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交差する想い(十二)

 香澄は真治がクラリネットの指使いで困っていると思い、急いで教本の指運表のページを開けようとした。

 しかし、その必要はなかったようだ。


『ブォッ』

 今までに聞いたことのない、低いクラリネットの音がした。

 と思ったら、少し上の音もまた『ブォッ』という音がする。


 それはもはやクラリネットの音ではなく、まるで上り坂を登る時の、荒い息遣いそのものだ。


 三つ目と四つ目の『ブォッ』を聞いた時、初めてそれは『グリーンスリーブス』だと判った。


 その瞬間香澄は、同じ曲を父が『草笛』で吹いてくれたことを思い出す。




 父に連れられて訪れたイングランドの丘は、幼い日の香澄にとって、取るに足らない草の生えた丘だった。

 オープンカーを降りて歩き始めた道の途中で、父は葉っぱを一枚取って口に当てると『ブォッ』という音を捻り出した。


 それは、父のクラリネットを『子守歌代わり』にしていた香澄にとって、同じ口から紡ぎ出されたにしては、酷い音だった。

 興味を失った香澄は、父の左手を取ると、それを振り回しながら、草の生えた砂利道をかけだした。

 それでも父は、右手で尚も演奏を続けている。


 二度目のフレーズを吹き終わったとき、二人は丘の頂上に着いた。

 そこには、父が香澄に見せたかった『イングランドの原風景』が、広がっていた。


 風に揺らぐ夏草が一面に広がり、所々に花畑が色を添える。

 不揃いな高さの石垣が、丘に沿ってうねうねとしていて、時に枝分かれしながら、どこまでも続く。


 ぽつんと立つ木立は、まるで絵本の中のそれのようで、丸い樹形からこぼれる逆光が、夕方特有の薄い影を波打つ草の上に『楕円』を描いている。


 香澄が深呼吸して空を見上げると、草笛を吹く父の顔が見えて、その上の空は、どんよりとした雲がうずまきながら、低く、低く垂れ込めている。

 しかし、むしろそれが、この風景に『らしく』思えた。

 遠くに望む海は波穏やかで、雲の切れ間から覗く太陽に照らされた水面だけがきらめき、青を増している。


 突然、アイリッシュの風が草をざわつかせ、香澄の麦わら帽子を空に巻き上げた。

 驚いた香澄は帽子を押さえようと、手に持っていたシロツメクサの花束を手放したが、間に合わなかった。


 まるで『空に描いた花畑』のようだ。ばらばらになったシロツメクサの中に、丸い麦わら帽子が浮かんでいる。

 帽子のリボンに挟み込まれた『一凛のデイジー』が、シロツメクサとシンクロして回りながら、雲の切れ間から差し込む夕日を映し、何度も赤く染まっている。


 父は泣き出す香澄の手を放し、笑いながら麦わら帽子を追いかけて行く。そして草むらに着地した麦わら帽子を拾い上げると、それを大きく振りながら、両手を広げて香澄のもとに帰って来る。


 立ち尽くしていた香澄は、帰って来た麦わら帽子に手を伸ばしたが、それは両の手をすり抜けて、父が香澄の頭に深く被せた。

 行き場を失った香澄の両手は、前が見えないまま、しゃがみ込んだ父の首に抱き着いた。


 父は、そのまま香澄をなだめながら抱き上げると、左肩に香澄を乗せて立ち上がる。

 そして、もう一度香澄に、この景色を見せるのだった。




 一分ちょっとの時間旅行が終わり、香澄は父に会いたくなって、泣いた。

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