春が嫌いな話
3000文字以内で書いた話です。
「いい天気だね。まさに春って感じで」
ふと、彼女が言った。穏やかな昼下がり、二人で下校している時のことだった。本当はあまり春が好きじゃなかったけど、確かにそうだね、と僕は答えた。少し顔を上げると視界の端をひとひらの桜が舞っていった。
「なんだかあの日のこと思い出しちゃうね」
柔らかな木漏れ日の中で、隣を歩く彼女がそう呟く。桜を映したその瞳の向こうでいつかを懐古する彼女に釣られて、僕も同じ日を思い出す。
思えば、僕はその日も流れていく桜を見上げていた。花が落ちるのは随分とゆっくりなんだな、とぼんやり考えていたような気がする。そうして桜が降るのを目で辿っていると、いつの間にか道の先に立っていたのが彼女だった。少し袖丈の余った真新しい制服に身を包んだ彼女は、同じく不格好に制服を着た僕を見て気が抜けたように笑った。
それは高校の入学式の日のことで、校門が開くより二時間も早く来てしまったのが僕たちだった。
「入学式のことだろ? 今思い返しても、二時間も早く来た人が二人もいた理由がわからないよ」
「私達が飛び抜けて間抜けだったってことでしょ。……ていうか、やっぱり憶えてるんだ、あの日のこと」
「そりゃ、あんな偶然そう簡単に忘れないだろ。……たぶん、今後もずっと憶えてるんじゃないかな」
「確かに。私も忘れられない気がする」
偶然クラスが一緒で、偶然席が隣になった。並べてみればたったそれだけの理由だけれども、そんな小さな偶然が重なって僕たちの会話は少しずつ増えていった。互いの失敗を共有していた分、他の同級生より話しやすかったのかもしれない。ともかく、僕が友人以外と話す時の相手は大抵彼女だったし、彼女からするとその相手は僕だった。そんな風に、変なところで気の合った僕たちが度々二人で帰るようになるまで時間はかからなかった。
「あ、あと桜。桜も覚えてると思うな。うちの学校の桜、綺麗だって結構評判だし」
「こんな田舎には綺麗な景色くらいしかないからなぁ」
「やっぱり、都会の方だと桜とかはあんまりないのかな?」
「……さあ。そんな離れた場所なんて僕には関係ないし」
「……すぐそうやって適当に返すんだから」
つれない僕の態度に、拗ねるように彼女は笑った。
今日の歩調は普段に比べてとても緩やかだった。それに気付いていながら、お互い急ごうともしなかった。
その後も、僕たちはいつもの帰り道で過去ばかり振り返った。ただ教室にいるだけの何気ない時間について語る言葉すら尽きなくて、日差しにすら溶けるような穏やかさで僕たちは言葉を交わした。
僕は、見飽きた景色をただ眺めて歩いた。なんだか、無性にしっかりと見ておきたくなったから。
緑の豊かな土地だったから、帰り道は季節によってその姿を変えていた。今は淡い桃色と緑の混じる爽やかな景色だけど、他の季節はどうだったかな、と僕は自然に記憶を辿った。思い出が結び付いているように、彼女と過ごした時間も一斉に蘇った。
二年になってクラスが離れて、減った時間の分を埋めるように二人で帰ることが増えた。
三年になって、周囲の冷やかしも気にせず素直に二人でいるようになった。なんとなく、今後も居心地のいい距離感が続いていくんだと根拠もないのに思っていた。
今となってはそれがあまりにも能天気で幼い未来像だったから、つい自嘲気味な笑みが零れた。
だってそうだろう。僕たちが並んで歩くのはきっと今日が最後なのだから。
「……着いちゃったね」
そんな彼女の声で現実に引き戻される。とうとう終わるのか、と僕は思った。
そこは中途半端な田舎に相応しい普通の町中だった。少し錆の浮いた三十キロの速度標識や黒ずんだガードレールがあって、古めかしい単線の踏切があって、消雪パイプが等間隔に並ぶひび割れた道路がある、そんなありふれた町の一角。
僕たちの別れ道がそこにあった。春の日を浴びて、どこまでも優しい普通の風景がそこにあった。
いつもは放課後の夕景の中でしか通らない場所だったから、真昼に見るこの場所はこんなにもさっぱりしているんだな、と不思議な感慨を抱いた。その他人事のような飾り気のなさがなんだか悲しかった。
いつもならここで「またね」と彼女が手を振って、それに「うん」と返して僕たちは別れる。けれど、今日だけは違っていた。
さやさやと葉擦れの音がして、ふわりと春風が肩を通り過ぎていく。桜は遠くへ運ばれていくのに、僕たちはそれ以上前に進むことができなかった。互いに口を噤むばかりで、名残るような視線だけがそこにあった。
今日は、高校の卒業式だった。胸に飾られたコサージュ、賞状筒、少し冬の気配を残したそよ風も、そのどれもが慣れ親しんだ日常の終わりを告げている。
例えば、卒業式の朝に見る整頓された教室のように、大晦日の夜に見る街路灯の灯りのように、この世には途方もない終わりの空気を持つ場所や状況がある。今この瞬間もまた、それらと並ぶほど僕に強く終わりを感じさせた。
沈黙の中、先に口を開いたのは彼女だった。彼女は既に別れを割り切っていて、その顔に迷いはない。僕は、僕にはないその心の強さに惹かれたはずだった。
「……じゃあ、元気でね」
言葉はそれだけだった。
「……うん。元気で」
どんな言葉を選んだらいいのか、そもそも何か言葉を伝えてもいいのか、そんなことすら僕はわからなかった。それだけ返すので精一杯だった。
ありふれている。ずっと心を口にできなかったことも、心地いい関係に甘えていたことも、そんな時間があっという間に過ぎてしまうことも。どこにでもあるつまらない話だ。僕と彼女の時間は決して特別でもドラマチックでもなくて、よくある別れがそこに横たわっているだけだ。
彼女が夢を追って遠くへ行くことも、僕だけ夢が見つからないのも、恋人でもなんでもない二人が離れ離れになることも、全部ありふれている。これはどこまでも月並みな離別でしかなくて、よくある青春の終わりでさえこんなにも悲しいことを僕は知らなかった。
ばいばい、と小さく呟いて、彼女は僕に手を振った。力の入っていないその指先の弱々しさがやけに心を乱した。僕はただ黙っていた。ずっと、黙っていた。
そんな僕に呆れたような顔で綺麗に笑ってみせて、彼女はこちらに背を向けた。前を向いて進んでいくその背がとても遠かった。僕が隣にいなくても、変わらない速度で歩いていく。それが少し寂しかった。
胸に残る透明な感情が何故だかとても息苦しく感じたから、僕は彼女の背を見送るのをやめた。思い出と別れを象徴するこの場所から離れて、ちっぽけな青春なんて早く忘れてしまうべきだと、そう思った。
そうして振り返った僕の目に映ったのは、ひとひらの桜だった。
底意地が悪い世界の企みが、柔らかな桜の形をして目の前に流れてきた。僕の心を揺さぶるだけの酷い優しさがそこにあった。
瞬間、この三年間が心を埋めて、足が止まった。桜の舞う春の中で、僕はただ茫然と立ち尽くした。
やっぱり僕は、春が嫌いだ。
どう取り繕ってみても別れなんて悲しいだけなのに、まるで世界はそれを綺麗なもののように映すから。夢へと向かう彼女の背を素直に押せない自分が浮き彫りになるから。永遠みたいな時間でさえしっかりと流れていくのだと知ってしまうから。
それなのに、そんな僕の心情も汲み取らず春という季節はどこまでも穏やかで在り続ける。
その優しさによく似た残酷さが、嫌いだ。