交差する想い(五)
廊下は少し薄暗かった。それでも電気を消している教室よりは明るいだろう。北側の窓から入る明かりと天井の照明があれば、顔を認識するのに問題はない。
正面から廊下を走って来たのは、音楽室の鍵を職員室に返した真治だ。『静かに歩こう』の掲示前を、そのまま走り抜ける。
廊下の真ん中を走って来たが、階段手前で体を傾けると弧を描く。それはこの後、階段を駆け上がるのに必要なスピードを、維持するためだ。
香澄は、真治が階段の手前で体を傾けた時に会釈をした。真治は直ぐに気が付いて右手をあげる。
しかし、スピードはそのままでカーブを駆け抜けると、階段を二段飛ばしにジャンプした。
香澄はそのまま歩いて行き、階段の登り口が右上方に見える所まで歩みを進める。
真治は最初に左足でジャンプし、右足で着地していた。その勢いで左足を前に出していたが、どうやら体重は乗っておらず、止まって香澄を待つ。
手すりを右手で握って、反るように振り返ると香澄を見た。
「帰るの?」
「はい」
真治の問いに香澄は答えた。そして、心の中で祈る。
「一緒に帰ろう」「はい!」
香澄は返事を急ぐ。真治の表情が、途端に笑顔へと変わった。何だか嬉しい。
「カバン取って来る」
真治は右手で掴んだ手すりを引いて勢いを付け、再び階段を一段飛ばしで登って行った。
足音はしていたかもしれないが、香澄の耳には入っていなかった。
香澄は深呼吸した。何だか最近上手く行き過ぎる。
これは運命の歯車が噛み合って、順調に回り始めたのだと考えることにした。
教室の前扉にあるガラスが『鏡』のようになっていて、香澄の姿を映し出している。
もう一度目を閉じて深呼吸した。そして目を開けると、右手で髪留めのピンを、一気に引き抜く。
今朝苦労して網目を付け、整えた髪が、薄暮の廊下で弾け、網目が揺らめきながら消えてゆく。そして、ひとまとまりの流れになると、天使の輪が浮かび上がる。
真治が『好きだ』と言ってくれた髪型が、香澄の背中にたなびいた。今日はまだ、誰にも魅せていない。
ガラスを鏡代わりに、体を左右に振って髪を整え、前髪のバランスを整え、耳を出すか隠すかを試した。
恥ずかしいから、やっぱり耳は隠そう。
準備が終わると『普通の顔』の練習をして深呼吸し、背筋を伸ばしてカバンを両手で持つ。
直後に、階段をダダダと降りて来る音がする。
『ダン』と踊り場に着地する音を聞いて、香澄はゆっくり半身だけ振り返り、階段の真治を見つめた。
真治は踊り場で手すりを左手で掴み、それを支点にして走る向きを変えた。
再び階段を降りて来る途中で、香澄の髪型が変わっていることに気が付き、二度見する。
香澄はその『真治の二度見』に気が付き、咄嗟に声をかけた。
「髪留め、壊れてしまいまして」
香澄は真治の前でバサッとする程、勇気はなかった。言訳だ。ほら、真治が目の前に現れただけで、何だか恥ずかしいし。
「たいへーん。買いに行く? でも、その方が良いよ!」
真治が笑顔になったので、香澄はそれだけで良かった。
思いもしなかった質問には、もじもじするだけだ。
何も、答えられなかった。




