雨の帰り道(八)
真治が傘を持つ右手を目で示す。香澄は考える間もない。どう見ても越えられない幅の、水たまりがそこにある。
それに今度は『勝手な解釈』とは違う。確かに真治は『掴まって』と言ったのだ。
香澄は驚きながらも、しっかりと掴まった。笑顔のまま真治の右腕を、左手で巻き込むように。離したくない一心で。
「ジャーンプ」
「ジャーンプ」
真治の掛け声。つられるように香澄も。その勢いで歩道から車道に躍り出た。右腕を支えにして水たまりを超えて行く。
思ったより飛べた。しかし、感心している余裕はない。道はまだ続いている。このまま二人で走り抜けるのだ。
それでも、さっきまでの『二拍子と三拍子のリズム』は、完全に崩れている。最早『バタバタとチョコチョコのリズム』。笑える程に、足並みは滅茶苦茶だ。
それでも二人は同じ傘の下、横断歩道を走り抜けて行く。
今度は、車道から歩道へ水たまりを越える。
「もう一度ね!」「はいっ!」
振り返って叫んだ真治の顔を見て、香澄は大きく頷く。
背中で揺れていた髪が前でも暴れ始めている。恥ずかしい。でも、そんなの、今はお構いなしだ。
目を細くし、口を大きく開けて笑う香澄。この地でこんなに笑ったことがあっただろうか。いや、そんなのもう忘れた。
いずれにしても、その大きく開けた口を塞ぐ手段は、もう何もないのだけは確かだ。今はそれで良い。
「ジャーンプ!」「ジャーンプ!」
さっきよりも大きな声。まるで合唱のようだった。いや、ミュージカルだろうか。足もぴったりと揃って飛んでいたし。
横断歩道を渡り終わって立ち止まると、遂に二人は腰を折り、頭を押さえたり、お互いに指さしたりして笑い合う。
「本当に『頭』大丈夫ですかぁ?」
「実は、ちょっと痛かった!」
痛いのは、もうどこかに飛んで行ったようだが。
「さっきまで二拍子と三拍子だったんですよぉ?」
「そうなのぉ? じゃぁ『白鳥の湖』だったのぉ?」
「そうですよぉ。そんな『情景』だったんですよぉ」
上手いことを言うではないか。真治はパッと目を見開いた。
「じゃぁ、今度は揃えて行こう!」「はいっ!」
一息付いて、ゆっくりと歩き続けるはずの二人だった。そのまま右左右左と歩調を合わせて歩き出す。
しかし、歌いながらなのか、笑いながらなのか、そうこうする内に段々速くなって行く。
遂にエイトビートに達すると、また笑いながら走り始める。
信号待ちをしていたバスの運転手は、青に変わったばかりの横断歩道へ、腕を組んで飛び出した中学生を見て、驚いた。
「あら、小野寺さんとこの、真ちゃんだ」
つい、そのまま眺めていた。乗客は誰もいない。
一本の傘の下、お互いに笑顔で見つめ合っていると思ったら、二度目のジャンプは前を向く。
共に口を大きく開けて笑い、傘を二人で掲げるように前へ。すると、背筋をピンと伸ばし、まるでバレエの如き跳躍。
明らかに『何かの一場面』を彷彿とさせる。一瞬だが、止まってさえ見えた。
それだけではない。後ろに跳ね上がった二人のカバンは、まるで『黒い翼』が羽ばたくようにも見えた。
我に返ると前を向き、ガコッとギアをローに入れて出発した。
微笑みながら、ギアをセカンドに放り込み、バックミラーに映る二人の姿を見守る。
向こうも段々、加速しているようだ。みるみるうちに小さくなって行く。
四角い枠の中の二人は、駅の明かりに包まれて逆光となり、そのまま見えなくなった。