泥棒と花と春の話
僕は泥棒である。比喩でも何でもなく、金品を窃盗するという正しい意味での泥棒である。もしかすると、泥棒というのは少し自分にとって耳触りの良い言葉を選びすぎているかもしれない。現代日本にそぐわない古風な言葉で現実から目を背けているかのようでなんだか卑怯だ。言い方を変えよう。
僕は犯罪者である。
それまで規範に忠実に生きてきた僕が初めて犯罪に手を染めたのは、新卒で入社した会社を二年で辞めた頃のことだった。
退職理由はどこにでもあるような人間関係に端を発するもので、僕の一家は犯罪者の一家だという噂を社内で流布されたのだ。噂を広めていたのはそれなりに仲良くしていた同期の男だった。僕自身に競争意識はなく、まともな幸せを掴もうと人並みの努力をしていたつもりだったのだけれど、どうやら彼は僕を目の敵にしていたようだった。ともあれ、そんな状態で労働をするというのは難しいものだった。ばつの悪そうな顔をした上司が僕を飲みに誘ってくれたその日、僕は会社を自主退職した。
社内には僕の人柄を好意的に捉え、噂に否定的だった人もいたけれど、僕が噂について中傷だと憤ったり、撤回のために動き回ったりすることはなかった。そんなものをしたところで圧倒的に僕が不利だったからだ。噂の内容はそのほとんどが真実だった。
その頃、当時の僕にまだ犯罪歴はなかったけれど、僕の両親は前科のある犯罪者だった。両親は僕が九歳の時分に交通事故を起こして揃って亡くなっていた。飲酒運転で真夜中の国道をかっ飛ばし、信号を無視してトラックと衝突したらしい。さらには所持品や付近の店舗の監視カメラから万引きの形跡が見つかったとかで軽いニュースになっていた。既に実家から勘当されていた両親の息子である僕に引き取り手はなく、僕は養護施設で育った。犯罪者の息子として過ごす小学校生活は苦労の連続だった。僕はきっと、その頃からもう人としておかしくなっていたのかもしれない。
そんな生い立ちを、二年かけて信頼した同期の男に話したら三日後には噂が広まっていた。自分の迂闊さに笑えてくる。それ以降、僕は人に期待するのをやめた。
そうして仕事を辞めた僕は、それからしばらく何もせずに生きていた。
僕が悪事を犯したわけでもなければ、僕に犯罪者の血が流れていると世界中に喧伝されたわけでもなかったけれど、僕はもう働く気にはなれなかった。自分がどこかに属し、求められ、受け入れられる未来が想像できなかった。そして、社会の流れに身を任せて惰性で生きてきた僕は、一度普通という軌道から逸脱してしまえばその後はもう何もできなくなった。人が生活するのは自分が幸福であるためだ。自分の欲求を満たし、自分の欲求が満たされる未来を守るために人は生活をしている。
じゃあ、自分の幸福を願えない人間はどうしたらいい? 自分を含めて大切なものが何もない空っぽな僕は、何を理由にして生きたらいい?
そんな問いかけの答えがわからないまま僕は天井を眺め、貯金をすり減らしながら現実逃避をし、緩やかな破滅を待っていた。貯金が底を尽いたのは、僕が会社を辞めてから丁度一年ほどが経った頃だった。
ある日、シャワーを浴びていると突然お湯が冷水になった。その日は故障かと思っていたのだけど、翌日も翌々日も、水は温まる気配すら見せなかった。一週間ぶりに外出し、溢れそうになっている郵便受けからはみ出していた封筒を見て、ガス代が払えず使用を差し止められていたのだと知った。ガスがなくても死なないし別にいいか、とそのときの僕は思った。本当に、色々なものがどうだってよかったのだ。
帰宅してから僕は冷たいシャワーを浴びた。ただ冷水を浴びるのとはわけが違った。お前は最低限の賃金すら稼げず、人と交わした契約すら満足に履行できない出来損ないなんだという、どうしようもない事実を浴びせられていた。身体が芯から底冷えするようだった。
そして翌日、僕は困った。家にあった食料がなくなったのだ。手持ちのお金もなかった。通帳の数字も、淡々と引かれていくばかりで一向に増えることはなかった。
停滞して腐敗することになれてしまった僕は今更まともに働こうとは思えなかったが、かといって死にたくはなかった。自殺は怖いし、飢えは苦しい。空腹を紛らわせようと散歩をした僕は、なんとなくいつもと違う道を歩いた。新しい発見や刺激を無意識に欲していたのかもしれない。
そこは、防犯観念の欠片もない小さな個人商店だった。腰の曲がった老婆が、店の奥のほうでこちらに背を向けて誰かと電話していた。商品棚が三つあるだけで、会計機などもない粗末なレジの向こう側は住宅になっていて、店の正面にある黄ばんだ自販機にはたばこが並び、電線にはよくわからない雑草が絡まっていた。僕はそんな店の前を通りかかった。
お腹が減っていた。魔が差したというしかない。数百円のお菓子がやたらと美味しそうに見えた。
僕はその商品を懐に入れてその場を去った。平日の昼間のこんな場所で誰かが追ってくるはずもなかったから、走ろうともせず、僕はゆっくりと家まで帰った。家で食べたそのお菓子の味はよくわからなかった。でも、飢えは満たされてしまった。
それが、初めての犯罪だった。
あれほど自分が毛嫌いしていた万引きという姑息な犯罪を僕はしてしまった。 初めての万引きはそんなに大したものじゃなかった。こうしなければ僕は死ぬのだという自己中心的な考えがあって、自分の精神構造の醜さを思い知らされただけで、だからといって自己嫌悪も背徳感による高揚も感じはしなかった。酷く無感動な初犯だった。
真面目に生きているつもりでいても、ちゃんと僕は両親の血を引いていた。蛙の子は蛙だという、古典的な諺が僕の人生で証明されていた。なるようになっただけだった。ただ、もうこの手で綺麗なものに触れてはいけないなと思った。
翌日、ほんの少しの罪悪感を埋めるように偶然を装ってその商店まで赴き、荷運びに苦労していた老女を手伝った。時給に換算すれば数百円分は優に超えるほどの助力をして、礼を言われてその場を後にした。
それからも、窃盗をしたとてあまり心の痛まなかった自分の善性を確かめるように、僕は街の至る所で気色の悪い善行を重ねた。その裏で、やはり僕は様々な店から物を盗んだ。昔の義賊のように、標的を悪人に絞って勧善懲悪を為せたならいくらか僕の心も救われたのだけど、あくどい商売をしている人なんてそうそういるものではなかった。その腹の内がどんなえぐみのある色をしているのかはわからないが、人は皆僕の目に見える範囲では清廉であったし善良であった。これは仕方のないことだ。そんな言い訳でもしているかのように、僕は必要最低限の物資だけを盗んでいった。
一度に当面の食料を盗まないとなると当然盗みを働く頻度も高くなるから、自然と僕は盗みが上手くなった。僕の目は機会を見計らうことに長け、僕の顔は平然を装うことに慣れ、僕の心は良心の呵責など消え去るほど都合よく摩耗した。
そうして、二十五歳の春、とうとう罪悪感すら感じなくなった僕はかくして身も心も泥棒になった。
そして自分を言い逃れもできないほどの完全な悪人だと心の底から認めた瞬間、僕は気づいた。
僕の人生に広がっていたのは、途方もない自由だった。僕はきっと今後人を求めず、求められず、淡々と窃盗を繰り返し、素知らぬ顔で街を歩いて生きていくだろう。申し訳なさだって感じたりはしない。僕がこれから何十年生きても、変わるのはきっと僕の行為による被害額くらいだ。どこかの店の、収支表のどこかの数字が少し変わるだけだ。奪うばかりで、消費するばかりで、何も生まないし与えない。生きていても生きていなくても何も変わらない。僕は何にも縛られておらず、そしてこの世界の何にも引き留められていなかった。陸地の見えない大海にいかだで漕ぎ出してしまったかのような、そんな自由が、あるいは空虚が、僕の前に広がっていた。
死んでしまおう、と僕は思った。僕がいない世界のほうが少しでもお得なら、そのほうがきっといいじゃないか。それはある種の前向きな幸福論だった。生きるだけでもどうしたって費用はかかるのだから、自分の人生をただの損失だと定義して、そこから生まれるマイナスを少しでもゼロに近づけようとする、消極的な幸福論だった。
死に方には色々あるだろうけれど、どうせ自殺をするのだから紛れもなく自殺でしかありえない死に方をしようと思った僕は、余っていたなけなしの金でロープを買った。首を括るための物だ。自殺をするにも金は必要だった。
そうして、六畳の狭い部屋の中で首を吊ろうとした。しかし、途中で怖くなって、どうしてもできなかった。ゴツゴツとした嫌な質感をしたこの丈夫な縄にぶら下げられて僕は死ぬのかと思うと、猛烈な寂しさに襲われた。誰かこんな僕を止めてくれよ、と願いすらした。縄に首を通した瞬間、くだらない漫画の結末やシンクに溜まったままの洗い物や読みかけの文庫本が、無性に惜しく思えた。悲惨なことに、僕が失いたくないものはたったそれっぽっちのものばかりだった。僕はまだ、心の隅のほうで生活を大事だと思っていたのだ。怖気づいた自分が情けなくて、鮮明な死の恐怖を遠ざけたくて、すぐに近くの公園でロープを捨てた。僕は自殺に失敗した。
それから、僕は部屋を綺麗にすることにした。
生活の面影が残っているから死ぬのが怖いんだ。こんな生を名残惜しく思うんだ。未練の欠片も残らないくらいに、思い出の欠片も残さないように、全部捨てよう。そして、誰かに嫌われよう。そう思った。
そうして僕は、要らないものを売り払うため街へ出た。街へ出て、そして一人の女の子に出会った。ある春の日のことだった。
その子は、近くの病院に入院している、大学生くらいの女の子だった。長閑な公園で遭遇したその日、何かあったのかと訊ねた僕にその子は開口一番「死にたいんです」と言った。あまり悲しくなさそうな顔で、ともすれば微笑んでいるようにも見えた。涙すら出ないほど心が乾ききってしまったんだなと僕は思った。僕だってあんまり悲しくないけど無性に死にたいと思っている人間だったから、その子に少し共感した。
その子は先月両親を亡くしたらしい。事故だと言っていた。唯一生き残った彼女は後遺症で足が自由に動かせなくなったようで、車椅子で移動するのに苦心していた。そして時折、糸が切れたように動きを止めて、車椅子の上でぼんやりとしていた。その後ろ姿は、下手に狙って作られた物語よりもよっぽど残酷だった。惨いくらいにその子は人生を諦めていた。
僕が散歩でその道を通りかかるたび、その子は公園の中でぼうっとしていた。優しい春景色の中で、いつも静かに死を望んでいた。曰く、「病院には、生きたいと思っている人と生かしたいと思っている人しかいませんから。居心地が悪いんです」とのことだった。
「そういうものかな」
「少なくとも、あなたみたいにさっぱりとした人はいませんね。同情や憐れみが大半です」
「もっと君のことをかわいそうだと思ったほうがいいのかな」
「いいですよ、そのままで。他の人と話すよりずっと気楽です」
去り際に、よかったらまた来てください、とその子は言った。少し迷ってから、いいよ、と僕は頷いた。それは、自殺の期日を引き延ばす口実としてとても魅力的な誘いだった。この子に嫌われるのもいいかもな、と僕は思った。
自殺は、その子との関係が破綻するその日まで延期となった。
それから、四月の頭から終わりまで、公園で会って話をした。一月にも満たないその日々を懐古するとき、思い出の世界はいつも淡い桃色で彩られていた。桜のよく舞う春だった。
「おはよう。今日も死にたそうな顔をしているね」
「おはようございます。お兄さんこそ何にも期待できないような顔をしていますね」
「痛いところを突くね」
「お兄さんは何が楽しくて生きてるんですか?」
「つい最近知り合った女の子と話すのを楽しみにしているよ」
「趣味が悪いですね」
毒にも薬にもならない浅くて意味のない言葉を何度も交わしあった。少しずつ僕は部屋の中にあるものを片付けていった。
「こんにちは。今日も君は退屈そうだ」
「こんにちは。お兄さんが来たので少し退屈じゃなくなりましたよ」
「それはよかった」
「毎日毎日、飽きませんか?」
「飽きないな。僕もかなり暇な人間だから」
「そうですか、よかったです。じゃあ今日もくだらない話でもしていましょう」
そんな会話こそ重ねていたけれど、僕たちは親密になったりはしなかった。漠然とした絶望を共感しあえる赤の他人という距離感が、きっと僕たちの最善だったから。僕は彼女の名前すら知らないし、事故の詳細も知らない。彼女は僕の名前を知らないし、僕が近隣の店で盗みを働いているということも知らない。絆というには歪で不確かな、人生に対する底なしの諦念が僕たちの間にはあった。
何も知らないまま、僕たちは春を浪費した。
「こんばんは。……桜でも見に行かない? 綺麗に見える場所を知ってるんだ」
「こんばんは。……どっちでもいいです」
「どっちでもいいなら行こう。僕が君を連れていくから」
せせらぎに耳を傾けながら夜の川のほとりをゆっくりと歩き、彼女の車椅子を押した。僕も彼女もずっと黙っていた。艶を落としたみたいな真っ黒の空に立ち並ぶ桜はくっきりと浮き上がり、枝先がしなだれて僕たちを招いているようだった。穏やかなのにどこか寂しい。静かなのに奇妙に浮ついている、そんな春の宵だった。
「綺麗ですね、桜」
そう言って彼女は微かに微笑んだ。本当に小さく柔らかな笑みを浮かべただけだったけれど、初めて見る楽しそうな顔だった。
「どうして急に連れてきてくれたんですか?」
「今日の君が浮かない顔をしているように見えたから」
どうして彼女が気落ちしていたのかはわからない。単に夜のせいで気持ちが沈んでいたのかもしれないし、僕の預かり知らない部分が理由だったのかもしれない。そんなことは僕が知らなくてもいいのだと思った。
「そういう落ち込むことがあったときは、ただ綺麗なものに見惚れるのが一番いいよ」
何かを諦めたときに見上げる空がやけに綺麗なように、悲しいときや沈んでいるときに限って、皮肉にも世界は美しく目に映る。色んなものを取りこぼしたとき、手のひらに残ったものがより大切になったような気がする。ただそういった都合のいい幸せな錯覚に圧倒されるだけの時間があってもいいと僕は思うのだ。
「そうですね。……確かに、綺麗な景色ですね」
彼女は呟くようにそう言って、もう一度微笑んだ。今度は僕のほうを向いて。僕がどうしようもない泥棒でも、救いようのない悪党でも、彼女をほんの少し笑わせるくらいならできるようだった。
翌日、僕は彼女に花を贈った。名前は知らない。通りかかった花屋の店先に並んでいた中で一番綺麗だと思ったものを盗んだから。本当はちゃんと買ったものを贈りたかったけれど、僕にはもうお金がなかった。生活のためではなく、彼女に花を渡したかったから盗んだ。花が綺麗な分だけ、本当の意味で心が痛んだ。盗んだ花でも、彼女は心底くすぐったそうに、嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます。大切にします」
「すぐ枯れるよ」
「押し花にでもして栞にします」
潰してしまわないように優しく花を抱きしめる彼女は、もう死にたいと願っているようには見えなかった。
「明日、お兄さんにご報告があるのでまた来てください」
別れ際、彼女は花を抱えながら僕を見上げて言った。心なしか浮き立っている様子だった。よほど伝えたいことがあったのかもしれない。例えば退院とか、例えばリハビリに立ち向かう勇気が出たとか、何かしらの前向きな報告があるのだと思う。そんな風に念を押されなくても毎日足繫く通っていたのに、と思いながら「うん、わかった」と返した。久しぶりに自然に笑えたなと、そう思った。その瞬間、その一幕の僕は確かに幸福だった。
全てが潮時だった。僕はもうその公園には行かなかった。
いつの間にか四月も終わろうとしていた。彼女と過ごしているうちに、僕の部屋にあった大半の物は捨て終えていて、ソファが一脚だけ、六畳の狭い空間に唯一取り残されていた。
頭の中で、彼女との春を反芻していた。じんわりと幸せな気持ちになった。
これまでの人生でずっと、排斥されないように振舞うことだけを考えていた。結果として失敗してしまったわけだけれど、血筋が汚れているなりに、犯罪者の息子なりに、普通というものにしがみついてなるべく波風を立てない努力をしてきたつもりだった。それが精一杯だった。自分は試される側で、人に受け入れてもらおうとする側だという生き方が骨の髄まで浸透していた。
だから、自分が人に何かを与えられるなんて、思ったこともなかったんだ。
一人の女の子が僕の行動で喜んでくれたという、たったそれだけで僕は一生分幸せになれた。笑顔一つで、何もかも救われた気になれた。初めて人に必要とされただけで、僕は本当に嬉しかった。楽しそうな顔をしてくれるだけでたまらなく満たされた。
だからもう、いいんだ。このまま長く一緒にいて、僕が人でなしの犯罪者だということもあの花が盗品だということも、何もかも知られてしまうくらいならこのまま消えたほうがいい。いつか軽蔑されてしまう前に、嫌われてしまう前に、幸せなまま終わらせたかった。ただの盗んだ花の一つが、ずっと綺麗であってほしかった。
人生の最後にこんな春が来るなんて、薄汚れたちっぽけな泥棒には釣り合わないくらい、きっと最上で幸福な終わり方だ。
僕は小さく笑った。
僕が盗んだあの綺麗な花が、名前も知らない彼女の中でいつまでもいい思い出だったらいいなと、最期にそれだけ思った。