃんは明るいやつで、霊とかオカルトとか信じてないタイプ。
弟とも顔見知りで、ゲームやら映画やら、当時、TSUTAYAで借りた稲川淳二の怖い話なんかも、一緒に観る仲だったから、弟の頼みには快く応じて、
「おう、じゃあオレが霊退治でもしてやっか」なんて笑っていた。
夜、三人で飯を食ったあと、トリっちゃんは弟のベッドで寝ることになった。
俺は部屋の反対側、机の椅子でガラケーをいじりながら、半分監視のつもりで起きてた。
その時は、何もなかった。
ただ0時を過ぎたあたりから、部屋の空気が、変わった。
風もないのに、カーテンがふわっと揺れた。
そして――音がした。
「……スス……ス……」
何かを引きずるような音。
それは、トリっちゃんの寝ているベッドの下から聞こえてきた。
俺は怖くて音を聞くことしか出来なかった。
でもその瞬間、トリっちゃんがガバッと上体を起こした。
「……今、誰かいたよな?」
声は震えていたが、意外にもトリっちゃんは冷静だった。
それでも顔から血の気が引いているのがわかった。
「なんかさ……ベッドの下から、見てたんだわ。目が……目があった。黒い、濡れた顔で……」
トリっちゃんは出来るだけ冷静に起きた事を話してくれた。
ベッドを横になって眠いって思いながら、過ごしてとら、最初は部屋のアチコチで音がしたらしい。特にベッドの下から何が動く様な気配がして、なんなんだ?と思い、おもむろに下を向いたらしい。
そしたら、アレがいたらしい。
電気もつけたけど、もちろんそこには何もいない。
トリっちゃんはこう言った。
「とりあえず出来ることやろうぜ」
トリっちゃんはそうは言ったが、当時はググることも、SNSで誰かに聞いたりもできないから、幽霊の撃退方法なんてマジでよくわからんのが正直なところ。
でも俺たちはトリっちゃんの言う通りにした。
まずトリっちゃんは家にあった博多の塩をベッドの下に、まるでアンダースローの様にして投げつけた。
フローリングだったから、どうせ掃除も楽だし。
いまはアレの対処をしてくれるだけでありがたかった。
トリっちゃんはおもむろにマットレスを引き剥がしてフレーム下が見える場所に向かって話しかけた。
「オレの友達にふざけたことしてんじゃねーよ。ぶち殺すぞ」
余りの冷静さに、オレと弟は呆気に取られていた時、家の壁やいたるところから音がなる。
彼はそれを聴いてさらに続ける。
「そもそもお前の家じゃねーだろ?なに人様に迷惑かけてんだよ」
そういうとトリっちゃんは、ジーパンを脱ぎ捨て始めて、その……男のソレをベッドに向けはじめてた。
「そんなに掴みたいなら、オレの〇〇〇を掴んでみろよ。クソ幽霊風情がなめてんじゃねーぞ!」
彼が本気でブチギレた姿をはじめてみた。
トリっちゃんは、いつでも明るくて、冗談を言い合う良いやつだったから。
友達を傷つけるアレにガチギレしたんだよ。
散々、ボロクソに言った後、三人で掃除して綺麗にした後、オレ達は狭いけど、弟のベッドで寝ることにした。
彼のおかげか、なぜかそれ以来、パタッと怖いことも不思議なことも起こらなくなったんだ。
持つべきものは友だとオレは後日トリっちゃんに感謝して、吉野家の牛丼を奢ったのをおぼえてる。
トリっちゃんがその時言ってたんだ。
「どんなモンにも嫌なことってあるだろ?だから、脅したり、汚いモン観せて追い出せばいいんじゃねーってさ」
「だから、あんだけしてたのか。普段からは想像もできんかった」
彼は大笑いしていた。
「そりゃそうだろ、普段からあんなのしてたら、お前だって友達になりたくねーだろ」
たしかにと2人で大笑いしたことも懐かしい。
ただアレが一体なんだったのかは、今でもわからない。
終わり