桜が咲くまで
「えー、朝礼を始めます。各リーダーから業務の進捗教えてもらえますか」
毎朝春木含め、各リーダーから北村課長に報告する。予定より遅れている場合は課長から何で詰まっているか再質問を受けるが、春木のチームはこれまで遅れたことがないのでその再質問も受けたことがない。
「分かりました。じゃあ今日も皆さん! 元気に業務に取り組んでいきましょう! 困った事があれば、必ず相談するように」
北村のいつもの号令とともに、皆がデスクに散りじりになり始める。
「あと春木さん、ちょっと会議室来てもらえますか?」
「はい」
何となく他の非正規社員の視線を背中で感じながら、春木は北村の後を追い会議室に入った。ソファに座り、一呼吸置いてから北村が話し始めた。
「単刀直入に言うけど、そろそろ正社員に戻ってもいいんじゃないか。春木はメンバーの指導も、比較的複雑な業務も難なくこなしてくれている。最近じゃ、うちの正社員よりよっぽど活躍してくれてるよ。プライベートなことを言って申し訳ないが、生活だって余裕がある訳じゃないだろう? 正社員で他の部署が嫌なら、最初はうちの部署のまま働くって手もあるんだ」
「ありがたいお言葉ですが、私は精神障害者ですから。お医者さんの診断書がある限り今のまま働かせて頂きたいです」
「ちゃんとそのお医者さんには、今の春木の働きぶりを伝えているのか?」
「はい」春木にしては少し上ずった声になるが、北村は気付かない振りをする。
「今のところは分かったけど、春木の将来を思って言ってるんだ。俺はまた正社員として一緒に働きたいと思ってる。頭には入れておいてほしいな」
「ありがとうございます。承知しました」
会議室から出ると、少しだけまた周りの視線を感じる。それでも春木は自分のデスクに戻り、淡々と作業を始める。
ここはとある大手IT企業系列の営業所だ。といっても営業所内の社員内訳はほとんど春木含めた非正規社員で、障害者専門のグループ会社である。国の障害者雇用を促進する流れで、この企業にも五年前から創設された。一口に障害者と言っても身体障害者や知的障害者、精神障害者など各社員が抱える障害もその重さも様々である。業務内容はほぼ同じグループ会社内の業務請負で、手書きメモのデジタル化やPDF化、定型業務のマニュアル化等、主に単純作業を非正規の障害者で行っている。残りの正社員は管理者と、そういった業務の受注を社内別グループ、そして最近は社外から取ってくる営業がメイン業務である。非正規社員は業務内容や障害の内容などによってチームが分けられていて、春木はそこの一チームのリーダーをしている。リーダーは正社員が取ってきた仕事を噛み砕いてメンバーに説明したり、メンバー個々の進捗具合を把握しサポートしながら相手先や正社員に報告したりと、同じ非正規ながら他のメンバーより少し難易度の高い業務を任されている。
「何回言ったら分かるんだ!」
同じフロアの反対側、正社員チームのデスクから急に罵声が響く。障害者の非正規には皆腫れ物を触るように気を使っているが、健常者の正社員には他の職場同様容赦無い。特に正社員チームの須田が最近課長として異動して来てからはひどいもんだ。非正規が行う業務の担当である北村課長もさすがに止めに行かざるを得ない。いくらデスクが離れていて自分に向けられた罵声でなくても、多くの精神障害者にとってそういった荒れた環境は一番メンタルを害するものだからだ。春木もそれを察知し、離れた席でそっと様子を窺う。
「須田さん、どうしたって言うんですか」
「ああ、北村さん聞いてくださいよ! 山井が、また業務を安請負してきやがって! 見てくださいよ、送られてきたこの指南書。excelの複雑計算を最初にいくつも組まないととても単純作業に移れません。最初から指示がしっかりしてればいいですよ? でもこんな曖昧な指南書で、どうやって請け負えって言うんですか!」
痩せて背がひょろ長い山井は須田のデスクの前でひたすら下を向いて汗をかいている。
「ではそちらで指南書を作ればいいじゃないですか?向こうは稼働削減したくてこちらに依頼してくるので、指南書が曖昧なことはこれまでも結構ありましたよ」
「これまではそれで良かったかも知れませんが、部長からも労働単価の高い正社員の残業を減らせって散々言われてるんです!山井自体新入社員でexcelに慣れてないし、他の正社員も手いっぱいだし。一からやると時間かかって仕方ないんですよ!」
じゃあ暇なお前がやれよと喉手前ギリギリまで北村は出かかったが、六十手前のこのおっさんにも出来る訳無いかと思い直した。そんな事言ったところで、この頑固おやじが更に大声で叫んでフロア全体がより避けたい空気になるに違いなかった。
「じゃあ……」北村が仕方なく請け負おうとした時、
「差し出がましいですが」春木がいつの間にか近くに来て口を挟んだ。
「私の方で最初の作業を実施致します。excel経験はそれなりにございますので、恐らく何とかなるかと思います」
「え? あんたが? あんたも非正規でしょ?」
「お言葉ですが、春木はとても優秀なんです。春木、他の仕事は大丈夫なのか?」
「はい、うちのチームは幸い業務進捗も良いですし、多少私がこちらの業務に専念しても支障は無いかと思われます」
「じゃあ悪いが頼む。あと須田さん、あまり大声を出されると特に精神障害を持った子は自分に言われてなくても怯えて業務が止まってしまうんです。これからは抑えめにして頂けると」
そう北村が言うと春木と二人で自分のデスクへ帰って行った。須田は呆気にとられている。山井もその隙に急いで自分のデスクに逃げ帰った。
昼休みになって、須田が昼食で席を外した隙に山井は北村と春木のところへ走ってきた。
「先ほどはすいませんでした。本当にご迷惑をおかけし申し訳ございません」
「いいよいいよ、それより君も新入社員でいきなり大変だね。正社員チームが忙しいのも、上から実績目標をひたすら引き上げられても何の抵抗もせず帰ってくるくせに何もしない自分のせいだってあいつ分かってないんだよ。本当に困ったら、俺から部長に言ってやるから」
「……ありがとうございます」
自分の上司が須田ではなく北村なら良かったのにと心から山井は思った。
「春木さんもすいません、本来僕がすべきところ……」
春木は横に立った山井の方を振り向かず、パソコン画面を見つめて手を動かしながら答えた。
「いえ、気になさらないでください。あの場合一番大事なのは北村課長が仰るように大声をなるべく早く止めてもらうことでしたから。それに、もうすぐ終わります」
「え、もう!?」
「さすが春木! 仕事が早いなぁ〜」
何となく同じチームの非正規社員からまた視線を感じるが、春木は敢えて振り返らなかった。
「後でデータ一旦山井さんにも送りますから。課長、午後からはこの業務、うちのチームに振るようにします」
「ありがとう、頼むよ」
「あ、ありがとうございます!!!」
「いえ、では」
山井は心から感謝したが、北村課長と違って春木は実は自分に怒っているかもしれないと思った。何故なら一度も画面から目を離さず、全く表情を変えなかったからだ。今朝須田と対峙した時もそうだった。前から春木さんは仕事ができるが表情の読めない人だな、と思っていた。まあ、でも有難いことに変わりないんだから感謝しよう、と何とか思い直すことにした。なんせ仕事は本当に多いのだ。
その日の夜、またしても山井は途方に暮れていた。出先から夜遅く帰ろうとして外に出た瞬間、予報外れの土砂降りだった。傘を持っていないし、この辺は都心より少し離れていて近くのコンビニを検索しても徒歩十五分もある。
さっきまで一緒にいたお客様は結局商談の上失注で、傘を貸してくれという勇気を持てず仕方ないのでそのコンビニまで走り出した。すぐにスーツもシャツもずぶ濡れになって全身に張り付いている。おまけに冬の寒さで、もう氷のスーツを身に纏って走っているようなものだった。
何とかコンビニ前まで走り込んだが、コンビニのガラスに映るその姿は既に手遅れと言っていいほどで、逆にこの状態で今更傘を買うのが急に恥ずかしくなって立ち止まりまた途方に暮れていた。くしゃみは出るのにこの後どうすべきか良い考えは一向に出ない。
「山井さん?」
山井が驚いて振り向くと、傘を差して春木が立っている。職場とは異なり、パーカーにスウェットとラフな格好だ。
「あ、春木さん……」
今日既に二度も情けない姿を同じ人に見られ、山井はもう消えてしまいたい気分だった。
「ひどく濡れてるじゃないですか。何があったんですか?」
「いやあ、お客様のところから出たらこの雨で。近くにコンビニが無くて何とか走ってきたんですけど既にもうびしょ濡れで。終電も過ぎてるし、このままじゃタクシー乗っても嫌がられるし僕の家結構遠くで……」
「では、私の家に泊まられますか?」
「えっ!?」
「いやですから、私の家に泊まられますか? ここから歩いて十分程度です。この辺は住宅街でホテルやネットカフェのようなものもありませんから、このままでは山井さん野宿になりますよね?この雨の極寒では絶対風邪ひきますよ」
「ありがたいですが……僕なんかがお邪魔してよいんでしょうか……何というかその、お邪魔といいますか、ほら! もし僕がいびきとかかいちゃったら」
「私が提案してるので私がダメと言うことはないでしょう。申し訳ありませんが、ボロアパートの六畳の1Kで狭いしお貸しできる布団は夏用の布団しかありませんが。それでも野宿よりは良い環境をご提案しているつもりですが、お気に召しませんか?」
実際に春木の提案は今の山井の状況を踏まえれば理にかなっていたし、何よりこの女性から淡々と真顔で提案された内容を断る勇気のある者は少ないんじゃないだろうか。
「いえいえ! あの、では、本当に申し訳ございませんがお言葉に甘えて……」
こうしてとぼとぼと山井は春木の傘に入ってついて行った。正確には、山井の歩き方の擬音は確かにとぼとぼなのだが、春木があまりにきびきび早く歩くので、置いてかれないようスピーディーなとぼとぼ歩き、という矛盾した歩き方だった。
「ここです。古くてすいません」
春木の家は二階建ての古いアパートの二階だった。想定外のボロさに、恐らく三十代女性がこんなオンボロなアパートに住んでいるのかと正直山井はたじろいだが、うちの非正規社員の時給を考えれば当然だった。
「いえいえ、十分です、ありがとうございます」
錆びたアルミ製の階段を登ると一段一段ギシッギシッと音が響く。次に大きな地震が東京で起きたらこのアパートは真っ先に潰れるだろうな、なんてことを山井は勿論口に出さないが考えていた。
春木の部屋は、まさに春木の部屋、という感じだった。物が異常に少ない。家具家電はシングルベッドに折り畳める小さな折りたたみ式のテーブル、小さな洋服ダンスに小さな本棚、狭いキッチンに電子レンジと炊飯器と小さな冷蔵庫、と本当に生活に最低限なものだけがあって、ほぼ色も無くモノクロの世界。テレビも無いしyoutubeで見るミニマリストのような家だった。
そんなことをぼうっと玄関で考えていると、突然春木に声をかけられ、漫画のように山井は飛び跳ねた。
「山井さん、先にシャワー浴びてください。このままでは風邪引かれます。申し訳有りませんが、うちはユニットバスで狭くて寛げるようなものではございませんが、湯を溜めて頂いても構いませんので。これタオルです。ご安心ください、昨日洗濯したばかりですので。すいません、うちには男性用のパジャマは無く、山井さんには小さいでしょうがトレーナーとズボンお貸しします。着られていたシャツは洗濯します。申し訳ございませんが、スーツはご自身で後日クリーニング頂けますと」
「は、はい……ほんと、ありがとうございます……」
山井が丈の足りないトレーナーとスウェットのズボンを履きシャワーを浴びて出てくると、春木はキッチンに立ち電子レンジで何かを温めていた。
「山井さんはご飯食べられてませんね? お腹空いてますよね?」
そんなお構いなく、と言おうとすると同時に山井の腹が鳴る。
「分かりました、温めるだけですぐ準備できますので」
山井が口で答えずとも、春木は山井の腹の音と会話してくれた。
出てきたのは寄せ鍋だった。冷え切った山井の体にはちょうどありがたかった。
「おいしいです!ありがとうございます」
「それは良かったです」
腹が満たされたせいか、山井はついつい無駄口を叩いてしまった。
「春木さんって料理とかされるんですね。あ、意外っていうか、失礼な意味じゃ無くて、何ですか、料理も時間かかる割に食べるのはあっという間で結構非生産的なこととか多いじゃないですか、いつもお仕事が生産的すぎるのでつい。僕は時間の無駄だと思って、つい惣菜とか買っちゃいます」
「私たち非契約は、正社員の方と違って会社を早くあがれますし節約しないといけませんから。それに料理って言っても、時間はかけません。鍋の素にカット野菜にカットの鶏肉か豚肉を鍋に入れるだけです」
「他には?」
「これを毎日です、あ、夏はさすがに暑いんで、これが野菜炒めになることもあります。カット野菜とカット豚肉」
「……それを毎日?」
「はい、春秋冬は鍋、夏は野菜炒めです。一人用の鍋の素が今はたくさんありますから、飽きませんよ。毎日働けるよう、栄養補給にちょうど良いと思っています」
「そうですか……」
勝手に聞いて勝手に気まずくなったので、山井はさっきコンビニ前で言えなかった話題に変えることにした。
「泊めていただいて本当に恐縮なんですが……まがりなりにも僕は男で、春木さんは女性なんです。こんな簡単に男を家にあげるなんて……。あ、僕は勿論そんな下心とかありませんけど、他の人で同じようなことをもし今後されるなら危険ですよ」
「私は精神障害者ですよ。万が一何かあればこちらの抵抗能力が無かったと言えば簡単に相手の非が認められるでしょう? それに今回のようによっぽどのことが無い限り人を家にあげません。友人も恋人もいませんから。実質この家では山井さんが初めてです」
外の雨より何倍も冷え切った内容をあまりに表情を変えずに淡々と言うので、山井は息を飲むことしか出来ず返事もしないままただただ鍋を食べ天井の角の方を見つめていた。春木は三口ぐらいで食べ終わってしまう。
山井が食べ終わるのを見ると春木は食器を片付け、テーブルを折り畳んでベッド下の収納から夏用の布団を出した。
「申し訳ありません、こんな薄い物しか無くて。ただこれも片付ける前にクリーニングは出してますのでご安心を。では、私もシャワーを浴びてきますので。先に電気消して、寝ておいて頂いて構いません」
それだけ言うと食器を洗いさっさと春木はシャワーを浴びに行ってしまった。
山井は仕事と同様あまりにあっさり何事もこなす春木にしばらく呆気に取られていたが、ふと春木の本棚に目をやった。人の本棚を覗くのは趣味が悪いとは思ったが、ここにだけ春木の全く見えない人柄が見えるかもしれない。自然と本棚の前に座り込んでいた。
ほとんどが「精神障害者向け」とタイトルについた本だった。パラパラとめくるが、支援金制度の話や雇用制度の話など、期待するような中身は無かった。他には、と目を凝らすとまず簿記検定二級の参考書があった。これもめくると、熱心に所々マーカーが引かれている。この調子ならきっと合格しているだろう。山井は会社に言われ二度受験したが二度とも落ちていた。頭の良い春木なら驚くべき内容では無いが、本当に非正規で働いているのが勿体無いと思える。後は難しそうな小説が数冊と、一番驚いたのは、棚の一番下の左奥に入れてあった卒業証書とクリアファイルのアルバムだった。卒業証書を開くと、何と春木は一橋大学を卒業していた。頭が良いと思っていたが、まさかここまでとは……しばらくまた山井は呆然とした。そしてアルバムの方をめくると、生まれたばかりの春木と家族の写真があった。さらにめくっていくと幼稚園児、小学生、中学生、高校生、大学生。驚くことに、そのどれもの写真に家族や友人達に囲まれ、山井にとって見たことない春木の笑顔があった。今では決して見せない笑顔。写真は大学卒業式で終わっていた。自分より十個程上の年齢の割に童顔の春木の笑顔は、入学式や卒業式の写真で近くに写る桜のようだった。というか、彼女が童顔だとこの写真の笑顔を見るまで気づかなかった。しばらく見つめているうちに、山井はさっきまで失注した上大雨に降られて散々な目に遭ったことを一瞬思い出すもどうでも良い気分になっていた。アルバムをじっと見たまま開いたまま目を離せないでいると、春木が風呂から出る音がした。山井は慌ててアルバムを本棚に押し込む。
「あ、まだ起きられてたんですか? お疲れでしょうから早く寝られた方が良いですよ」
「……ああ、すいません。スマホをつい見ちゃってました。僕は明日朝早めに出て別のスーツを取りに帰りますんで、出来るだけ静かに出ますが、起こしちゃったらすいません。今着てる服も取りに帰る間貸していただけますか? 洗ってすぐ返しますんで」
「いえ、それは全く構いませんよ。だったら尚更早く眠られてください、電気消しますね」
そう言うと春木は何か薬を飲みベッドに入ったので、山井も慌てて用意された布団に入る。そうはいったものの、さっきのアルバムでの春木の各年代の笑顔が頭から離れず山井は中々眠れなかった。あの後の彼女の人生に一体何があれば今の笑わない春木になるのだろう。山井はそのことに心全てを奪われてしまった。自分と同じように職場でひどい仕打ちに過去あったのだろうか。とすれば、須田よりもっとひどい大パワハラ野郎に違いない。一人で答えが出るはずの無い問いを、山井はしばらく考えていた。
翌々日山井が出社すると、自分の椅子に紙袋が置かれていた。中身はあの日自分が着ていてずぶ濡れになったシャツだったので、春木からだとすぐに分かった。丁寧にアイロンもかけられていた。
紙袋をデスク下に置こうとしたが、何か別のものが目の端に見えてもう一度紙袋を持ち上げる。ぎょっとした。八千円と、簡単なメモが入っていたのだ。メモには、
「一万円は頂きすぎかと存じます。ボロ屋なので一番安いホテルの相場と、晩御飯の原価を諸々計算し二千円だけ恐縮ですがご厚意として頂戴します」とある。
山井はあの日春木のアパートを早朝一人出る前、御礼として一万円置いて行ったのである。どこまでも仕事ができる人だ。山井は朝から先制パンチを食らった気がした。
振り返ると、春木はそんな山井に目をくれる事もなく淡々といつも通り業務をこなしている。
ある日、春木が会社に着くと、北村課長が明らかに困り果てていた。
「どうされたんですか?」
「春木のチームだけ誰も来ないんだ。いつもあいつら体調不良とかで急に休むときは電話してくるのに、今回はメールで休みますだけ今朝全員送ってきやがった。何か心当たりはないか?」
「いえ……ちょっと、電話してみます」
春木のチームは計五人で、携帯の電話帳順に順番にかけたが誰も出ない。
「出ませんね……」
北村は大きくため息をつく。
「分かった。俺もちょっとアタックしてみるから、春木は普段の業務にいつも通り取りかかってくれ」
「はい」
そう答えながら、春木は嫌な予感がしていた。そして同じ予感を北村も持っているだろうと思った。その一部始終を、山井も遠くから見守っていた。
北村が席を離れて春木や自分の席から遠い方の会議室に篭り電話を掛けてみると、案の定一人目の赤荻が電話に出た。赤荻は一番若くて見た目からギャルだが、メンバーの中では中心的存在だった。
「これはボイコットです」
赤荻の上ずった無駄に明るい第一声に、思わず北村は絶句する。山井は自分の席に一番近い会議室だったので、扉が閉まっていても微かに会話内容が聞こえてしまった。
「一体どうしたんだ」
「まだお気づきじゃありませんか? 北村課長は春木さんばっかり持ち上げて。昔一緒に働いたことあるか知りませんが、他の非正規も皆同じこと言ってます。私達だって一生懸命やってるのに。春木さんは障害の程度が軽いかもしれませんが、私達は重度の人もいるんです。その辺気を配ってくださいよ。こっちが気を使って冗談言っても全然春木さん笑わないし。それにあの山井さんが持ってきた仕事、勝手に春木さんが取ってきて、私達チームの仕事になっちゃったじゃないですか。正社員になりたいアピールかしりませんが、私達だって時給安いなりにそれなりに忙しいんです」
北村は言いたいことは山ほどあったが、グッと堪えた。それに確かに、最近社員の前で春木を褒めすぎたかもしれない。こういった職場でえこひいきに見える言動は一番控えるべきだった。
「悪かった。俺から春木にも話をしておくし、俺も十分気をつける。確かにリーダーのことばかり目を配ってお前らメンバーに気を配れていなかったかもしれんな。すまない。実際お前たちがいないと業務が進まないんだよ。明日からは来てくれないか?」
「はーい、分かってもらえばいいで〜す。メンバーのみんなにも伝えときま〜す」
北村は会議室から出て、春木に
「全員で昨日食事に行って食当たりらしい。明日からは来れるそうだ」とだけ伝えた。北村の声のトーンで、それが嘘だと春木にはすぐ分かった。一部始終を見ていた山井は、こんなことがあっても全く表情を変えない春木に軽く衝撃に近いものを覚えた。
その日業務が終わって春木が職場を出ると、山井が後から追いかけてきた。
「あの、春木さん!」
振り向いても、春木は勿論こっそり泣いていたりなんかせずいつもの顔だ。
「これ、あの、あの日お借りしたトレーナーとズボンです。俺、いつも帰り遅くて洗うの遅くなって申し訳無かったです」
「ああ、忘れていました。気になさらないでください」
春木は紙袋を受け取ってまた帰る方向へ振り向こうとした。
「それと!」山井は思わず叫ぶ。
「あの、二千円は安過ぎかなって思うんです。あの日僕は春木さんがいなければ本当に土砂降りの中野宿して大風邪引いてるか、運転手に嫌がられながら何万もかけて家に帰るしか選択肢無かったんです。それにあの須田さんに怒られた時の恩もありますし。それで!」
「それで?」
山井は見切り発車で話し始めたのでそれでどうしようかとたった今考えている。
「それで! あの! 春木さんさえ良ければ、今日の晩御飯、ご馳走させて頂けませんか! 節約のため鍋ばかり食べられてると仰ってましたしたまには別のもの食べましょう! 勿論無理でなければですが!」
なぜこんな勢いよく話すのか山井は自分でもよく分からない。
春木は少し思案する素振りをしている。
「私は二千円で十分ですが……そこまで仰るなら」
断られると思ったので山井は正直驚いた。思わず、
「ありがとうございます!」と何故かこちらが御礼を言っていた。
でもよく考えたら正社員からの誘いを断り辛かったからかも知れない。ふとそんな考えが浮かんだが、これでいいのだと自分にバカボンのパパの様に言い聞かせた。
二人は会社最寄りの新宿の居酒屋に入った。
「僕はビール、春木さんは?」
「私はウーロン茶で」
その後は途切れながらもたわいもない会話をした。山井は何か話さなければとしているうちに、自然と自分の仕事の愚痴が多くなってしまった。
「じゃあこんなに早く帰られるの珍しいんじゃないですか? 私達はいつも定時ですけど」
「そうですね。でも今日は須田課長も出張でいなかったし、チャンスだったんです」
本当は溜まった仕事があったが、春木が職場を出ると自分でも分からないが自然と足が動いたのだから仕方ない。
「そんな貴重な日に、恐れ入ります」
「とんでもない! 僕からお誘いしたんですから! 本当に春木さんには御礼をお伝えしたいと思ってたんです」
本当は今日の出来事は半分自分のせいでもあると分かっていたので、精一杯の山井なりの謝罪のつもりでもあった。
「それにしても北村課長はいい方ですね」
「はい、私は上司に恵まれています」
「いいなあ、僕も北村課長の下なら良かったのに」
「須田課長の下は大変そうですもんね」
「そうなんですよ! あいつったらこの前も……」
これではこの会の趣旨が違うと山井は途中気付いたが、表情は変えないが丁寧に返してくれる年上の春木への甘えと、ついつい進む酒の勢いでベラベラ自分の愚痴が止まらなかった。
山井なりに取り戻そうと思ってつい、気になっていたことを口にしてしまった。
「本当に失礼かと思ったんですが、あの日春木さんのアパートに泊めて頂いた際、本棚に入れられていたアルバムをつい見てしまったんです。そこでは春木さんはどれも笑顔でした。見たことないくらい。職場でもあの笑顔でしたら、今日みたいなことも起きませんよ。僕純粋に、春木さんには笑顔でいてくれたらいいなってその時思ったんです」
春木は珍しく黙り込んでいた。
「何か辛いことがおありなら、僕、力になります。僕で力不足でしたら、北村課長とか、信頼できる方とかでも。それぐらい、春木さんには感謝しているんです」
春木は持っていたグラスをゆっくり置き、やっと口を開いた。
「お言葉ですが、仰る通り人のアルバムを勝手に覗くのは非常に失礼な行為かと存じます。それに、山井さんと私はあくまで職場での関係です。仕事上の注意でしたら有難くお受けしますが、私の個人的な所にまで口を出されるのは……」
そこまで言って急に春木は咳き込み始めてしまった。喘息のようで、中々止まらない。山井は慌てて春木の背中をさするが、手で追い払われてしまう。店主が見兼ねて水を持ってきて飲ませてやり、落ち着くまで三十分以上はかかってしまっった。山井は何が起こったか分からずその場をウロウロするだけだった。
ようやく落ち着いて、喉がヒューヒューいう程度でおさまった頃、春木はスクッと立ち上がった。
「すいません、体調が良くないみたいで。恐縮ですが、本日は先に失礼いたします。ごちそうになってしまい申し訳ございません。明日もよろしくお願い致します」
思わず春木の腕をつかもうとしたが、細い春木の腕はさらっと山井をかわしてしまった。
山井は一人席に残され呆然としていた。一気に酔いも醒めた。酒の力があったとは言え、確かに春木の言う通り山井の発言は踏み込み過ぎていた。ようやく春木と少し会話できる関係になっていたのに、今回で心底嫌われただろう。スマホで検索してみると、鬱病の身体的症状に喘息もあるらしい。思わず頭を抱えた。でもあの怒っているような発言をしている間も春木は表情を変えなかった。その表情と、あのアルバムでの笑顔が繰り返し脳裏に浮かぶ。俺は取り返しのつかないことをしてしまった。冷めた焼き鳥を串で突きながら、山井は自ら招いた不幸をとんでもなく悔いていた。
ただその後の日からも、春木は業務上必要な時は淡々と山井に話しかけてきた。山井は毎回ドギマギしながら答えるが、業務上の話が終わると「お忙しいところありがとうございました」と言って淡々と春木は自分の席に戻る。客観的に見ればいつもと変わらないのだが、どこか春木は前より目線を合わせてくれず、いつもより遠い距離感でしか話してくれない気がした。気のせいかもしれないが、それが山井はとても辛かった。
ある日山井は北村課長から飲みの誘いを受けた。あの優しい北村課長のことだから、別のチームの俺の元気が最近無いのを見兼ねて声をかけてくれたのだろう。山井はそう分かっていたが今の自分の悩みは仕事のことでは無いので、どう受け答えすべきかと思案しながら答えの出ないまま指定された居酒屋に着いた。
「遅れてすいません」
北村課長が鍛えた体でどっしりと席に座り、太い腕を振る。
「おう! 忙しいのに突然誘って悪かったな」
「いえいえ、ありがとうございます」
「まずはビールでいいか?」
「はい」
乾杯した後、やはり北村課長は想定通りの質問をしてきた。
「どうだ、山井最近の仕事の調子は? 相変わらず忙しそうだな」
「ま、あのおかげさまで、何とかなってます。まだまだ覚えることも多いですが、お陰様で前より大声で怒鳴られることも減りましたし」
「本当か? 最近元気無いように見えるぞ。俺でいいなら何でも相談に乗るぞ」
やっぱりだ。どうしようかとしばらく考えたが、優しくこちらが話し出すのを待ってくれる北村課長の顔を見ていると、その「何でも」を信じてみることにした。
「あの、北村課長は、その、別の職場でも春木さんの上司だったんですよね?」
「なんだ。春木のことが好きなのか。いいなあ、若いってのは! 俄然今日は楽しい会になりそうだな」
「いえいえ、違います。茶化さないでください。僕、春木さんに最近嫌われてしまったかもしれなくて」
「え? あの春木が? あいつはあまり人に好き嫌いをしないタイプだと思っていたが」
「僕がひどいことをしたので……」
「何?」北村課長の眉が歪んだので山井は慌てて話す。
「あの、春木さんの過去をあれこれ踏み込んで聞いちゃったんです。経緯はややこしいので端折りますが、僕、昔の春木さんの写真を見ちゃったんです。幼い時から大学生ぐらいまでの。そこではどれも見たことないぐらい春木さんが笑顔で。あんな笑顔なら、職場でも余計なトラブルが起きないんじゃないかって、何があったんですか、僕が相談に乗りますってつい言っちゃんたんです。そしたら春木さんに、それは踏み込み過ぎですって注意されたあと、しばらく喘息を起こされてしまって。明らかにストレスを与えてしまったんです。そこからも変わらず仕事の話はしてくれるんですが、なんか前より態度が冷たい気がして……」
真剣に山井の目を見ながら話を聞いた後、北村課長は顎に手を置きしばらく考える動作をした後深くため息をついた。
「確かに、それはあいつにとっては踏み込み過ぎかもしれんな。あいつが職場でも喘息起こすのは見たことないし」
「そうですよね……それは僕も深く反省してるんです。でもどうしても、春木さんには昔の笑顔でいてもらった方が良いような気がするんです。前一緒働いていた時は、春木さんはどんな感じだったんですか?」
「うーん、まあ、なんていうか、お前とそう変わらないよ」
「え?」
「嫌なことがあれば愚痴を言ったし、良いことがあれば笑っていたさ。それに正社員だった」
「……」
「でも断じて、パワハラなんか受けてない。俺の部下にそんなことはさせないさ」
「じゃあ、じゃあ何があったんですか?」
「うーん……俺も言い過ぎると春木に嫌われるからなあ。今春木に嫌われたら、仕事が立ちいかなくなるしなあ」
「お願いします! 僕絶対、秘密は守ります!」
「そんなに必死になるなんて、やっぱりお前、春木のこと好きなんじゃないのか? 大体端折ってたけど何で春木の昔の写真なんか見れたんだ」
「それはあの……雨の日にどうしても帰れなくなっちゃって、そしたら偶然会った春木さん家に泊めてくれたんです。そこで本棚を僕が覗いたら、アルバムがあってそれを勝手に見ちゃって……あ、もちろん本当に仕方なく春木さんは僕を泊めてくれたんです! 勿論何もしてないですから!」
「そんなに慌てなくても(笑)。済まない、俺が茶化しすぎたな。春木は表情には出さないが根は優しいヤツだから、お前を見兼ねて泊めてやったんだろう。お前もそれに便乗して悪いことしでかすヤツじゃないことぐらい俺も分かってるよ」
「あ、ありがとうございます。でもまあ、前より関係みたいなのは、徐々に出来てきてた気がするんです。僕は例の件もあって春木さんに本当に感謝してますし。なのに、余計なこと言ってしまって……」
北村課長は再び山井の目を真剣に見つめて、今度は太い腕で腕組みをしている。あまりにまっすぐに見つめられるので、山井はたじろいでいた。
「……俺から聞いたっていうなよ? 俺も本来口は堅い方なんだ」
息を飲んで山井は頷く。
「実は俺もちゃんとしたことは知らないんだ」
山井はまるで新喜劇のようにずっこけたふりをした。そして腹を立てた。
「もう、これ以上からかわないでくださいよ!」
「すまんすまん、ただ俺が知ってるのは、あいつ、両親を二十代で立て続けに亡くしている。そこからあいつは少し休んで職場復帰したけど、復帰のときには今の職場にいた俺に、非正規で雇ってくれないかって言ってきたんだ。そこからだな、あいつが笑わなくなったのは」
「……」
「当然俺もあいつに何があったかは散々聞いたさ。別に休んでても正社員で戻れた訳だし。でも絶対に口を割らないんだ。一生懸命働いて、仕事ではご迷惑をおかけしないようにしますからって、あいつらしくない、質問に合わない答えしか返さないんだ」
「ご両親を亡くされて、相当ショックだったんですかね……」
「まあ、それもあるだろうな。あいつ一人娘だって言ってたし、他に共有出来る兄弟もいないから。なんせお父さんが亡くなって二年後に、お母さんが亡くなられたんだ」
「そうですか……亡くなられた原因とかは聞かれてないんですか?」
「うん、葬式は親戚だけって言うし、それまでの俺たちの関係なら、そのうち泣いて色々話してくれると思ってたんだ。だけどそんな事は無く平然としていて、あいつはその事については全く話さなかった。多分、会社の誰にも話してないと思う」
「でもじゃあ、それ以外実質課長はほぼ全部ご存知なんじゃないですか?」
「いや、でも俺が解せないのは、ずっと非正規のままで居続けている事だ。あいつもそりゃ最初は元気無かったけど、今は全然普通に、いやむしろ普通以上に仕事をこなしてるだろう? 元々あいつは仕事のできるヤツだったんだ。だから正社員への復帰の話を何度もしてるけど、いや、私は精神障害者なんでの一点張りだ。でも見た通り他の奴らより明らかに会話も論理的だし、仕事が特別嫌いな訳にも見えないんだ。あれで時給千円はさすがに勿体なさすぎるし自治体の障害者支援金があっても生活は苦しいだろう。何より他の奴はなんだかんだ親の支援を受けてたりするが、あいつにはそれが無いんだからな」
「確かに……」春木のボロアパートを思い出しながら山井は頷いた。
「それに、あいつの表情を変えるのはそんなに簡単な事ではないかもしれん」
「と言うと?」
「あいつは、『失感情症』らしいんだ」
「失感情症? 感情がないってことですか?」
「名前的にそう勘違いされがちだが実は違う。感情は確かにあるんだ。ただそれをどう表現していいか分からん病気らしい。自分の感情に合う表情や顔をどう出せばいいか分からなくなるらしくって、その代わり喘息とか頭痛とか、身体症状が出やすいらしい。生まれつきが多いらしいが、あいつの場合はそうじゃないからご両親のこともあって強いストレスからそうなったみたいだ。あいつが休んでる期間心配になって病院に一度ついて行ったことがあるんだ。そこで医者から聞いた」
「……」
「それが俺の知ってる全てだ」
そう言うと北村課長は一気にジョッキに残っていたビールを飲み干した。
「身体症状が最近無いから安心していたが、その調子なら正社員になれなんて、余計なお世話かもしれんな。あいつにしか分からんことがあるんだろから。それに安心しろ、あいつは元々人をそんなに簡単に嫌いになったりする奴じゃない。じきに元に戻るさ」
「……はい」
山井はもう一度あの時見た写真を思い出した。写真に写っていた春木の親は絵に描いたように優しそうで幸せそうで、春木のことを心から愛しているようだった。
本当におこがましいが、春木が今も辛い思いをしているならその支えになりたいと山井は心から思った。これが、北村課長が冗談で言う恋心からなのかそんなことはどうでもよかった。
「あいつのこと狙ってるなら、ちゃんと優しくしてやれよ。そうじゃないと俺怒るぞ。本当娘みたいに思ってるんだから」
「だからそういうんじゃないですって!」
ガハハ、と豪快に北村は笑った。こんな感じでも、自分が仕事で悩んでなくてよかったと安心してくれているのだ。それが山井にも十分伝わってきた。
次の休日、山井は友人と青山を歩いていた。学生時代からの友人の西田が最近転職を機に名古屋から東京へ越してきて、家具を買いたいらしくその付き添いだった。
「何も男の一人暮らしであんなおしゃれな家具を買わなくても」
「あ、俺結婚するんだ。相手は会社の同期」
「え! そんな大事な事は先に言えよ!」
「悪りい悪りい、東京はまだおっかなくて付いてきてほしいって用件だけつい言っちゃって。それに何か恥ずいだろ」
「何が恥ずいだ。てか、それなら奥さんと家具を見に来るべきじゃないのか?」
「嫁は妊娠中だから出歩けないんだ。だから嫁さんがネットで選んだ家具を、俺がサイズ感とかだけ実際見て買う」
「はあ!? 子供も生まれるのか!?」
「悪りい悪りい。いわゆるできちゃった結婚てやつだな。あ、今はおめでた婚って言うんだったな。何かやっぱ、学生時代の友達にこんな話するの恥ずいだろ」
「本当に呆れるわ……」
そう言いながら、どんどん人生を先に行く友人に山井は目眩がした。山井も昔はマッチングアプリをやったりもしたが、三回連続ドタキャンされ、最後一回は待合わせで会った瞬間思った感じと違ったと言われて帰られてから心が折れて辞めてしまっていた。
「お前も職場に良い人いないのか?」
そう西田が話しかけた瞬間、山井は急に立ち尽くした。青山一丁目駅の方面から、春木が歩いてくるのが見えたのだ。春木のアパートはここから遠く離れている。どこに向かうのだろう? そう思っていたら足が勝手にそちらに向かって走りかけていた。
「おい、どこにいくんだよ!」
「悪りい! 急用思い出して! すまん!」
そう言って山井は走っていく。山井の走る先に女性がいた。あいつ彼女がずっといないのをこじらせてナンパ師かストーカーにでもなったのか?残された西田はそう思ってやれやれと溜息をつく。あいつにも春が来ると良いな。
山井は春木に声をかけたい気分だったが、公私混同を最も嫌がる春木にこれ以上嫌われないよう、後ろから見つからないよう追いかける事にした。これじゃストーカーじゃないか。山井は気が滅入ったが、追う足を何故か止められなかった。よく見ると春木の手には小さな花束がある。まさか恋人? そう思うと山井は何故かやけに心臓が騒がしかった。そしてそんな自分を不思議に思った。北村課長からのあらぬ疑いで、混乱しているだけだろう。
たどり着いたのは、意外な場所だった。青山霊園だ。春木は迷わず歩き、慣れた感じで墓まで歩いて花を供え、手を合わせた。春木の目を瞑り祈る表情は、職場では見た事ない顔だった。何故かその姿がすごく儚く山井には思えた。
しばらく手を合わせ、花を供えるとスクッと立ち上がり、春木は墓地を出て行く。山井は慌てて別の墓に身を隠しながら、春木の後を追った。少し距離が近くなったとき、山井は驚いた。春木の頬を、涙が伝っていた。さっと春木はそれを手で拭いたが、山井はそれを見逃さなかった。恐らくこれは北村課長が言っていた両親の墓だろう。でも課長の話では亡くなってもう三年以上経っている。そんなに期間が経っても、涙が出るものなのだろうか。親の死はそれ程までに重いものなのだろうか。山井はまた答えの出ない問いを自分に投げかけていた。
「山井さん?」
物思いから覚めてハッと気づくと、墓地を出たところで目の前の春木が自分に声をかけていた。非常にまずい。
「ああああ、あのこんにちは。ぐ、偶然ですね」
「ほんと、偶然ですね。何されてたんですか?」
良かった。春木は自分がまさか後を付けてきたとは思っていないらしい。ほっと肩をなでおろした。春木の顔は、先ほどまで泣いていたとは思えないほどいつも通り平然としている。
「僕はその、ああそう、家具を買いに来たんですよ。模様替えにと思って。青山なんて滅多に来ないからそのついでにちょっとこの辺を散歩で」
自分にしてはうまく嘘がつけたと山井は思った。
「ああ、そうなんですね。すごいですね青山で家具なんて。おしゃれですね」
「ええまあ……。あ、あの、差し支えなければ、春木さんは何してらっしゃったんですか?」
「え」
やばい、また踏み込みすぎたかもしれない。でも自分が先に聞かれたんだから、同じ質問を聞き返すのは教科書の英語の例文みたいに当然の会話の流れだと山井は言い聞かせた。
「私はあれです、あの、親戚の墓参りに」
親じゃなくて親戚とぼやかして言う春木に、やはりその辺のことは知られたくないんだなと山井は思った。でもさっき見た春木の涙を思い出し、このまま別れることは自分の中でどうしても出来なかった。
「あ、あの、この後予定ありますか? 折角だし、どこかで少しお茶しませんか? 僕青山ってほとんど来たことなくて、おしゃれなカフェがいっぱいあるけど男一人で入るのは何か恥ずかしいなあと思って、躊躇ってたんです。それにあの、僕、この前のこと春木さんにちゃんと謝りたくって、その、勿論お代は出しますし」
「いえそんな謝るだなんて……私がちょっと体調崩しただけですから」
春木は少し考えた素振りを見せる。山井は心臓が口から出そうだと思った。
「でも予定はないです。寒いなと思ってたので、どこかお店入りましょうか?」
「ありがとうございます!!」
大きな声で御礼を言った後、何か御礼を言ったのは会話の流れ的に不自然ではないかと山井は思った。これじゃまるで自分が無理にデートに誘ったみたいじゃないか。でもこの前のこともあって断られるかもとまた半信思っていたので、少々安心した。
その後二人は青山一丁目駅の方へ歩き始めた。別に本当はおしゃれなカフェに入りたかった訳ではない山井は入る店選びに一苦労した。結局、何となく春木の雰囲気に合いそうな紅茶専門店にした。
中に入ると落ち着いたオフホワイトの店内に、色んな紅茶の葉が専用の可愛いガラスケースに入れられてレジの横に並んでいる。自分以外客は皆女性だった。何の種類かは分からないがおしゃれな紅茶の香りが店中を覆う。ドギマギしながら、二人、と山井は店員に伝える。メニューを持った店員に好きな葉を選ばされて、山井はよく分からないがどこかで聞いたことのあるダージリンティーを見つけ、それを注文した。春木はじゃあ同じので、と答えた。
「すいません、急に」
「いえいえ、私もこのお店は横を歩くたび気になってたんです。でも一杯八百円からって結構高くって。本当にご馳走になっていいんですか?」
「もちろん、僕がお誘いしたんですから」
値段までちゃんと見ていなかった山井は一瞬え、そんなにするの?と思ったが、任せとけっといった感じで自分の右手拳で左胸を叩く素振りを見せた。
じきにダージリンティーのポットとカップが二つ運ばれてくる。ちょっと蒸らしてからお入れくださいと店員が言って立ち去ると、コーヒーの様にカップで一杯だけ運ばれてくると思っていた山井は、春木の動きをこっそり真似しながらカップに注いで飲んだ。
「おいしいですね」
「ええ、ほんと」
本当はいまいちよくその良さが山井には分からなかったが、春木の顔がさっきの霊園で見たより心なしかほんのちょっと緩んだ感じがしてホッとしていた。
「それで、この前のことで私に謝られたいと?」
ああ、そうだった。春木はいつだって単刀直入だ。
「あ、あの、この前居酒屋で、僕、ちょっと立ち入ったこと言っちゃったじゃないですか。それを後からすごい反省しまして。勿論勝手にアルバムを覗いたことも反省しています。僕春木さんには本当に感謝してるのに、体調まで崩させちゃって、ちゃんとあの時謝れなかったのが心に引っかかってしまっていて。本当に申し訳ございませんでした」
「いや、いえいえ、私もよく考えたら、あの時山井さんは、笑顔の方が仕事が円滑になるって仰ってて、私仕事の注意じゃないなんて言ったけど、ちゃんと業務上の注意でしたよね。それに体調不良はこちらの責任ですから。心配して頂いたのにこちらこそ先にお店出ちゃって申し訳ございませんでした」
山井は意外にも謝罪が上手くいったようでホッとした。でも次に肝心の話はどうやって持っていけば良いかさっぱり検討が付かなかった。とりあえず時間延ばししよう。
「あの、このスコーン、一つ頼んで二人で分けませんか? 二個入りみたいだし」
「いいんですか? はい、ありがとうございます」
スコーンを待つ静寂の時間に、口火を切ったのは春木だった。
「あの、山井さんに言われて色々考えてみたんですけど、中々笑顔って難しくって。心療内科の先生も感情表現がもう少しできた方が良いっておっしゃるんですけど、どうも難しくって。せっかくご注意頂いたのに、上手くできずにすいません」
「え、いやいや! そんな謝らなくて大丈夫ですよ! ごめんなさい、勝手に見ちゃった昔のお写真と、あまりに普段の春木さんが違ったもんだから、つい何があったのか気になっちゃって。でもそんなこと今は大丈夫ですよ。今は笑うのが難しければ、ご無理なさらなくて大丈夫です。余計なこと言ってほんとすいません」
春木はしばらく自分の紅茶ポットを見つめていた。あれ? 俺またまずいこと言った? 山井は焦って本来時間を延ばしたいならゆっくり飲むべき紅茶をガブ飲みして舌が火傷しそうになった。
「あの」春木の口がゆっくり開いて、山井は心臓を掴まれたようにドキッとした。
「私両親を亡くしてまして。そこからどうも笑えなくなってしまって。さっきの墓参りも、親戚というか親なんです。その頃から友人たちとも会うことがなくなってしまって」
想定外の返答に、山井は一瞬紅茶を吹きそうになった。正確に言うと、実は大体知ってる内容なのに春木が自分にその話をしたことが想定外だった。北村課長の顔を思い出し、知らなかったふりをしなくてはと山井は気を引き締めた。
「そうだったんですか……それはお辛かったでしょうね。じゃあますます、ご無理なさる必要はないですよ」
「ありがとうございます」
「でも亡くなってもう三年も経つんです。いい加減頑張らないと。北村課長にも何度も正社員のお話を頂いているのに」
「笑顔は頑張って作るものじゃないですよ。別に正社員も無理してなるものじゃないですし。北村課長も、どうしても無理してっていうより、春木さんの生活をご心配されてのことみたいですし」
「そうですよね、北村課長には本当に感謝してます」
少しまた春木の顔がほころんだ気がして山井はじっとそれを見つめていた。テーブルにスコーンが既に運ばれているのもしばらく気づかないぐらいだった。
「お恥ずかしいことに、あのアパートを見ていただければ既に山井さんにはバレていると思うんですが、生活は決して楽では無いんです。いつかは正社員にならなくちゃと思うんですけど……」
「春木さんが正社員にならない理由は何なんですか?働かれぶりを見るに僕なんかより全然適任かと思いますが、やっぱり健康上のご理由なら、正社員は確かに残業もあるし無理することは無いですよ」
それを聞くと春木は、この日一番ぐらい黙ってしまった。山井は内心めちゃくちゃに焦った。もう嫌われたくない、なのに気になってズカズカ聞いてしまう。そんな自分に藁人形作って釘を刺したいくらい、自分を呪っていた。
山井の脳内呪い祭りが始まってしばらくして、春木は一口スコーンを食べ紅茶を飲み、深く溜息をついてから小さな声を出した。
「……私、親を両方鬱で亡くしてるんです。残業があったりパワハラがあったり、仕事を苦にして鬱きっかけで働けなくなって離婚したり外に出なくなってタバコ吸うだけとか無茶な生活で二人とも亡くしてるんです。だから、自分もそうなるんじゃないかと思うと、なるべく仕事の負担の無い生活を選んでしまうんですよね」
山井の呪い祭りはとうに終わっていて、ただ絶句してしまった。自分が質問したことを丁寧に春木は話してくれたのに、本来すぐ慰めの言葉をかけるべきと脳内では理解しているのに、かける言葉が見つからない。自然と、涙が頬を伝っていた。
「え! 山井さんどうされたんですか? ごめんなさい、私が急に暗い話をしちゃったもんだから……?」
山井は自分でも何故泣いているのか分からなかった。ただ、春木の問いに首を横に振ることしか出来なかった。春木はハンカチを山井に差し出した。山井はすいません、と言ってそれを受け取り何とか涙を堪えた。側から見れば、彼女に急に振られた情けない彼氏にしか見えなかっただろう。
「ごめんなさい、自分でも何で泣いてるのかよく分からなくて……ただそんな複雑な事情がおありなら、やっぱり前僕しつこく聞いちゃってほんとに申し訳なかったです」
「いえいえ。ああいったことを聞かれたのは山井さんが初めてで、あの時はちょっと動揺してしまったんですが、後でよく考えたら自分が前に進めてないなって改めて気づきました。といっても進み方は分からないんですが」
「……ちなみに、さっきの話は北村課長には?」
「北村課長は親が亡くなったことはご存知ですが、亡くなった理由とかはお話してないですね。北村課長は悩みを向こうから言えばじっくり聞いてやろうのスタンスの方だし、親が亡くなってから北村課長は余計に私に気をかけてくれて、ある意味親ぐらい気にかけてくださるから、話したら必要以上にご心配おかけしちゃうんじゃないかなと思って」
「あの」山井はそれまで机に置いていた手をテーブルの下の自分の膝に置き直した。
「あの、正社員がどうとか、すぐに笑顔になんてことは本当にどうでもいいと思うんです。でももし春木さんがそれでまだ苦しんでいるなら、僕に出来ることがあれば何でもさせてください。例えば時々、こうやってお話をさせていただくのとか。ちょっとでも人って話を聞いてもらえれば楽になる部分もあると思うんです。僕なんかで頼りないのは重々承知していますが、さっきのお話だと、このお話をして頂いたのはたぶん僕が初めてなんですよね? 僕で良ければ、サンドバッグにして頂くのでも愚痴の捌け口にして頂くのでも何でも構いませんから。どうですか……?」
山井はおもちゃを買ってもらう前の子供のように猫背になって下から春木の顔を覗き込んだ。春木の口が、少し開いたまましばらく時間が経った。山井は自分の心臓の音がうるさいと人生で初めて思った。
「あの、その、お気持ちありがたいです。お話を聞いていただけるのも非常に。でも不思議に思ってるのは、山井さんは何で私にそこまでして頂けるんですか? 同じ職場とはいえ、別チームの一非正規社員の私に、なぜそこまで?」
理由は山井にも分からなかった。でも何か答えなければ。
「ほら、春木さんは僕を助けてくれた方だから。春木さんがいなければ僕は入社早々会社を辞めてたかも知れません。エゴかもしれませんが、少しでもお返ししたいんです」
「そんな前のこと、お気になさらなくてもいいのに……でも、山井さんに今話して確かに少しスッキリしました。……じゃあお言葉に甘えて、時々お願いします。ちょうど病院の先生にも、もっと人と話した方が良いって言われてたところなんです」
「ありがとうございます!!」
何に御礼を言ってるのかまた訳が分からなかった。でもそんなことどうでもいい。これまでの悩みの靄が、全て晴れていく気がした。
それから時々、春木と山井は月に一、二回程度、昼食やお茶を一緒にすることになった。別に前みたいに過去の話だけじゃなくて、たわいもない職場の話をしたり、仕事の愚痴を山井が春木に話したりした。これでは本末転倒だと山井は反省しつつも、次の約束に必ず春木は来てくれた。
「あの、自分で言い出しといてあれですが、僕なんかで力になってますか? 何かいつの間にか僕の愚痴に最終的にいつも話がいってしまってる気がして」
「大丈夫ですよ。私も業務上必要な話しか普段誰ともしませんから、良い気晴らしになってます。それに私ばかり話しても気がひけるので、ちょうどいいです。それより、山井さんは大丈夫なんですか? 普段からお忙しいのに、ご友人もいるでしょう? こんな十個も歳の離れたおばさんといて良いのか心配で。それに毎回ご馳走になってしまって……」
そう言われて初めて西田をあの日置き去りにしてしまったことを思い出した。さすがに今日帰ったら謝ろう。報告が事後なのは腹が立つが、結婚祝いぐらい渡してやらなくては。
「僕も大丈夫です! 僕名古屋から就職のタイミングでこっちに来てて、結構地元に残るヤツも多くて友達もこっちにそんな多くないですし。あと職場の同じチームは春木さんよりも年上の方ばかりで気軽に愚痴を言える相手も少なくて助かってます。でも、春木さんの為にはやっぱりなっていない様な……あれですか、これ以上、昔のことを聞かれるのはしんどいですか? 無理にお聞きするつもりは更々ないんですが、もし悲しいことを共有して楽になるなら僕を使ってほしくて」
春木はうーんと言った後、ゆっくり答える。
「この前初めて山井さんに話して、確かに楽になったんです。まだこれ以上、話してみてどんな感情になるか分からないんですが、話してみてもいいですか? ダメになりそうだったら、途中で辞めちゃうかもしれないけど」
「ええ、もちろん! 僕を実験台にして頂ければ!」
そう言うと、あの写真ほどでは無いが、ほんの少しだけ春木が微笑した気がした。
「あの、うちの親、離婚してるって言ったと思うんですけど。父が、私が十八歳の頃から仕事が原因で鬱になって、二十歳で両親が離婚したんです。それまでは写真見て頂いた通り、仲の良い家族でした。でも、父が働けなくなって、生活が出来なくなって母が仕方なく離婚しちゃったんです」
「なるほど」
「なるほど」は客観的に見て変な返事だが、山井なりの一つの疑問が解決したのだ。写真を見たとき春木は小中高の入学式卒業式では両親共と写真を撮っていたのに、大学では母とだけ写っていた。
「それで、母もずっと専業主婦だったんですが、パートに出まして。そこでまた鬱になっちゃって……」
春木の話が急に止まる。よく見るといつもより息遣いが荒くなっているように感じる。
山井は思わず春木の両肩を手で持った。
「ありがとうございます! 今日はその辺にしましょう! 大丈夫です。落ち着いて」
「……ごめんなさい、こんなことに付き合わせてしまって」
「いえ! 僕がお誘いしたんです。何回になっても良いですから、また話せるときに話してください」
山井は時々職場でパニックになる社員に北村課長が肩を持って話しかけ落ち着かせているのを見ていて良かったと思った。
「良ければ今度はその、話すこと中心じゃなくてなんかただ楽しく出掛けませんか? ほら映画館とか水族館とか。その方が春木さんも気を張らなくて済むんじゃないですか? 何かお好きなものあります?」
「うーん、そうですね……最近行けてないですが美術館とかですかね。詳しい訳では無いんですが、中高美術部でしたので。それに割と静かじゃないですか。映画館とか水族館とかは音が大きくて苦手で……」
「じゃあそうしましょう! ありがとうございます!!」
もう山井は「ありがとうございます!!」病に取り憑かれている。
次の週末は西田の新居に行くことになっていた。おしゃれなマンションの一室のドアから西田が出迎え、その後ろにはお腹の大きい美人の奥さんがいた。「本当だったんだ」と思うと同時に、絵に描いたような幸せに土足で新居に地団駄踏んでやりたい気分だった。
新婚祝いに無難な夫婦茶碗を渡し、リビングのソファに案内される。
西田の嫁がコーヒーを淹れそっとテーブルに置き、気を使って別室に行った。
「改めて、この前は悪かったな」
「もう別に良いけど、急に走り出してマジびっくりしたんだから。それよりお前、あの時女性を追いかけてなかったか? いくら彼女が数年いないからってもう社会人なんだから、ナンパとかストーカーはさすがに辞めろよ」
「え! いやいや違うって! あの、なんていうか、連絡先消しちゃって連絡取れてなかった知り合いを偶然見つけたんだよ」
久しぶりにちゃんと話して思い出した。西田は友人に大事な報告をしないようなヤツだが、勘はいい。あの日自分がしていたことは確かにほぼストーカー行為だ。
「ほんとか〜? それより、お前仕事の方はどうなんだよ。上司がパワハラ系って言ってただろ」
「うーん、まあ相変わらず指示はひどくて仕事は多いけど、隣の課長が注意してくれて怒鳴られることは減ったな」
「それはよかったな。まあなんかありゃ元々大きい会社なんだしパワハラ窓口とかに駆け込んでやりゃいいんだよ。それに配属されたの障害者雇用のグループ会社なんだろ? 何ていうか、結構気使うことも多いんじゃないのか?」
「まあ、本当に色んな人がいてそりゃ気を使うこともあるよ。でも良い人もいるんだ。俺なんかより頭が全然良いし。色々事情があって正社員では無いけど、俺が困ってたらそっとフォローしてくれて、本当に助けられてるよ」
「その人は女?」
「ん? そうだけど?」
「じゃあ好きなんだ」
「はあ? なんでそうなるんだよ! 仕事上良い人だって話だろ今」
「お前が好きな子のこと話す時の顔してた」
「……お前の気のせいだよ。大体十個ぐらい向こうが年上なんだ。俺なんて眼中に無いさ」
「今はそんな年齢差なんて関係無い時代だろ。じゃあ、その人とごはんとか行ったことはあるか?」
「……何回か」
「ほれ見てみろよ!」
「いや、それは色々事情があったんだ。仕事の帰り雨でずぶ濡れになって家泊めてもらった時に借りた服返すついでに、お礼とかでさ」
言った瞬間山井は後悔した。何でこんな俺はツッコミやすいワードを自ら言ってしまうんだろう。こんな会話下手だからいつも契約も中々取れないんだ。
「え、泊めてもらった!? なんだよ、今日は俺たちのお祝いじゃなくてお前の恋バナしにきたのかよ」
「違うよ! お前が勝手に勘違いしてるだけだろ! それに本当に終電も無くてどうしようもなくて泊めてもらっただけだ、何があった訳でもない」
「はあ〜山ちゃんにもついに春が来ましたか〜それにしても年上好きだったとはな〜」
西田はガラにも無くスキップして飲み終わったコーヒーカップを下げ冷蔵庫からビール缶を持ってくる。はあ、北村課長といい西田といい、男女となるとすぐ好きだとかどうだとか決めつけてきて嫌になる。俺は春木さんが笑顔になってくれればそれで良いんだ。それ以上は何も求めていない。
「ちなみに失礼だけど、その人は何の障害があるんだ?」
「精神疾患だよ。でもそれを感じさせないくらい仕事が出来る」
「そうか。お前が惚れてるかは一応保留にしてやるけど、ちゃんと優しくしてやれよ、大事な人には変わらないんだろうから」
西田はビールをぐいっと飲み干す。はあ、結局良い奴なんだよな、こいつも。だから女性にもモテるんだ、俺と違って。
美術館は春木のチョイスで上野の森美術館になった。今モネ展をやっていて、それなら日本人ファンも多いので絵に興味のない人でも楽しめるだろうとのことだった。実際山井は美術館にほとんど来たことがない。モネって何か睡蓮をいっぱい描いた人だよな。あれ? じゃあマネは? そう考えていたら春木が待ち合わせ場所に来た。
「お待ちいただいてすいません」
「いえいえ、ありがとうございます!!」
実際美術館はとても楽しかった。素人目にも色使いがとてもきれいだったし前提知識が全く無くても春木が時々小声で解説してくれた。表情はいつも通りあまり変わらないが心なしか春木も楽しんでくれてる気がする。
「あー来てよかったですね!お腹すいたな、お昼にしませんか?」
「あの」
春木が気まずそうに山井を見る。
「毎回外食だとご馳走になってしまって申し訳ないなって思いつつ私あまりお金がないからお返しできなくて……」
「うーん、じゃあコンビニでそれぞれ弁当買って上野公園で食べるのはどうです?」
春木の顔がほんの少しだが緩んだ気がする。これは嬉しいサインだ。段々分かってきた。
「はい! それでお願いします」
近くのコンビニで山井はチキン南蛮弁当、春木はのり弁当をそれぞれ買った。段々暖かくなってきて休日昼間の公園は子供連れが多かった。空は雲一つない快晴で、桜が蕾をつけ始めていた。
「春になると満開できれいでしょうね」
「きれいですよ。昔私よく来てました。あっちの池では、夏になったらさっき絵にあったみたいな蓮も咲くんです」
「そうなんですか! へえ見たいなあ」
「また来ましょう」
思わず山井は春木の方を振り返った。春木は表情変えず前の池の方を向いてのり弁当をゆっくり食べている。今山井が考えていることと春木が考えていることは全然違う気がした。
「家族でも、よく来てました」
「そうですか」
やっぱり違ったみたいだと思いながら山井は返す。
それぞれ弁当を食べ終わり、初春の日差しをゆっくり浴びた。お互いしばらく黙っていても、もう気まずい思いを山井は感じないようになっていた。
「あの」春木が突然決心したように話しかける。
「今日も例のチャレンジしてみていいですか?今日なら体調も良いしうまくいくかも」
「ええ、もちろん!」
「ええっと、前は父が鬱になって離婚して母がパートで鬱になったことまで言いました。で、母が鬱になったとき私社会人だったんですけど、その頃は正社員で仕事が忙しくて、母の面倒があまり見れなくて」
「はい」
「そんな中、父が亡くなったんです。母と離婚してからも、ずっと鬱で入院していたみたいで、そこで違う病気が移ったとかで。伯母が連絡くれて、七年ぶりだったんです会うのが。死んでる姿で会うなんて思ってもみなかった」
山井は春木の顔をじっと見ている。まだ息があがったりしてないようなのでもう少し聴いてみよう。
「母はそこから更に元気が無くなってしまって。ずっと父を見捨てたって自分のこと責めてたんだと思います。それでも休日とかに母に会いに行ってたんですけど、会ってもずっと暗くて。もういいよって言ってもまだ働かなきゃって。当時私の給料で生活してたので迷惑かけたくないって。でもどんどん外に出れなくなって、それなのに私仕事で精一杯だったから、母を病院にも連れてかなくて。生活費稼ぐのが自分の使命だって自分に言い聞かせて逃げてたんです。そしたらある日、母も死んじゃってたんです。家賃が振り込まれてないって管理人さんに言われてそれで家見に行ったら母が……」
山井は春木の両肩をまたおさえる。
「大変でしたね。なんて言っていいか分からないけど、春木さんは自分のこと責める必要ないですよ」
もう泣き出しそうな春木が首を横に振る。
「いえ、私がちゃんと面倒見てこなかったから」
「悪いのは、春木さんのお父さんやお母さんを追い込んだ会社の人達です」
「でも娘なのに、大事に育ててくれたのに」
「これ以上傷つくこと望んでないですよ、お父さんもお母さんも。だってとても良い方達だったんでしょう? どのお写真もとても素敵な優しい笑顔でした」
山井はもうどうしようもなく泣き止まなくなった春木の頭を勢いでベンチに座ったまま自分の肩に抱き寄せた。春木があがった息を抑えつつ泣き止んで肩で息をし始めるまで、三十分ほどかかった。落ち着いたのを見計らって、そっと山井は春木から身体を離す。
「……ごめんなさい、今日は楽しい会にしようって言ってくださってたのに。本当にこの話を誰にもしたこと無かったから、また取り乱してしまって……」
「いや、良いんです。元はと言えば僕が言い出したことなんですから。そこから笑えなくなったってことですね?」
「……はい」
山井は考えあぐねた。自分が言った通り、春木は自分を責め過ぎている。それが直れば良いのだが、もし自分が同じ立場にもしなったら、自分を責めないとは言い切れない。
そう考えていると、春木がポツリと言った。
「……命より大事な仕事なんて無いんです」
「……はい」
「だから、怖くなって前みたいに何より仕事優先って生き方を辞めたんです。自分も親と同じようになっちゃうのとか、周りが見えなくなっちゃうのが怖くて。非正規なら正社員ほど責任を持たなくて済むでしょう? 生きていくために淡々と仕事をこなして淡々と帰る。これしか私には出来なくて」
「今はそれでいいですよ。お金のこともあるだろうけど、僕も命より大事な仕事なんてこの世に無いと思っています」
「ありがとうございます。だから、山井さんも無理なさらないでくださいね。非正規の私で出来ることは少ないかもしれませんが、どうかご自分を大事にされてほしいんです。うちの会社でも、結構休職する方多いし……」
「……もしかしてあの日僕が須田さんに怒られてたときとか雨で困ってた時とか、だから助けてくれたんですか?」
「ええ、まあ。須田さんは前からひどいなと私も思っていたので。私もうこれ以上、自分の周りで誰かが倒れていくの見たくないんです。だから愚痴でも何でもお聴きします」
山井は今すぐもう一度春木を抱きしめたかった。でも春木が泣き止んだ今、抱きしめるには何か理由が無いと難しい気がして諦めた。
「辛いこと、話してくださってありがとうございます。僕も気をつけます。だから、これからも愚痴を聞いてください。春木さんの話もこれからも何でも聞きますから」
「ええ、もちろん。笑顔では無いけど、ここまで泣いたのは久しぶりです。ちょっと感情が出てきたのかも。ありがとうございます」
春木は泣いた後で鼻が近くにある桜の蕾のようにピンクに染まっていた。北村課長や西田の言うように、愛おしいとはもしかしてこういうことなのかもしれない。そこまで思って山井は自分が何だかやましい気がして首を横に振った。自分の為じゃなく、彼女の為に自分が出来ることに向き合いたい。
でも話を一通り聞いたところで、肝心の笑顔は引き出せない。それにずっと非正規なら春木の生活は苦しいままだ。北村課長に相談したかったが詳細を敢えて北村課長には春木は話してないのことだったので、勝手に話すのも気が引けた。
そこで夜西田に電話をかけた。
「はい、こちら恋愛相談窓口」
「ふざけるなよ」
そう言いながら、山井はこれまでの春木との話を全部話した。
西田はその間真剣に聴き、うーん、と唸った。そして出た結論。
「じゃあお前が結婚してやればいい」
「は?」
「お前が結婚すれば、その人も生活していけるだろ」
「いや、そうだけど……」
「それにお前はいい奴だよ。そこまでその人の笑顔を引き出そうと努力するなんて誰でも出来ることじゃないぞ。お前と暮らせば、その人だってそのうち笑顔になるよ」
「……お前が真正面に俺を褒めるなんて珍しいな。でも相手の気持ちってもんがあるだろ」
「じゃあお前の気持ち的には結婚しても良い訳だ」
「そんなこと言ってないだろ! せっかく良いこと言った後に茶化すなよ」
「悪りい。まあ俺もちょっとお前褒めたの恥ずくなっちゃって。あとそれに家族で苦労した人って、自分で良い家族を築ければトラウマはある程度克服できると思うんだよ」
山井はハッとした。西田は幼いときに父親が家を出て行き母にも見放され親戚の家を転々として育てられたと昔聞いていた。彼も自分なりに、頑張っているのだ。今の幸せそうな姿にやたらとひっかみを覚えた自分を心から恥じた。
「……ありがとう。結婚するかはさておき、お前に相談して良かったよ」
「次は結婚相談窓口でお待ちしております」
そうだ。焦らず、春木さんの話し相手にこれからもなれば良いんだ。今日みたいに深刻なことも、しょうもないことも話せる相手になれば良いんだ。そしたらいつか、笑ってくれる日が来るかもしれない。
次の日山井が出社すると、職場の雰囲気が明らかに違った。やたらと周りの視線を感じる。正社員チームからも、非正規社員チームからも。そして明らかにこちらを見てヒソヒソ話をしている。急に何があったっていうんだ。気味が悪いと思ったが仕方がないのでデスクに座りパソコンを開く。いつも通りメールチェックしていると、珍しく赤荻から朝一メールが来ていた。
「【重要】本営業所で熱愛発覚!」の件名付きで、昨日上野公園での山井と春木が写っている写真が添付されていた。ちょうど春木が泣いて山井が抱き寄せたところだった。よく見ると宛先がこのフロア全員になってるじゃないか!
山井は思わず赤荻の席に行って詰め寄る。
「おいこれ!どういうつもりだよ!」
「え〜? 見たまんまだけど〜〜?」鼻にかかる声で赤荻は答える。
「こんなことして何になるんだ!」
「え〜だって春木さん、私達が話しかけても全然笑ってもくれない癖に、山井さんにはべったりなんだも〜ん。面白くなくて、つい」
「春木さんが笑えないのは色々と事情があるんだよ!」
「やっぱりかばうんだ〜山井さんて冴えない感じだけど、結構おばさんキラーなんだね〜〜」
もう殴ってやろうかと思った瞬間、ふと気がつく。赤荻の隣の隣の席の春木の姿が無い。
「あ、愛しの春木さんはメール見た瞬間帰っちゃったよ〜北村課長が追いかけたけど帰ってこないみたい。結局みんな春木さんが好きなんだよね〜うちらみたいに障害が重度で出来損ないは、全く相手にしてもらえないのに〜」
山井はもう無視して自分のデスクに帰った。まだ全員の視線を感じる。
自分も春木を追いかけようか。そう思ったがここで出ていけば余計くだらない噂に信憑性を持たせてしまうだろう。怒りと恥ずかしさで顔が真っ赤になりながら、席にいつもより音を立てて座る。
「おい! しょうもない恋愛ごっこしてないで、契約は取れたのか!」
北村がいないかつこの場の雰囲気に便乗して須田のパワハラが始まる。周りはクスクス笑っている。今この職場は腐った人間しかいない。
そう思っていると北村から短いメールが入る。
「春木、捕まらず。新宿駅西口に来い」
山井が慌てて駆けつけると、北村はいつもより力無い笑顔で手を振る。
「春木さんは?」
「話を聞こうとしたけど振り払われて逃げられちゃったよ。もう山井さんに迷惑かけたくない、だけ言い残して」
「……」
「お前、あれから俺より色々春木のこと知ってるんじゃないか? 話してくれないか」
近くのカフェに入って、山井はこれまでの顛末を全て話した。春木は北村に話すのを躊躇っていたがこの期に及んでは仕方ない。
「……なるほど」
「僕が話を色々聞いちゃったのがいけなかったんです。あんな人通り多いところで誤解招くことしちゃったのも」
「お前は悪くないよ。春木を心配してのことだろ? 現に春木がそれだけお前に話すってことは、よっぽど信頼してるんだよ。それに目の前で春木が泣き出したら俺だって同じことしたかもしれん。ただ問題はあれだな、このままだと明日以降春木は会社に来ないかも知れんな」
「……」
それは非常にまずい。ただでさえ春木の生活は苦しいのだ。働かないと生きていけない。
「お前、春木の家知ってるんだよな?」
「はい」
「とりあえず向かおう」
こうして北村と山井は春木の家に歩き出した。俺が余計なことをしなければ。救おうとして余計に傷つけてしまった。山井はそのことで頭がいっぱいだった。
春木の家に着き、ピンポンを押してみる。誰も出ないし中の照明も付いていない。
「困ったな……」
「今日のところはお互い職場に戻ろう。あまりに俺らが席を外すとまた、春木さんばっかり、とか騒ぎ出しかねん。赤荻には俺から強く言っておくから」
「……はい」
次の日やはり春木は来なかった。ちなみに昨日北村にこっぴどく叱られた赤荻も来ていない。いい加減なヤツだし、そのうち会社を辞めるだろう。いい気味だ。いくらそう思っても山井の気は晴れなかった。春木は今どこにいて、どれほどまた自分を責めているだろう。俺が近づかなければ傷つくこともなかったのに。あともう少しに思えていた春木の笑顔が、見えないところまで離れていく。
その日の帰り道、再度春木の家を訪ねてみたが、またいなかった。
絶望ってこういう時に使うんだな、とどうしようもなくくだらないことを考えていた。
最寄り駅から家に帰ろうとして路線図のあの駅名が目に入った瞬間、山井が閃く。
あそこかもしれない。
そう思うと山井は急に走り出した。帰宅ラッシュの人混みをかき分け、電車に乗る。
降りてもダッシュだ。どれだけシャツが汗で濡れても構わず走り抜けた。
「春木さん!」
「……山井さん?」
やっぱりここにいた。二日間で既に春木は少し痩せた気がする。
座り込んでいた春木は咄嗟に逃げようとするが、すぐに山井は腕を掴んだ。
「大丈夫ですか? 家に帰ってます?」
「ずっとここにいました」
「風邪ひきますよ!」
「……私のせいで、ごめんなさい」
「何が春木さんのせいですか?」
「私が山井さんに甘えて話聞いてもらったり、泣いたりしちゃったから。山井さん、会社にいづらくなったでしょう? 私もう誰も傷つくのを周りで見たくないって言ったのに、自分が傷つけちゃった。私結局誰も助けられないんです」
山井は今すぐもう一度抱きしめたい気持ちになるが、あんなことがあってすぐ外でそんなことはできない。
「全然違います! そもそも僕が春木さんの話を聞かせてほしいって言ったんです。それに、あんなおおっ広げな所で、誤解を招く行動を取った俺が悪いんです。てか、赤荻が一番悪いんです。春木さんは何でも自分のせいだって思い過ぎですよ!」
「でも……」
「僕の家に来てください」
「え?」
「大丈夫です。こんな夜道なら、誰も見てませんよ」
「でも……」
「大丈夫です。僕を信じてください」
「これ以上ご迷惑おかけしたくないんです」
「春木さんがまたどこかに行っちゃうのが一番ご迷惑です!」
山井はこれまで出したことないぐらいの大声で叫ぶ。
そう言うと山井は春木の腕を無理矢理掴んで早足で霊園を抜け歩き出した。
そうなんだ。どれだけ距離を詰めて多少迷惑をかけたとしても、俺はやっぱりこの人の笑顔が見たいんだ。
山井の家に春木があがる。春木は所在無げに突っ立ていた。無理矢理コタツ机の座椅子に座らせる。
「何も食べてないですね!?」
なぜ怒り口調なのか自分でも分からないが、勢いが止められない。
「……はい」
「俺カレーしか作れませんけど、ちょうど残りがあるんで!」
そう言うと電子レンジで温めた。
「はい、食べてください!」
そう言われると、春木はほんの少しずつ食べ始める。
ジワっと、春木の目にまた涙が溜まる。
「どうして……」振り絞るような声で春木が話す。
「どうしてここまでして頂けるんですか……?」
山井はそれまで監視員の様に近くに立って春木が食べるのを見届けていたが、ゆっくり春木の反対側に座る。
「それは」
少し躊躇ったがもうどうにでもなれという気持ちだった。
「それは、春木さんのことが好きだからです」
春木の眉が小さく動く。
「え?」
「だから、春木さんのことが好きだからです」
「最初は、仕事で助けて頂いた恩もあって、春木さんの写真見て勿体無いなあもっと職場でも笑顔ならいいのにって思って、単純にお話聞かせてくださいって言ったんです。でもお会いするたび、春木さんが愛おしくなってることに気づきました。傷ついているなら助けてあげたい。何でも話を聞いてあげたい。それって、誰にでも思うことじゃないなって、やっと最近気づいたんです。春木さんは一見飄々としている様に見えて、誰より繊細な方です。僕が守りたいんです。十個も下だし、仕事の出来も悪いから頼りないかもしれないけど、僕が守りたいんです」
山井はここまで一息で話した。
「え……そのあの、なんていうか」
「春木さんが僕を好きじゃなくても大丈夫です。でも僕が絶対笑顔にします」
「……えっと、こんな、十個も上で、精神障害があって、無愛想な私を?」
「そんなことどれも関係無いです。繰り返しですが、僕が絶対笑顔にします」
「あの、こんなこと言われたの、久しく無くて……ただ今、混乱してどうお答えしていいか分からないんです……」
「大丈夫です。春木さんが何か返事をしないといけないことじゃないです。でも、一つだけ守ってください。しばらく会社に行かなくていいです。今行っても傷つくだけだから。そして、落ち着くまでは勝手に僕の前からいなくならないでください。またいなくなっちゃうと困るから。あ二つだ」
熱くなりすぎている自分にふと気づき、山井は慌てて舌を出して戯ける。春木の眉がハの字になって、困りながら少しだけほころんだ様に見えた。
「……本当に山井さんは、良い方ですね」
「いいえ、春木さんの方が良い方です。良い方過ぎるぐらい。あ、北村課長もだいぶご心配されてたので、メールだけ打っときます。ごめんなさい、今回の件でこれまで聞いたお話、勝手に北村課長にしちゃいました」
「それは仕方ないです。むしろありがとうございます」
「あ! 風呂も入ってないですよね? マジで風邪ひきますよ。今タオルと着替え持ってきますね、風呂ためるんでちょっと待ってくださいね」
そう言って山井が部屋から風呂の方へ向かう。
「ふふ」
「え?」慌ててリビングを振り返る。
「いや、あの日の逆みたいだなと思ったらなんか可笑しくって」
「今、笑いました?」
「もしかしたら、そうかもしれません」
「僕今風呂の方向いてたから見れてないですよ! もう一回笑ってください!」
「笑えと言われると難しいです」
「いやいや! 笑ってください! ほら、僕もう一回同じこと言いますから。あ! 風呂も入ってないですよね? マジで風邪ひきますよ。今タオルと着替え持ってきますね、風呂ためるんでちょっと待ってくださいね」
「文言自体で笑ったわけじゃないです」
「え〜? だってせっかくのチャンスですよ? どうしたらもう一回笑ってくれます?」
「もう笑ってます」
「嘘、今真顔ですよ」
「とっても楽しいです。だから、笑ってます。顔はあと何年かすればきっと追いつきます」
「え……あ、ありがとうございます!!!」
そういうと山井は急いで風呂をため春木のために服を取り出し風呂に入った春木の服を洗濯機にかける。
上野公園の桜の蕾が少しずつ開き始めていた。あと何回桜が咲けば本当の春が来るのかは分からなかったが、いつまでだって待てると山井は思った。