長い日曜日(三十五)
まるで真治が『ピアノを弾けるのを知っている』風に聞く。すると真治は笑顔で頷き、本当の所を香澄に説明する。
「うん。親戚のお姉さんに、教えてもらっていた感じなんで」
真治もそれは否定はしないが、音大を出た先生による『ピアノ教室』ではなく『あくまでも自己流だ』という意味なのだろう。
確かに『自己流』であったにしても、香澄にはそれが『弾かない理由』には聞こえなかった。
何故なら、吹奏楽部の楽器は、音大を出たそれぞれ楽器の先生に『楽器教室』で教わっている訳ではない。
言ってしまえば、ほとんど全員『自己流』なのだ。
「そうなんですか。でも、ピアノ、弾けば良かっったのにぃ」
そう思っているからこそ、香澄は含みのある笑顔で、真治の腕を引っ張りながら言った。
そう言われてもと思いながら、真治も含みのある笑顔で答える。
「いやー、しばらく弾いてないしぃ、『見よう見まねの腕』で弾くなんて、恥ずかしいでしょ?」
「そぉんなことないですよぉ。楽しぃですよぉ」
「んー。それは否定しないけどぉ」
笑顔で互いの目を見たまま、ピアノを『弾く』『弾かない』の駆け引きが続いている。
そもそも中学の教室には、各クラスにオルガンが一台づつあって、朝夕の合唱で活躍中だ。
クラスにも、ピアノが弾ける生徒が何人もいて、休み時間になれば、即席の演奏会が始まることだってある。
しかし、香澄も真治も、学校でその腕前を披露したことはない。
毎日入り浸っている音楽室にだって、グランドピアノやエレクトーンがあるにも関わらずだ。
「もうちょっと、『練習』してからじゃないとねっ」
真治がそう言った瞬間、香澄の目が光り輝く。
「じゃぁ、私のピアノで! 練習して下さいよ!」
そうだっ、この家、ピアノ二台あるんだった。真治はすっかり忘れていた。困った顔をしていると、香澄が言葉を続ける。
「私のピアノも、ベヒシュタインなんですよ?」
真治の目が丸くなった。それは、それはダメだよお嬢さん!
急いで真治が、手を横に振り始める。もちろん顔もだ。
「いやいや、それだと『練習の練習』が必要でしょぉっ!」
慌てて、しかも絞り出すような声で真治が言うものだから、香澄は思わず笑った。そして思う。
どこまでも『気が小さい人だ』と。だから、今日はココまで。
二人は門扉の所で、互いに今日の礼を言い、明日の約束をして左右に別れた。
雨の帰り道の時とは違い、今度はきちんとした『約束』がある。だから二人共笑顔だった。
真治は帰路の道路を渡りながら、真衣の家に向かう香澄の後ろ姿を眺める。長い髪が揺れていた。
真治は思う。いつもと違う香澄を、もう一度だけ、もう少しだけ目に焼き付けたい。
すると香澄は、そんな真治の視線を感じたのか、角の所で足を魅せるように振り返った。
明日も会えるのに。
どちらもそう想うのは間違いない。しばし立ち留まっていた。
そしてそのまま一呼吸置いてから、どちらともなく、互いに手を振りながら、ゆっくりと歩を進めて行く。
それでも名残惜しいのか、歩きながら二人は、少し体を反らした。
直ぐに足、次に背中が見えなくなる。
髪を揺らして、まだ見つめ合っていたが、最後は同時に視界から外れ行く。それでも、どちらも見ることができない右手を振りながら、二人の一日は、静かに終わった。
住宅街のアスファルトから人影が消え、セミの声がした。




