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透明な恐怖

作者: 夜長月虹

 ――キュッ。


 蛇口を捻る音すら、神経に障る。

 台所に立つ母が何気なくコップに水を注ぐ。その何気なさが苛立たしい。


「はい、お水」


 差し出される透明な液体。

 喉は渇いているはずなのに、手が勝手に引いてしまう。

 母の顔が曇る。

 それを見て、胸の奥がざらついた。


 ――やめてよ、そんな顔。


 やりきれない思いが、喉の奥で絡まって出てこない。それをごまかすように、私は唇を噛んだ。


「無理しなくていいのよ」


 母の声は優しかった。でもその優しさが、今はどうしようもなく重たい。まるで自分の弱さを突き付けられているようで、私はどうにもむしゃくしゃした。


「……うるさいな」


 ぽつりと零れた言葉。自分でも意外なほど冷たかった。母の手がぴくりと震えるのが見えた。


「そうね、ごめんね……」


 静かに引っ込められるコップ。かすかに揺れる水面が目に入って、私の肌は粟立った。

 沈黙が部屋に落ちる。

 蛇口から滴る雫の音が、やけに耳障りだった。


 ――今日も、駄目だった。


 それでも母は、優しげな表情で私を見ていた。何も言わず、何も責めず。

 でも、私には、それが一番居心地が悪かった。

 面倒でしょ? 迷惑でしょ? おかしいでしょ?



 ――水が怖い。だなんて。



 アレルギー、とかじゃない。

 飲んでも、触っても、体調が悪くなるなんてことはない。

 それなのに……喉が渇いても、自分では飲めない。お風呂にも、目を閉じてないと入れない。雨の音にも、胸がざわつく。

 頭では「大丈夫」と分かっているのに、体が勝手に拒絶する。そんな日々の繰り返し。

 いつからだろう? いつからこうなっちゃったんだろう?

 分からない。覚えていない。そのことが、更に私を苦しめた。

 いつの間にか、友達は、いなくなった。先生に相談したこともあったけど、信じてはもらえなかった。

 父とも、話さなくなって久しい。


 ――母だけだ。


 母だけが、変わらない。

 私がどれだけ突き放しても、冷たくしても、諦める様子なんて見せない。ただ黙って、傍にいる。いつもいつも優しい、柔らかな笑顔で。


 ――ずるい。


 泣きそうになるのをぐっと堪える。

 涙だって、水だ。

 怖い。嫌だ。

 今日もまた、私は布団に潜り込む。閉じた世界の中で、息を潜めるようにして目を閉じる。



 プール。海。雨の日の水たまり。

 きっと誰かにとっては、夏の思い出。だけど私にとっては、地獄そのものだった。

 水面の揺らぎは、無数の目のように感じる。

 見つかって、足を取られたら、もう戻れない。

 冷たくて……深くて……“底がない”という感覚が、背筋を冷やす。


 遠足の日、クラス全員が楽しみにしていた川遊び。

 私は熱があると嘘をついた。

 水着に着替えた友人たちの笑顔が眩しかった。

 彼らが飛び込むたび、水が弾ける音に耳を塞いだ。


 シャワーはなるべく顔にかけない。

 髪を洗う時、目を閉じる時間が怖い。

 水が流れる音が、耳の中で大きく膨らんで、息ができないような気がする。


 誰もが日常と呼ぶものが、私には「試練」だった。

 コップ一杯の水。

 小さな橋の上。

 突然の通り雨。

 水面に映る自分自身すら。

 その全てが、私にとっては敵に思える。


 友達だった人に、「水が怖いって、何が?」と笑われたことがある。

 その人はまだ、世界が自分に優しいと思っているんだろう。

 私にとって水は、形のない怪物だ。

 触れられたら、引き摺り込まれる。どこまでも落ちていって……最後には、溶かされてしまう。


 だから私は、今日も水際に立てない。

 誰かが「おいでよ」と手を振ってくれても、その手が波の向こうに攫われていく姿しか想像できなくて、足が動かない。

 もう何年も、そんな日々が続いている。

 息が詰まって、まるで水の中にいるみたいだった。

 きっと、誰にも、私は救えない。

 私にとって世界は、恐怖に満ちて見えた。


 ――見えて、いた。


 私の世界に変化が訪れたのは、ある日の放課後。


「おい!」


 突然呼び止められて、思わず振り返る。

 見ると、校門の前で同じクラスの男子が待っていた。


「……これ、やるよ!」


 彼は、ぎこちない笑顔を浮かべて、私に紙袋を差し出してきた。

 中を見ると、タオルに巻かれたペットボトルが一本入っている。


「私に……?」


 なんの冗談かと思った。

 ボトルの中身は見えないけど……これって、水?


「別に、深い意味はねえけどさ……お前、水飲めないんだろ? だから、喉乾いてんじゃねえかって」

「え?」


 言葉が、喉の奥で詰まった。


 ――どうして、それを?


 クラスの中で、私のことを話題にする人はもういなかった。

 誰も、触れようとしない。まるで腫れ物を扱うかのように、私を避ける。時々視線を向けられることはあっても、それだけだ。

 皆が気を遣ってくれて……だからこそ、誰にも見つからないように、私は息を潜めて生きてきたのに。


「……知ってたの?」


 掠れるような声だったのは、喉が渇いていたせいだろうか?

 男の子は、ちょっとだけ照れくさそうに、目を逸らした。


「いやまあ、女子達が話してんの聞こえて……水が怖いんだっけ?」


 ああ、そっか。

 周りの子達がヒソヒソと私のことを話しているのは知っている。

 皆にとって、私は珍しい動物みたいに見えるんだろう。この人にとっても、きっと。


「おかしい、よね?」


 いつものことだ。今更、感情は動かない。

 私は少し自虐的に言った。

 でも、


「なにが?」

「え?」


 予想外な答えに、私は驚いた。


「いや別に、誰にでも怖いもんはあるだろ? おかしいことじゃねーよ」


 当たり前のように、そう言った。

 まるでなにかに貫かれたように衝撃が走る。

 男の子は、ポリポリと頭を掻きながら言葉を続けた。


「俺だって、夜中に雷鳴ったら布団被ってガチで震えてるし……だからまあ……お前の“水”も、そういうもんなんじゃねえの?」


 何気なく、あまりに軽く言われたその言葉に――心が揺れた。


 ――怖いのは、おかしくない?


 嘘だ。そんなの。

 誰に言っても分かってもらえなかった。「頑張って克服しようね」とか、「気の持ちようだよ」とか。励ましと否定の境界線で、今まで何度も何度も、心が擦り減らされてきた。


「……なんで、そんなこと……言えるの?」


 気付けば、そう呟いていた。


「さあ? 俺、アホだから難しいことはよく分かんねぇけど……」


 彼は笑って、


「誰かの怖いを笑えるほど、俺は強い人間じゃねぇからさ」


 そう言って、私の手に紙袋をしっかりと押しつけてきた。


「ま、そんだけ! ……つーか、こんな炎天下でなんも飲んでない奴とか、ほっとけねーっての!」


 そう言うと、彼は何事もなかったかのように歩き出した。


「じゃあな! また明日! 倒れたりすんなよー!」


 まるで、普通の友達みたいに、手を振って。


 ――なんだろう、この感じ。


 手の中の紙袋が、なんだか温かく感じた。


「……ありがとう」


 小さく、声がこぼれる。

 何故か――今日は、逃げずにいられそうな気がした。




「おかえりなさい……あら?」


 家に帰ったら、母がいつも通りの笑顔で迎えてくれる。でも、私が持っていた紙袋を見ると、ギョッとした顔をした。


「そ、それ……」

「うん。クラスの……友達から貰ったの」


 事情を話すと、母は静かに微笑んだ。


「そうだったの……いい子ね、その子」


 私は、何も言わなかった。ただ、こくりと頷いた。


 着替えのために自分の部屋へ。

 着替えを済ませると、机に置いておいた紙袋に視線をやった。

 紙袋の中から、恐る恐るペットボトルを取り出す。

 中身が見えないように、タオルが巻かれたペットボトル。

 その優しさに気付いて、胸の奥がじんわりと熱くなった。

 ゆっくりと、キャップを捻る。


 ――キュッ。


 蛇口の音に似たその音が、今は不思議と耳に障らなかった。

 口元に運んでみる。

 緊張して喉がぎゅっとなる。

 でも、


「……ん……っ」


 ほんの一雫。

 それでも、確かに私は――水を飲んだ。

 冷たい感触が、ほんのり私の胸を温めてくれたような気がした。


 ――グラリ。


 次の瞬間、床に横たわる自分がいた。


「あ……れ……?」


 息が……できない。体が重たくて、びくともしなかった。

 視界が霞む。

 全身から、警鐘のような痒みが広がっていく。


 ――なにこれ?


 手から転がり落ちたペットボトルから水が溢れ、床をびっしょりと濡らしていた。

 耳鳴りがする。目を、開けていられない。

 そして――


「――ああ、やっと……飲んでくれた……」


 微かに、聞き慣れた声が聞こえた気がした。

彼女の体質は……?

お分かりいただけただろうか?

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