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練習用短編  作者: ぽぽぽ
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思い出を買う話

 あるところに一人の男がいた。年の頃は三十半ば、容姿や装いも平凡の域を出ないが、何かを諦めたように見える表情のせいだろうか。他の一般人に比べてやけに乾いた印象を受ける男だった。男は金持ちだった。買い物をする時に値札は見ないし、節制を意識することもない。男はお金に由来する一切の煩わしさから解放されていた。


 そうして有り余る自由を前に硬貨や札束をうず高く積み上げて今一度生涯を見晴らしてみれば、男は自分の人生に思い出と言えるものが一つもないことに気付いた。夢や友情はおろか、男は今までの人生で一度も誰かを愛したことがなかった。そして不幸なことに、男はそういった金銭の介在しない清廉な感情にこそ価値を感じてしまう類の人間だった。


 更に不幸だったのは、男にお金を使う才能というものがなかったことだろうか。男が生まれ育ったのはごく普通の家庭だったから、根底の部分にある庶民的な感覚が抜けなかったのかもしれない。男はどうにも金に物を言わせた豪遊というものが楽しめなかったのだ。馬鹿げた料金を払って夜景を望んでみても三十分も経てば見飽きてしまう。豪勢な食卓を一人で囲んでも、孤独の分だけ料理が冷めたように感じるだけだった。金で釣られる人間と関わるなど論外だった。


 溢れんばかりの富に囲まれながら、男は金銭や数字の冷たさや硬質な日々に食傷していた。


 しかし、今から青春を取り戻そうにも、あまりにも全てが手遅れだった。若さも、夢を見る力も、己の限界を知らない無知さも、既に男の手からは零れ落ちていた。皮肉にも、男が心の底から欲したものはどれもお金ではどうにもならないことばかりだった。未来を灯す情熱もなく、今を慰める思い出もない。日々募っていくのは劣等感と空しさくらいで、アルコールに侵された頭で空想に耽ることだけが現実を忘れさせた。あの時こうしていたら。この時そんなことをしなければ。過去をやり直すことばかり男は考えていて、隣の芝生はどこまでも青いままだった。


 そんな日々を送っていたある日のことだった。男はある噂を耳にした。


 傷心に任せて何とはなしに夜の街へ赴き、繁華街の明るさにより一層の敗北感を覚えながらとぼとぼと歩いていると、飲み屋の前で酔いつぶれた一人の男性が喚いていた。


 曰く、俺の思い出は所詮金で買っただけの紛い物だ、と。


 周囲の制止も耳に入れないで、その男性は赤ら顔のまま自分の記憶の真贋について嘆いていた。その様が男にはどこか真に迫った魂の悲鳴のように聞こえた。


 正常な人間ならば、そんなもの酔っ払いの与太話だとして歯牙にもかけずに終わるだろう。しかし、男が自らの人生に抱く後悔の深度はとうに常識の範疇から外れていたし、他に今更真面な人生を取り戻す方法があるわけでもなかった。たとえ紛い物だとしても、男は思い出が欲しかった。それから、持てる財力を総動員して件の記憶を買える店を探し当てるまでにそう時間はかからなかった。


 その店は、変哲のない住宅街の端に位置していた。今しがた歩いてきたばかりなのに、男はどうやってこの店まで来たのかが分からなかった。郵便局のある通りを曲がったような、そんな気がする。眠気に襲われている授業中のように、五感で感じた情報が脳に蓄積される感覚がなかった。いずれにせよ、記憶を売っている店などもとより現実離れしている。そういうものだと割り切って男は店のドアを開けた。軽やかなドアベルの音がやけに鮮明に響いた気がした。


「いらっしゃいませ」


 そう言って男を出迎えたのは、整髪料で撫で付けた髪を七三に分けた店員らしき男だった。手狭な店内には他に従業員はおらず、宝石店のようなショーケースの中に不思議な色をした水晶が置かれている。店員の男が浮かべている表情は、笑みとは言い難かった。能面を無理矢理笑みの形に歪めたような、どこか非生命的なものだった。暖色の照明も相まって、店員の笑みは男に気持ちの悪い親密さを感じさせた。


「ここが、記憶を売っている店だというのは本当か」

「はい。当店では記憶の販売や買取を行っています」


 不信感を露わにしながら尋ねる男に、店員はこれまた表情と同様の丁寧な物腰を張り付けただけの無機質な声音で答えた。


「記憶の売買とは、具体的にどういうことだ」

「言葉の通り、記憶を買うのです。買った記憶は、違和感なく最も自然な形で脳内に定着します。多少の齟齬は当人の自意識によって都合よく書き換えられます。それまでの人生との整合性があまりにも取れない場合はその限りではありませんが。逆に、記憶を売るという場合は、それらの記憶や体験を忘れるという形で当店へと売却していただきます。中には、勉強をすることが好きで、有用な資格に関して学んだ記憶を売ってまた勉強するというお客様もいらっしゃいます」


 店員は、マニュアルを棒読みでもしているかのようにそう答えた。平淡な声に反していやに丁寧な語り口だけがどこまでも歪だった。


「……以前、自分の記憶は偽物だと喚いているのを見かけたが」

「買った記憶が人生とはかけ離れすぎていて、自己認識を騙すことができなかったのでしょうね。欲を張るとそうなります。通常であれば、その記憶が購入したものだという認識は一月ほどで薄れてなくなります」

「私の人生には、何の思い出もない。そんな私がとびきり幸せになるような記憶を買った場合は、やはり違和感を覚えてしまうのか」

「基本的に、整合性が取れないのは相反する記憶が多くある場合です。元より思い出がゼロなら問題は無いかと。人間は誰しも、幸せであると思い込みたいものですから」


 そんな問答をしてから、店員に軽い説明を受けて男は店内を見て回ることにした。ショーケースの中で鎮座する水晶の横には、その記憶の名前と値段を示すネームプレートがあった。男は時間を贅沢に使って、その一つ一つを品定めするように確かめていった。


 大学で仲の良いメンバーでキャンプに行った記憶、十万。司法試験合格の記憶、九百万。世界中の珍味を巡った記憶、四十万。部活での全国優勝の記憶、八十万。小さな店ながら品揃えは豊富で、売っている記憶や値段も玉石混交だった。


 ショーケースを眺めていた男が、ある二つの水晶を指差して尋ねた。


「この、海外旅行をした記憶よりも、隣の席で寝ている女子を起こす記憶の値段が高いのはどういうことだ。いったい、どういう基準で金額が定められている」


 店員は懇切丁寧に答えた。


「商品の価格は、人々にとっての価値によって異なります。海外旅行よりも、学生時代の何気ない思い出のほうが人は価値を感じているのでしょう。なにせ、そちらは強烈な初恋の思い出ですから。そういう類の記憶は結果がどうあれ、いつまでも恋を忘れられない人が売り、恋を体験したことのない人が買っていきます」


 なるほどな、と男は思った。所詮記憶など個人の主観でしかないわけで、たとえば実を結ばなかった恋も当人以外からすると魅力的な記憶というわけだ。大衆の価値観に沿って値段が決まるならそれほど合理的な価格設定はない。そうなると話は簡単だ。男の人生を素晴らしいものにしたければ、この店で一番値段の高いものを買えばいいだけの話だ。幸い、金なら使い切れないほどあるのだ。


 そうして男は店内に出ている水晶を全て目に通すかのように値段に注目して検めていった。もう少しで、ようやく自分の人生は意味のあるものになる。ようやく金に依存しない温もりというものを感じられる。そんな期待を抱かずにはいられなかった。しかし、資格に関する記憶などの実用的なものを除いて、人生を彩る思い出足りうる記憶を探してみても、先程見た学生時代の記憶を超える値段の水晶はそう見つからなかった。


 この際、淡い初恋が自分の心に収まるだけでも構わないだろうか。変哲のない記憶とはいえあの値段だ。よほど強い思い入れがある記憶なのだろう。何もない人生に比べれば、遥かに救われる。


 男がそうして自分を納得させようとしたその時だった。店内を三周ほど見て回ったのに何故見落としていたのかは分からない。一番最初に目を付けた学生時代の記憶の横に、一つの水晶があった。ほのかに桃色をしたその水晶にはネームプレートがなかった。


「これはいったい何の記憶だ。価格はどれくらいだ」


 一縷の望みをかけて男は店員に尋ねた。


「そちらは、何よりも大切な相手との記憶となっております。あまりの値段の高さに買い手が見つからずネームプレートも外してしまったのです」


 そう言った店員は、何より雄弁な男の視線を受けて、どこからか取り出した電卓を叩いて男に見せた。


「こちらがこの記憶の価格になります」


 店員が提示した金額は、とてもじゃないが馬鹿げた値段だった。


「この記憶は、本当に値段に見合った記憶なのか」


 男は再度訊いた。


「ええ、そうです。保証します。この記憶の持ち主は、誰よりも、何よりも、その相手を愛していたそうですよ」


 その言葉が決め手だった。


 結局、男はその記憶を買った。店員が提示した金額は、男が持つ財産のほぼ全てと同じ金額だった。金銭という形以外で所有していた財産も残すことなく搔き集めた。暮らしていた家も売り、乗っていた車も売り払った。そうして、全ての財産を手放して、男はたった一つの思い出を買った。


 その日、男は残った雀の涙ほどの財産で六畳ほどの小さなアパートを借りた。空っぽの部屋に横たわり目を閉じる。今更暮らしぶりなどどうでもよかった。元より男は金を使うのが得意ではない。思い出さえあればよかった。


 あの胡散臭い店員が言うには、買った記憶との馴染みがよければ翌日から記憶に変化があるらしい。「あなたの場合馴染みは早い方だと思いますよ。スポンジと一緒です」と店員は言っていた。そんな礼を逸した言葉も最早気にならないほど、男は歓喜していた。浮き立って寝られないことなど、男は初めてだった。そうして期待に胸を膨らませながら、男は眠りに就いた。


 翌朝、男には変化があった。目が覚めて毎朝顔を洗うのと同じように、自然と一人の女性のことを考えたのだ。濡れそぼったつぶらな瞳。薄い唇。綺麗な形の耳。夕陽に透かしたような明るい茶色の髪を肩の上ほどで切り揃えていて、澄んだ声に反して口が悪かったことを憶えている。容姿も声も、鮮明に思い描くことができた。特段美人というわけではないが、悪戯っぽい笑みはどことなく愛嬌があった。きっとこの女性はよく笑っていたのだろう。男の脳裏に浮かんでくるのは、どれも笑っている顔ばかりだった。


 男はこの瞬間まで、記憶というのは場面を切り取ったものだと思っていた。キャンプに行った思い出や初恋に気付いた瞬間のように、その一時の感情や体験が自分のものとなるだけで、そこに至る経緯やその後の記憶などないものだと思っていた。実際に、あの店に並んでいた記憶の大半がそうなのだろう。男の買った記憶の方が異質で、それらとは違っているのだ。この記憶を売った者はきっと、人生全部を使って想っていた相手のことを丸ごと忘れたのだろう。男はそんなことを思った。それほどまでに思い出の量も、胸に感じる想いの強さも並外れていた。この記憶が破格の値段だったのも頷ける。


 自分の中に生まれた確かな感情の熱は、とても居心地がよかった。今はまだ具体的なエピソードなどは分からないが、自分が誰かを愛しているという実感は、自分も血の通った人間なのだという安堵をくれた。きっと自分の人生はこれからうまくいくはずだ。そんな期待を抱いた男は、昨夜と同じように目を瞑った。目蓋の裏側で回想に耽る。そうして一番最初に思い出したのは、彼女と出会った学生時代のことだった。



 

 小学生の頃、彼女はよく泣く少女で、男は無駄な意地に溢れた少年だった。彼女は気の弱さからさも当然のようにいじめられていて、これまた当然のように男は彼女を庇っていた。男は彼女に恋愛感情があったわけではない。ただ、周囲への反骨心だけでそうしていた。そういった日々が続いて暫くすると、男も嫌がらせの標的に選ばれた。巻き添えでゴミ箱に捨てられた自分の靴を見る度、何度も彼女のことを見捨ててしまおうかとも思った。そうしなかったのは、泣き腫らした顔で不格好に「ありがとう」とはにかむ彼女のことを、存外に可愛いと思ってしまったからなのだろう。


 そうして二人は、片田舎の小学校という狭い社会の中で揃って爪弾き者になった。二人で勉強をして、二人で掃除をして、二人で多くのことを話した。自他共に認めるはみ出し者のレッテルが貼られてからは、はみ出し者同士より一層肩を寄せ合って過ごした。そんな風にして、ありふれた少年時代は過ぎていった。


 彼女が転校することになった小学五年の秋、男はようやく自分が彼女を好きだったことに気が付いた。始めは一方的に施しているつもりだったのに、気付けばそれより多くのものを彼女から貰っていた。そしてそれに気が付いた頃には、子供では到底手の届かない遠くへ彼女は行ってしまった。


「これからは俺がいないんだから、あんまり泣くなよ」


 最後にかけた言葉は確か、そんなものだったはずだ。それからずっと独りのまま、小学校を卒業しても中学校を卒業しても、男の心には彼女に心を伝えそびれた後悔だけが残り続けていた。


 そんな男が彼女と再会したのは、高校一年の春だった。よく晴れた日の午後、授業をサボって足を運んだ屋上に彼女はいた。ギターを手に鼻歌を歌いながら、流れていく雲を眺めていた。髪型も浮かべる表情も変わっていた。けれど、男には目の前の女子生徒がずっと想っていた彼女だとすぐさま分かった。そしてどうやら、彼女の方もそれは同じだったらしい。この数年で男は随分と弱い人間になっていたが、反比例するように彼女は逞しく成長したようだった。変わってしまっても、二人は二人のままだった。言葉にはしなかったが、この時点で既に心が通じていたのだと男は思った。


 それからの男の高校生活は、離れていた時間を埋めるかのようにずっと彼女と一緒だった。


 彼女はギターが好きで、将来は音楽で生きていきたいと言っていた。高校に軽音楽部がないともぼやいていた。鬱憤を晴らすように、二人で校内放送をジャックして演奏を流した。あっさりと捕まって罰として炎天下の中二人でプール掃除をした。初めての夏祭りでは、迷子になって碌に楽しめなかった。その年の冬から、帰り道に公園へ寄る習慣ができた。



 

 元は他人の記憶とは思えないほど、彼女との青春は鮮明で、眩しくて、男にとって何より大切だった。

 



 二年になって、クラスが一緒になったこと。畦道を並んで歩いたこと。二度目の夏祭りで告白したこと。彼女も同じ日に告白しようとしていたこと。冬になって、初めて喧嘩をしたこと。なかなか仲直りができなかったこと。三年になって、ようやく和解したこと。彼女の誕生日を祝ったこと。背伸びして隠れてお酒を飲んだこと。酔った勢いで一線を越えてしまったこと。お互いの進路について真剣に悩んだこと。支え合っていくと決めたこと。夢を目指す彼女の横顔に見惚れたこと。遠くの大学に二人揃って合格したこと。



 

 何気ない日々の笑顔から、大事な心を伝えた時の一言一句まで、男は全部を思い出せた。

 



 高校を卒業して上京し、小さなアパートに二人で暮らしながら大学へと通った。何度も諍いがあった。背中を向けて寝た夜があった。それでも、ずっと二人で一緒に日々を生きていた。彼女が夢を諦めそうになった夜も、社会に男が圧し潰されそうになった日も、相手の笑顔だけが支えだった。男にとっての人生とは、彼女のことだった。彼女との人生は、何よりも幸福だったと躊躇なく男は言えた。その幸せに、疑いなど微塵もなかった。



 

 そうして男は、買った記憶の全部を思い出した。彼女との日々の全ては、既に男の心の中にある。それから、男は再びあの店へと行くことにした。どれだけ美しい思い出でも、本来は自分のものではない紛い物。そんな事実すらも一月経てば忘れると店員は言っていた。一月経てば、この青春は自分のものになる。この感情は、余すことなく自分のものになる。そう思った男はある決意を固めた。


 それは、買った記憶の全てをもう一度売り払うことだった。


 店への道を男は憶えていなかったが、誘われるように足を動かしていると見覚えのある郵便局を見かけた。その通りにある角を曲がれば、すぐそこにあの店が見えた。乱暴にドアを開ける。耳障りなドアベルの音がした。


「おい、あの記憶は、いったいどういうことだ」


 笑みを張り付けた店員を見るなり、男は口を開きかけた店員の胸倉を掴んだ。


「お前は、あの記憶は値段に見合ったものだと言ったはずだ」

「はい、確かに申し上げましたが」


 男の剣幕に少しも怯むことはなく、店員は能面のような笑みを保っている。心なしか男にはその表情が以前より邪悪に見えた。


 「ならばなぜ、あの記憶はあんな結末で終わる。どうして彼女は」


 自分の記憶じゃないことは分かっているのに、涙が滲む。声が震える。思い出す度に悲しいから、触れたくもなかった。どうして。どうして。男はそう自問せずにはいられなかった。


「どうして彼女が、死んでしまうんだ」


 長年の夢が叶う、その当日のことだった。本当に、家を出る前はいつもと何も変わらなかった。応募していたオーディションに受かったのだと、彼女は心の底から嬉しそうに言っていた。ずっと彼女の夢を応援していた男にとっても、それは喜ばしいことだった。


「帰ってきたら、詳しく話を聞かせてくれよ」


 男がそんなことを言って、彼女は満面の笑みで親指を立てた。踊り出しそうな足取りの彼女の背を、男は微笑みながら見送った。それが、彼女を見た最後だった。即死だったらしい。トラックに轢かれて、あっさりと彼女は死んでしまった。


 そこまで思い出して初めて、男はこの記憶の本来の持ち主がこんなに美しい思い出全部を売った理由をようやく理解した。


「その記憶は、一人に向ける感情の強さと過ごした時間の長さによって莫大な価値が生まれています。人生単位で記憶を売却する方はそうおりませんので。あくまで値段は価値を表すものです。内容を保証するものではありません」


 少しも顔色を変えない店員がそんなことを言う。その機械的な笑みは、男の憤懣や悲嘆を少しだって受け止めはしなかった。襟を掴んでいた男の手が力なく緩められる。俯いた男が喉の奥から弱々しい声を絞り出す。


「こんな他人の記憶なんて、持っていられない。こんなに悲しい記憶が自分のものになるくらいなら」


 胸の辺りが酷く疼いた。考えないようにしても、自然と頭は甘美で儚かった思い出の輪郭をなぞり続ける。ずっと心臓が痛くて、この記憶を抱えたままでは、男は生きられなかった。


「こんなに苦しいなら、私は思い出なんていらない」


 それが、男の出した答えだった。既に失った思い出に縋り続けるくらいなら、最初から何も持っていない方が何十倍もいい。悲しいだけの思い出なんて捨ててしまえばいい。


 そうして男は、一度は財産を投げ打って手にした記憶を売った。売値は、男が手放した財産と同じ金額だった。お金を受け取ってすぐに、彼女の声も、髪も、頬も目も分からなくなった。それでも大切な何かを忘れてしまったのだという感覚が拭えなかったから、思い出を売却した記憶自体も売ってしまった。


 世界の何より大事だった思い出も、それを失くしてできた心の穴すらも忘れて、男は以前と同じ生活へと戻った。自分には人並みの心や思い出がないのだと嘆いて、お金の冷たさにうんざりしながら全てを諦めるだけの人生に戻った。記憶を消した影響か、覚束ない足取りで男の背が遠ざかっていく。


 やがて男の姿が見えなくなった頃。


「毎度、ありがとうございました」


 店員は、そう言って笑みを浮かべた。

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