交差する想い(十四)
香澄は日記を閉じて鍵をかけた。
横にある紙袋に入れてカバンに押し込む。
立ち上がり、今日のことを思い出しながら隣の寝室へ向かう。
思い出しただけで、顔が真っ赤になるのが判る。
そして、ベッドに飛び込んで、頭を抱えた。
完全にイングランドへ飛んでいた。いつか見た景色だった。
父もいた。嬉しかった。優しかった。暖かかった。
それなのに、また全てを失って、こんな嫌な所に、戻って来てしまった。早いよ。あの後、何があったか忘れたけど、もうちょっといたかった。
何だか悲しかった。そしたら、今までの悲しいことを、色々と思い出してしまった。
理由も判らず、母と二人で日本に着いてから、碌なことがない。
こっちでは、いつも独りぼっちだ。沢山やり取りしていたエアメールも、ポツリポツリと来なくなった。
みんな、どうしているんだろう。元気かなぁ。寂しいよぅ。
日本語なんて、何の役にも立たない。通じてるよね? だけど、何だかチクチクと細かい発音を指摘され、その上、理由も判らず手をあげられて怖い。
英語も通じず、やっと始まった英語の授業でも、あんなに発音でチクチク言っていた奴らが、私の英語を笑う。何なんだよっ!
仕舞には、言葉は不要なはずの音楽も、思ったようにならない。
楽団の人達は、いつでも凄く優しかった。
そうだよ。ピアノを弾くだけなら、西ドイツで良かったのに。
あぁ、練習するならやっぱり、ジョセフおじさん家で練習したいなぁ。楽しかったのになぁ。
バーバラおばさんの『天国と地獄』が懐かしいなぁ。またみんなでやりたいなぁ。
あぁ、もう、本当に、ここは、なんてつまらない世界だっ!
ここは地獄だ。本当に地獄だ。早く大人になりたい。大人になったら真治を連れて、西ドイツに帰りたいっ! 一秒でも早くっ!
真治は想像通り優しかった。
そして、日常に音楽が『染みついて』いる。
買い物、楽しかったなぁ。
ピアノ、また弾いてくれないかなぁ。
あぁ、真治にだけは嫌われたくない。
真治は相対音感だったんだ。だから全部ハ長調だったんだ。
なるほどだ。初めて相対音感の人に出会った。
そういうので悩んでいるなんて、本当にもったいない。
私が、一生面倒見る。
あっ、だとしたら、病気と思わせておいた方が良かったかしら。
いやいや、それは良くない。ごめんごめん。嘘嘘。冗談冗談。
真治に泣いている所を、見られなくて良かった。
恥ずかしいし、それで嫌われたくない。間一髪だった。
いつもトランペットのマウスピースを、ハンカチで拭いていた。
それは何となく判る。でも、クラリネットの時も拭いていた。
面白い。もうあれは手癖だ。
なのに、渡されたクラリネットは、拭いていなかった。
あれは完全に間接キスだ。
壁を向いてから唇で触れたけど、まだ暖かかった。
あんなマウスピース咥えちゃったら、
絶対大きな音出しちゃって、嫌われる。
本当のキスも、こんな感じなんだろうか。
何かこんなこと知られても恥ずかしい。
何とか耐えたのに、リードは咥えてしまった。
いつもそうしているからって言っても、
これは間接キスどころじゃないでしょ。
私狂ってる。どうかしてる。
もうあのリードは使えない。記念に保存しないと。
今日はリード記念日かな。
でも、寂しくなったら、使っちゃおうかなぁ。
また来てくれないかなぁ。真治。
買い物、楽しかったなぁ。
Zzz。




