雨の帰り道(九)
真治と香澄は駅の直前で左に曲がり、駅に背を向けていた。
寄り道をしている訳ではない。この駅はちょっと珍しい構造で、帰りの電車に乗る時は少し離れた地下道を通って、向こう側に行く必要があるのだ。
真治は電車通学をしていないが、地元だし、それ位知っている。そして、香澄が電車通学をしていることも知っていた。
声を掛けたことは、一度もないのだが。
だから『駅まで送る』と言っても、こちら側ではなかったのだ。
笑いながら駅まで走って来た二人は、流石に疲れて歩いていた。
水没防止のスロープを登ってから、地下道の階段を降りて行く。丁度、駅を出発した電車が見えた。
地下道は、二人が並んで歩くには十分な広さがある。
しかし、中央に自転車用のスロープがあるので、二人が片方の階段部分だけを使用するには、少々密着する必要があった。
自転車を押して登ってきた人を避け、真治は左側の壁に沿って立ち止まる。
右手に持ったままの傘を、下へ落とすようにシュッとスライドさせて柄の上の方を持った。
そして、横にいる香澄へ水滴がかからないよう、柄の先を腹筋に当てると、左側に傘を倒しながら右手を引き、傘を畳む。
右手でくるんと傘を回しながら、カバンを持つ左手を曲げる。
そのままカバンを上まで持ち上げると、左手の人差し指だけを伸ばして、傘を持ち替えると、傘とカバンのハンドルを一緒に握った。
何故にそんな持ち方をしたのか。
それは、真治の右側に立つ香澄が、二の腕を抱え込むように掴んでいて、離さなかったからだ。
真治の右手は、傘からは解放されたので下に降りて行く。
「このスロープ、自転車に乗ったまま降りるよね」
「えっ、それは危ないですよ」
褒められたことではないが、地元の悪ガキはやる。香澄は自転車でここまで来たことはない。
真治は階段を降りていた。一方の香澄は、左足は階段を、右足はスロープを降りていた。
階段とスロープでは高さが異なるので、香澄が右足でスロープを踏む度に真治に寄り添い、左足で降りる度に揺れる髪が、真治の腰の辺りに触れる。
さっきから、まるで『恋人同士』のようだが、少なくとも真治は、そうは思っていない。
コンクリート打ちっぱなしの足元は、雨水に濡れて真っ黒になっている。とても滑り易そうだ。
入り口からそんな景色が見えていたので、真治は香澄が腕を掴んでいても『当然だ』と、思っていたのだ。
「ワーって、大声出したりするよね」
それでも照れ隠しか、普通の会話か。真治が話し掛けた。
「すごく響きそうですね」
中学への通学で毎日使っているが、普段見渡したことは無い。
「うん。すごく響くよ」
天井はやや低めで、上下は武骨なコンクリート打ちっぱなし。それでも飾りにか、両サイドの腰下にはタイルが打たれていて、それなりに響く環境は整っている。
何だか楽しくなってきていた香澄は、ひょいと右足をスロープに乗せ、左足を後ろに曲げて浮かせた。
「ワァー」
笑顔で叫んだ。二人しか歩いていなかった地下道に、香澄の叫び声が響く。その時だった。
香澄の声を掻き消す轟音が、地下道を揺らして鳴り響いた。地上を電車が通る音だ。
香澄は驚いていた。頭上の轟音に。そして、自分の心音にも。
細く半円を描き、目じりが下がった笑顔。スイカの切り口のような口の形だ。
しかしそこから、口の形はそのままに、眉がきゅっと上がり、二つのまなこはまん丸になって、瞳孔が開く。
そして一番の驚きは、腰の辺りを真治の腕で『がっちり』と固定され、引き寄せられたことだ。
「大丈夫?」
電車の轟音が鳴り響いていて、良く聞こえない。それ以外にも何かが響いているからだろうか。
それでも香澄は頷いた。とにかく頷いた。すると直ぐに、腰の辺りの固定は解放される。
香澄はどうやって息をしたら良いか判らなくなっていた。
それでも、直ぐに真治があと数段の階段を降り始めたので、一緒に降りて行く。二の腕を掴んだままだったのも、理由の一つだが。