長い日曜日(四十)
香澄が帰って来た。四時半。意外と早かった。
ここに引っ越して来て、直ぐに香澄と真衣は友達になった。
恵子はこの調子で、香澄がどんどん日本での生活に馴染んでくれることを願ったが、その思いは叶わなかった。
それでも香澄が真っすぐに育ったのは、エアメールと真衣のお陰だと思っている。
中学に入ってから、エアメールは大分減ったが、真衣との友情はそのままだ。有難いことだ。だから、香澄が『真衣に会いに行く』と言った時は、必ず許可していた。
恵子は玄関を解錠し、ドアを開けた。
「ただいまー。お母さん、プリンありがとうですってー。あと、チンジャオロース頂いたー」
「またなの。良い香りね。あら、あなたピーマン嫌いなのに大丈夫なの?」
「おばさんのチンジャオロースは好きー」
恵子は自分の調理したチンジャオロースを軽く否定された気になり、ちょっと嫉妬した。
進藤親子とは恵子も親しくしている。
外で会えば立ち話もするし、授業参観の帰り道は一緒にお茶もした。本当に有難い存在だ。
しかし、真衣も、母親の真理子も、恵子の誘いに応じて、自宅を訪れることはなかった。
「そう。それは良かったわ。じゃぁ、夕飯は餃子と炒飯をチンしようかしら」「中華定食ー」
香澄が喜んでいる。が、ピタッと止まると恵子に聞いて来た。
「お母さん、中華も箸使うの?」「使うわよ」
「じゃぁ、私、箸が良い」「珍しいわね」
確認が終わった香澄が希望を述べた。
「家にも箸置きある?」「あるわよ?」
「じゃぁ、それもお願い」
恵子は驚いた。何かの聞き間違いかとも思う。
香澄に箸の使い方を教えたが、学校でからかわれてから、極端に使わなくなっていた。
それでも、何故か『箸を使いたい』と言ってくれた香澄の気持ちを考えて『どうしたのかしら急に。明日は雨かしら』という言葉を、ぐっと飲み込んだ。
「お箸のマナー本あったかしら」「見せて!」
二階に行きかけた香澄が踵を返した。それだけでなく、パッと恵子の両手を握って上下に揺らす。
恵子は驚いてその波を体を揺らして表現した。
「どこだったかしら」
香澄を引き連れて、台所の隣にあるパントリーに入った。
そこにはちょっとした恵子の書斎コーナーがあって、小さな机と、料理本と、料理に関係する本だけが並んでいる。
「これかしら」
恵子は和食の本を取り出すと、目次を見て、終わりの方にある箸の使い方のページを開いた。確かにあった。
「寄せ箸、迷い箸、刺し箸、叩き箸」「借りてくね」
香澄は恵子が読んでいる本を取り上げると、パタンと閉じる。そしてパントリーを走って出て行った。
「読んだら戻しておいてねー」「はーい」
もうパタパタと階段を登る音がする。
「着替えなさいよ。クリーニングに持って行ってあげるから」
「はーい」
遠くなる香澄。まだ聞こえているようだ。
「夕飯まで練習するんですよ」
最後の問いに香澄の返事はなく、代わりにバタンとドアを閉める音だけが聞こえた。恵子は肩を竦めた。
「何かあったのかしら」
理由は判っている。どうせ男絡みだ。
香澄が連れて来た『小野寺先輩』。中学生にしては大人びた印象の子だった。悪い子では無さそうだ。
香澄もピアノも好きそうだし、部活の先輩だと言うのだから、きっと音楽が好きなのだろう。
『音楽が好きな奴に、悪い奴はいない』
急に、恵子は昔、旦那、いや当時は音楽プレイヤー同士、という共通点しかなかった男が、自分を食事に誘う時に言った『セリフ』を思い出した。
「今は何処にいるんだか」
ぼそっと恵子は呟いた。チラリと電話見つめる。
ピアノ教室への電話は、各部屋の電話機で取ることができ、内線番号で転送もできる『最新のホームテレフォン』だ。
一方、夫に教えた電話番号は、寝室に設置された『昔ながらの洒落た黒電話』が鳴る。
それは、実質上の『ホットライン』になっていた。
夫は時差を考えずに、電話をかけて来る。
だから変な時間だと、飛び起きて受話器を取ることも多々。しかし恵子は、それでも『声が聴ける』のが嬉しくて嬉しくて、どうしても『悪い奴』とは、思えないのであった。




