嘘と記憶と幸せな暮らしの話
ある朝、目が覚めると隣で知らない女性が眠っていた。
綺麗な人だった。長い睫毛がどこか神秘的で、その目蓋の向こう側にはとんでもなく透き通った瞳が隠されているんじゃないかと思ったし、カーテン越しに漏れる朝日に照らされた肌は透明感と人の温かみが綺麗に保たれていた。柔らかそうな頬と清潔な枕に挟まれてくしゃっと縒れた黒髪がなんだか見てはいけないもののように色っぽくて、けれども淫らだとか品がないだとかは少しも思わなかった。
その人は、華やかな美人というわけではなかったと思う。たぶん、街中ですれ違っただけでは特段目を惹かれたりはしなくて、顔の造作を一つ一つ観察していってようやく綺麗な人なのだと気づく類の美しさをしていた。そんな人が、僕の隣で無防備に眠り、すぅすぅと小さな寝息を立てていた。目を閉じていたし眠っていたわけだから正しいかどうかはわからないけど、なんとなく、穏やかに微笑む人なのだろうなという印象を持った。
窓の外で小鳥が二度鳴いて、僕は随分と遅まきながら今いる状況の不可解さに思い至った。この人は誰で、どうして隣で寝ているのだろう、と。
間近にあった彼女の端正な顔立ちに見惚れてしまっていて気が回らなかったけれど、そもそも僕はこの女性のことだけでなく、自分が今しがた目覚めた場所が一体どこなのかもまったくわからなかった。一見して特筆すべき点のない寝室のようだけど、僕には一切見覚えがない。
すわ誘拐かとも思ったけれど、体のどこも縛られておらず自由は効いたし、犯人候補筆頭は僕の隣で絶賛眠りこけている。僕と彼女の恰好はお揃いの寝巻だった。まさか、誘拐者が僕を着替えさせて寝かせたりだとかそんな親切を働くわけがないし、それに、資産家や高級住宅街の住人ならまだしも、僕のような平々凡々な人間をかどわかしても危険と対価が見合っていない。だって僕は本当に大したものを持っていないはずだし、と。自分が攫われる標的にどれだけ不適格か誰にでもなく説こうと思ったそのとき、僕はようやく自分の身に起こった異常に気がついた。
何も思い出せなかったのだ。正確に言うと、思い出そうとすることすらできなかった。思い出すという行為はよく抽斗から物を探す行為や水の中から目当てのものを掬い上げる行為に喩えられるけれど、僕の場合、そもそも抽斗自体が見当たらなかったし、水の張られた器自体が存在しなかった。僕の頭の中に検めるべき記憶の集積はなく、代わりに空白だけがあった。
僕は、僕のことを何一つ知らなかった。名前も、経歴も、交友も、何も知らなかった。明らかに見当識が保たれていなかった。そこまで認識して、その状態をどう呼ぶのかようやく合点がいった。
どうやら僕は記憶喪失のようだった。
◇◇◇◇◇
自分の身に起こった異常が発覚してすぐ、まだ眠っている名前も知らない彼女を起こさないよう慎重にベッドを抜け、僕はひとまず状況の把握に努めた。とはいえ、できたことといえばそれらしい場所を手当たり次第に探して身分証を確認することと、枕元にあった携帯端末――指紋認証で開くことができた――を確認することくらいだったのだけど。現代に生きる人間一人の世界を知るにはそれだけあれば十分だった。
自分の名前や年齢、大まかな生活習慣など、おおよそ欲しかった情報は手に入った。どれも、これといって変哲のない若者のプロフィールという印象だった。そして、不法な覗き見をしているような居心地の悪さに駆られながらも携帯端末を開き自分の交友関係を確かめているうちに、隣で眠っていた女性との関係性もわかった。
彼女は僕の妻だった。僕と彼女は、狙ったかのようにどこにでもいるような平凡な名前をしていた。籍を入れてそれほど長くないのか、手元の端末の画面にはまだ初々しさの残る二人のやり取りの履歴が残っていた。交わされた文面からは、慎ましくも日々の幸福を抱きしめて生きる二人の充足が伝わってくるようだった。そんな幸せの中にいる自分の姿を想像してみても他人事のように実感がなかったけれど、同時に少し、心の隅のほうが満たされてもいた。初めて味わう気分だった。本当にそんな感覚が初めてだったかは定かじゃないし、そもそも記憶喪失なんてそう何度もなっていたら堪ったものじゃないけど。
僕はしばらく、この人が自分の妻なのだという事実を馴染ませるように、ベッドの上で眠る彼女の姿を無意識のうちに眺めていた。まだ目が覚めたばかりで、完全には頭が回りきっていなかったのかもしれない。彼女の耳の形や、布団からはみ出た指の細さといった細部をぼうっと見つめて、本当に彼女が血の通った人間なのか確かめていた。それくらい、なんだか自分の身の丈に合わない幸福の中に置き去りにされたような気がしていたから。
そうしているうちに、やがて彼女が小さく呻きながら寝返りを打った。そこで僕の意識は現実に引き戻され、逃避気味だった思考が問題への対処のためにぐるぐると働き始める。少しの逡巡の後、体の調子が悪いから病院へ行ってくる、と適当な紙に書き置きを残して僕は家を出た。端末が正しければ今日は休日だったから、怪しまれることはないだろう。どんな対応を取るにせよ、考えを整理する時間は必要だった。
僕の目が覚めたのは随分と早い時間帯のことで、外の空気はひんやりと心地よかった。早朝の街はまだ全体が藍色の陰に包まれていたけれど、ずっと向こうから昇り始めた金色の朝日が次第に世界を照らそうとしていた。そんな朝と夜の狭間の曖昧な世界がどうにも静かで好ましかったから、僕はせめてもの抵抗としてその気分を長く味わっていようと、知らない街の知らない朝焼けの中を、朝日に背を向けてあてもなく歩き出した。
結局、僕は頭の中でぼんやりと考えを巡らせながら、その足で日が高くなるまで散歩をしていた。天気のいい日だった。本来なら書き置きに記したとおり、記憶喪失が判明した時点で病院などに行くべきだったのだろうけれど、僕は病院へは行かなかった。今のところ、今後も医者に掛かる予定はない。
僕は、記憶喪失という事実をできる限り隠し通すことに決めていた。
それは決して、この特殊な立場を利用して悪事を働こうだとか、そういった意図があってのことではない。僕なりに様々なものを守ろうとした結果の選択だった。
本当に何もかも綺麗さっぱり忘れていたならある意味ではもう少し楽だったのだろうけれど、厄介なことに、そして幸福なことに、僕はそれまでの日々が幸せだったことを体感としてぼんやりと覚えていた。彼女が妻だという事実は、理性の部分では自分でも疑わしく思えるほどだったのに、実のところもっと深い心象の部分ではしっくりときていた。彼女と過ごしていた日々の記憶は、幸せな夢を見ていたときの感覚とよく似ていた。仔細は決して思い出すことができないし、思い出そうと具体的な想像をすればするほどかけ離れていってしまうくせに、その輪郭だけはぼやけながらも残っている、そんな状態だった。眠っている姿しか見た記憶がないのに、彼女がどんな声をしていてどんな言葉で話してどんな風に笑うのか、僕は確信に近い強さで知っている気がした。以前のことなんて何も覚えていないけれど、僕はなんとなく幸せだった。
なるべくそんな生活に水を差したくはなかった。二人で暮らしている片方が記憶を失えば、どうしたって波は立ってしまう。何かが変わってしまう。記憶を失ったという秘密を永遠に保てるなんて思っていないけど、朧げながらも脳裏に残る幸せの実感を、僕はもう少しだけ生きながらえさせたかった。いつかそんな嘘が露呈するにしても、自分の口から告げて早々に日々を歪めてしまう理由などどこにもなかった。
かくして、そんな決意とも呼べないささやかな企みを胸に、僕は素知らぬ顔で帰宅したのだった。
家の中は静かで、電気も点いていなかった。玄関で靴を脱ぎながら、外出でもしているのか、と内心で当たりをつけた僕は、少し油断しながらリビングに向かった。午前の日が射す食卓に、湯気の立つ白いカップを手にする彼女がいた。
「あ、おかえり。病院に行くって書いてあったけど、どうだったの?」
見知らぬ人間からかけられる第一声があまりに不自然なくらい自然体だったから、僕は少し面食らってしまった。そういえば、僕にとってはファーストコンタクトでも、こんな会話は向こうからしてみれば何千回と交わした日常なのだと、改めて自分の記憶喪失を実感した。
「ああ、うん。疲れが溜まってるだけだってさ。休めばよくなるって言われたよ」
「そっか、大事なくてよかったね」
自分の口から出ていく言葉に気負いはなかった。彼女との話し方は体が覚えているのかもしれない。
「一応、朝ご飯は用意して待ってたから、一緒に食べようよ」
そう言いつつキッチンへ向かう彼女は、僕のことをくんづけで呼んでいた。また一つ、欠けていた穴にぴったりと何かが収まったような感覚がした。
「あ、そうだ」
忘れていたことを思い出し、僕は呟く。何事かと、料理を用意していた彼女が顔を上げる。
「ただいま」
試しに、彼女の名前を呼び捨てにしてみた。口にしてから、端末を見た際に以前までの僕が彼女のことをどう呼んでいたかちゃんと確認しておけばよかったなと軽く後悔した。彼女は、やけに改まった様子の僕を不思議そうに見ていた。この時点で何も言われないのであれば、呼び方という最初の鬼門は突破したものだと思っていいのかもしれない。僕は内心で安堵する。
そして、ややあって柔らかく少しだけ微笑んでから、彼女は二度目になる「おかえり」を、僕の「ただいま」と同じくらい大切そうに言った。
ああ、やっぱり僕の想像どおりの笑い方をするんだな、と思って、僕も小さく笑った。
そうして、嘘に塗れた僕と彼女の生活は密かに幕を開けた。
◇◇◇◇◇
普通、赤の他人と突然共同生活を強いられるような状況に陥れば誰だって戸惑いや苛立ちか、そこまでいかずとも多少はよそよそしさを感じるものだと思うけれど、僕は彼女との生活において、そういったものをまったく感じなかった。せいぜい記憶をごそっと失ったことによる諸々の不便さを感じたくらいだった。それどころか、僕はこの家で彼女と生活をともにしていることに調和感さえ感じていたのだ。
その理由は言ってみればごく単純なもので、この奇妙な生活が始まってすぐ、僕が彼女を好意的に思い始めたからだった。
記憶が人を形作るという言葉やそれに類する意見を見聞きしたことがある。しかし、僕は何もかも忘れていても、たった数日で妻に惹かれ始めた。その定説がそもそも間違っていたのか、はたまた僕自身が失くしても差し支えない記憶しか持たないちっぽけな人間だったのか。なんとなく後者な気はする。記憶を失くす前の僕も嘘をついている今の僕も、たぶん妻の同じ部分に惹かれ、同じように恋に落ちていた。自分にとって好ましい人と結婚するのが一般的なのだから、それはある種の宿命みたいなものだったのかもしれない。
例えば食事をともにしているとき、例えば視線を手元の本に落としている彼女の横顔をぼうっと見つめたとき、並んで布団に入って照明を落としながら、ちゃんとした言葉にすらならない彼女の小さな相槌を聞いたとき。丁寧なその仕草や静かな生活そのものを目の当たりにして、なるほど、彼女は本当に僕が好きになる類の人なのだな、と強く思ったものだった。彼女を大切に思っているというその一点に限っては少しの嘘もなかった。これといった馴れ初めやきっかけなど何もないまま、僕は彼女を好きになった。だから、彼女との暮らしは僕に少しの苦痛をもたらすこともなく、終始穏やかに満ち足りていた。
唯一の例外は、僕が嘘をつく必要に迫られたときだった。
共同の空間で寝食をともにしている以上、話をする機会は常にあった。もちろん、僕が自分から記憶喪失の発覚に繋がるような話題を振ることは基本的になかったけれど、折に触れて彼女が過去の記憶を要する話をすることはあったし、極端にその手の話題を避けすぎて怪しまれないよう僕のほうから恐る恐るそういった話を持ち出すことも稀にあった。また、僕と彼女のどちらも意図していなくとも、自然な会話の流れを辿っていった先で以前の記憶が掘り起こされるということもままあった。
そうなったとき、僕は決まって様々な受け取り方のできるふわふわとした返答で誤魔化し、巧妙に話題を逸らして現在に引き戻そうとするのだった。幸いにも、妻が強引に話を戻して自分の話したかったことを押し通すような人物ではなかったこともあって、秘密の露呈はなんとか免れていた。
そうして話が途切れたとき、僕たちは大抵食卓に向かいあって会話していたから、僕はコーヒーで乾いた舌と唇を湿らせ、彼女は話が膨らまずとも特段気にも留めていないような顔でお茶請けを口に運び、また少しすると柔らかな眼差しをこちらに向けて別の他愛ない話に興じるのだった。僕は、その姿勢に酷く救われていた。こういう言い方が正しいのかわからないけど、そこには人工的な遠慮や関心がないように感じられ、記憶を失くした今の僕ごと肯定されているような、適切で自然体な心地よさがあった。その在り方には、記憶喪失を隠してそれまでの幸せを幸せのまま残しておきたいと思っている僕の理念と共通するところがあったから。最愛の人にまた一から惚れ込んでいくという体験を重ね、僕はいつか記憶を取り戻してしまう日がますます惜しくなった。
僕も妻も自分から慌てて会話を広げる性分でもなかったから僕たちの間には沈黙が降りることもよくあったけれど、それは過剰に相手を求めずとも、本当に必要なことしか話さなくても互いに大丈夫でいられるという、絆や信頼がそこにあった証だったのだと僕は思っている。
そのようにして、春に散歩をしているときのような速さで、僕と彼女の時間は順調に過ぎていった。
しかし僕は、そんな束の間の猶予みたいな生活が長く続くわけではないことを当然承知していたし、実際に、その日々の終わりは思いのほか呆気なく訪れた。僕が記憶喪失になってから、ちょうど一月ほどが経った頃のことだった。
当たり前といえば当たり前の話だ。所詮、僕がどれだけ小賢しくいつもどおりを装ってみたとて、記憶を失くしたなんて一大事を隠し通せるわけがなかったんだ。僕は役者ではなかったし、たとえ役者であったとしてもその技能や経験だってどうせ失われている。何せ、どんな人を演じたらいいのかすら覚えていないのだから。
そう、ただの一般人がともに住んでいる家族に一月も記憶喪失を隠し通せる道理など、初めからどこにもなかったのだ。そもそも、ただでさえ目端が利いて何事にも丁寧に接する妻の性格を思えば、結婚するほど近しい相手の異常に一月もの間気づかないほうがおかしいのだ。僕の拙い秘密の保持は、本来ならあり得ないことだった。
ただしそう言いきるには、一緒に暮らしていたのが本当によく知っている家族なのであれば、という前提が必要だった。
ここからは、実際に彼女に訊ねてみたことはないから僕の予想があっている前提で話を進めていくことになる。
妻が僕の秘密を悟るのと時期を同じくして、僕も妻の隠していた秘密に気づいていた。思えば、手がかりはいくつもあったのだ。
僕は記憶喪失を疑われないよう、自分から思い出話を振る回数がなるべく妻と同じくらいになるよう気をつけていたけれど、ということはつまり、妻も僕と大差ないくらいの数しか自分から思い出話をしなかったということなのではないか。
記憶を失くしてから初めて妻と話したとき、僕が改めて言った「ただいま」という言葉に「おかえり」と返した妻は、まるで僕と同じくらいその言葉を大切そうにしていなかっただろうか? 妻の名前の呼び方に疑問を持たれなかったのは本当にその呼び方が以前までと同じだったからなのだろうか? 仮に妻が僕と同じ状態だったとして、以前の記憶を持たない僕は妻の変わりように気づくことができただろうか?
こういった具合に、この一月の記憶を遡ってみればそこら中にヒントは転がっていた。僕と彼女の愛おしい日々は、大きな嘘と滑稽な思い違いの上に成り立っていた。
妻も、僕と同じように以前までの記憶を失っていたのだ。
おそらくは、妻が記憶喪失を発症したのは僕と同じ日なのだろう。僕が外出している間に目が覚めた彼女は自分の身に起きたことを知り、色々なことを確かめ、色々なことを考えた末に幸せだった日々の余韻を感じて、嘘をつき通すという僕と同じ結論に至ったのだ。そうして嘘だらけの結婚生活を送り始めた僕たちは、どちらも自分の秘密を隠し通すことに必死で、まさか相手も同じように秘密を隠していたなんて思いもしなかったというわけだ。
なんとも間の抜けた話だけれど、僕はそれに気づいたとき、素直な嬉しさが胸中に押し寄せていた。過去の生活が幸せだった感覚とか記憶喪失以後の日々を愛おしむ気持ちが独りよがりではなかったということだったから。それは、言葉より雄弁な愛情だったのかもしれない。
やがて時間が経つにつれ、揃いも揃って抜けている僕たちでも互いがついていた嘘には薄々と勘づき始めていたわけだけれど、それが決定的な確信に変わったのはつい昨夜のことだった。
昨日は珍しく二人揃って寝坊をしたせいで朝が慌ただしく過ぎていき、夕食を食べ終わった後になってようやく僕たちはまだカレンダーを捲っていないことに気がついた。暦の上ではちょうど月が替わった日だった。そうして遅まきながら新たな月を迎えた僕たちの目に、カレンダーに記された一つの予定が飛び込んできた。
新しい月の一日の欄、つまり昨日のことだ。そこには、少し丸みを帯びた妻の綺麗な字で、「結婚記念日」と書かれていた。おそらく、記憶喪失になるよりずっと前の妻があらかじめ書いていたものだ。
当然僕はその日が大事な日であることなんて知らなかったから、なんの準備もしていなかった。これはまずい、と思って妻のほうを向くと、ちょうど妻もこちらへ顔を向けたところだった。自分がそんなことを書いていたなんてまったく覚えていない、みたいな顔で。たぶん、僕も彼女も似たような表情をしていたと思う。僕たちはたっぷり十秒ほど見つめあって、ようやく二人の身に起こった全てを知り、自分たちの滑稽さを理解した。とてもくすぐったく、温かく、やっぱりくすぐったい気持ちになった。
結局昨夜は、閉店間際のケーキ屋で小さなホールケーキを買って、まるで夫婦のお手本みたいにベタな会話をしながら並んで歩いて、二人でささやかなお祝いをした。それから、真実を打ち明ける素振りなど互いにないまま、「おやすみ」と声をかけあって眠りに就いた。いつもより少し、それは特別だった。結婚記念日のせいかもしれないな、と僕は思った。
◇◇◇◇◇
朝、僕より少し早起きな妻がいつも食事を用意してくれている。珍しく僕のほうが先に起きたときも、適当な菓子パンなんかで済ませようとしていると、「朝はちゃんと栄養のあるものを食べないと」と柔らかく窘めて、どこか楽しそうにエプロンを身に着け始める。そういう丁寧なところとか、当たり前のように優しいところが好きだなと感じる。じんわりと、愛おしく思う気持ちが滲んでくる。僕はたぶん、以前からこんな風にその背中を眺めていたんだろう。
僕も少し手伝って、二人分の朝食が食卓に並べられる。トーストと、ベーコンエッグと、サラダと、ジャムや調味料の瓶などが、食卓に空いた隙間を埋めて寂しくさせないようにいくつも並ぶ、そんな朝の光景。
「どれにする?」と彼女が調味料を手に問うてくる。
「僕は目玉焼きには塩コショウ派だ。昔からそうだっただろう?」
「うん、知ってる。昔からそうだったね」
まるで予定調和のようにそんな言葉を口にしあって、彼女に礼を言って受け取る。僕の舌の好みでいうと、本当は醤油をかけるのが好きなのに。今日塩コショウをかけたのはただの気分だ。
思いつきで言ったんだよ、と僕は小さく呟く。
思いつきで返したからね、と彼女が小さく呟く。
目配せを交わして、誰に見られているわけでもないのにやけにこっそりと笑いあい、いただきます、と二人で手を合わせた。仲睦まじいというには少し遠くて、他人行儀というには色んなものを共有しすぎている、そんな関係で僕たちは暮らしていく。食卓に並べられた普通の朝食に、窓辺から射す朝日が柔らかく注がれていた。幸福を閉じ込めたような味がした。僕たちはまた、昨日までと同じように他愛ない話をする。
そんな風にして、僕たちは今日も嘘くさい言葉だらけの日々を、滑稽に大切に、本当に心の底から愛して過ごしていくのだ。